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6.メンチカツ、並ぶ



 岸田はキャリーケースも注文していたが、そちらはまだ届かないようだった。

 それでも外に出たがったわたしを、タオルを中に入れたスポーツバッグに入れて、家を出た。

 わたしはそこから頭だけ出していたが、なかなか快適。わたしの個人的な好みではたぶんキャリーケースよりこちらの方が良い。中身が人だから、色々見たい。


 人通りの少ない路地で自主判断で外に降りた。岸田も止めなかったので、そのまま気持ちの良い道をゆっくり歩いた。


 歩いていると、どこかから現れた茶虎の猫が寄ってきた。首輪がないから、たぶん野良だろう。引き寄せられてきた。むろんわたしにではない。引き寄せたのは岸田だ。


 彼は茶虎の猫に気づくと、当然のように立ち止まってしゃがみこみ、撫でてやる。そうしている時は本当に柔らかな顔をしていて、まるで優しい人みたいに見える。


 本当、この人は人間には厳しいけど、猫にはとても良い顔をする。人の顔は形作る表情でこんなにも印象が変わるのだと、ちょっとした驚きすらある。


 しかしどこの馬の骨、いや猫の骨とも知れない猫をいつまでもいつまでも撫でているので、少し腹が立ってきて、「なー」と鳴いて彼の膝に飛び乗る。


「おわっ」と声をあげた彼と視線が合ったので、静かに「なぁう」としか聞こえない濁った声を出した。


「……え、もしかしてお前、妬いたの?」


 口元を緩ませながら岸田が聞いてくる。ふいと顔を背けた。


「何その態度……」


 軽く吹き出した岸田を無視して無言で膝から降りて、先を進む。振り返って出発を促す声をあげた。


 岸田が「わかったよ、行くよ」と言って立ち上がり、虎柄の猫に「ごめんな、またな」と優しく甘い声をかける。このネコタラシ。


 まるで拗ねた恋人に言うかのように「なぁ、怒るなよ」と言った岸田がわたしを抱き上げる。


 抱っこの気分じゃなかったから少しもがいたけれど、抱き寄せられて、心地良さに抵抗をやめた。岸田は本当に抱っこが上手いのだ。うっとりしてしまう。それに、大人になってこんな風に人に抱っこされるなんてないから、癒されるものがある。


 胸元から岸田の匂いがする。





 日曜日の吉祥寺の街は人間がたくさんいた。


 しばらく買い物をする岸田の鞄に大人しく揺られていたけれど、空腹を覚える。お昼を食べさせてもらおうと、知った道で飛び降りて歩き出す。


「あ、おい、チキンカツ」


「にゃあ」と鳴いて、振り向いてついてくるように促す。


 行き先は決めてあった。あの、いつも人がたくさん並んでいる、有名なお肉屋さんのメンチカツ。今日のわたしの昼ごはんはそれに決まりだ。すでにできていた行列の最後尾につけて、岸田を呼ぶ。彼はぎょっとした顔をした。


「え、まさか俺に、並んで買えと?」


「にー」と鳴いて肯定する。


「俺、並ぶのすごく嫌いなんだが……」


 黙って見つめて足を促す。


「……わかったよ」


 岸田が溜息をひとつついて諦めて並んだ。

 猫にはお金がない。キャットフードはまだ食べる勇気がない。美味しいメンチカツは食べたい。わたしとしても岸田に並んでもらうよりない。


 岸田はひとりでブツブツ「チキンカツのせいでメンチカツに並ぶはめに……」などとしょうもない韻を踏んで不満そうにごちていた。


 そういえば、大学時代に付き合っていた彼氏は、頼んでも絶対に並んではくれないタイプだった。


 ぼんやりと思い出す。

 同じ学科の同級生、出会ったのは猫を観察するふざけたサークル。彼はわたし同様、さほど猫に好かれるたちではなかったし、今思えばそこまで猫が好きだったかもあやしい。緩い名前のサークルに入ることで、女の子との出会いを求めていただけなんじゃないかとも思える。


 別にそれは、そんな人もいるんだろうし、だからといって動物に冷たいわけでもなかったので、そこまで気になることではない。感じがよくて、話しやすい人だった。


 彼とはお互い就職してから卒業後一年で終わった。


 それについてわたしは今までずっと、一方的に自分が悪いと思っていた。わたしは当時仕事のストレスから彼への甘えが多く、すごく我儘だった。彼にいろんな要求をした。だから別れることになったのもわたしのせいだと、そう思っていた。


 だけど、今思い出したことで気になったのは、彼は外で遊ぶ時も絶対に自分の要求やしたいことを曲げなかった。行列に「仕方ないな」と並んでくれることもなかったし、行きたくない場所は笑いながらいくつも理由を述べて却下した。


 優しい人だと思っていた。

 優しい言葉をたくさん持っていて、欲しい言葉をきちんとくれる。口が上手い人だった。だからこそわたしは何かにつけて全て自分が悪いと思っていた。頭の回転が早く、理屈を組み立てて正論にするのが上手い人だったから、言い合いになると最後はいつもわたしが悪者になった。


 でも、急に気付いた。わたしは自分の意見を我儘だと思わされていたのかもしれない。そう思わすのが上手い人だった。

 わたしはあの頃いろんな要求をした。でも全部通らなかったから、結果我儘を言って困らせただけの記憶になっていた。


 優しい言葉はたくさんくれたけれど、本心からかと言うと、今思い出すと疑わしい。

 彼ばかりが悪いわけではない。きっとわたしが言わせていたんだろう。でも、なんだか急に、彼の持っていたと思った優しさ、もらった言葉、それらが全てスカスカのはりぼてのように感じられてきた。


 わたしはずっと、岸田のことは、冷たい人間だと思っていた。理由はなんとなくでしかない。


 でも、わたしは再会してから彼にたくさん優しくされた。それは言葉ではなくて、実際に。岸田は今もこうやって猫の我儘に付き合ってくれている。


 岸田はきっと、優しくないわけではない。

 けれど、きっと彼は人間に優しくするのが下手なんだろう。


 ぼんやり思い出していると、身体が持ち上げられた。行列が進むのに気付かなかった私を、岸田が持ち上げたのだ。


 腕の中は温かくて心地良い。身を寄せてぐりぐりと擦り付ける。岸田は嬉しそうに顔を覗き込む。


「お前、本当に俺が好きだな」


 そうなんだろうか。


 そうかもしれない。


 出会ったばかりのわたし達ではあるけれど、わたしは猫として岸田のことが好きだったし、岸田も猫であるわたしのことが好きだ。すんなり、それが認められる。


 これが人間同士だと、こうはいかない。出会ったばかりで好きなんて言っても、なかなか信用されない。そんなことを言おうものなら、こう言われてしまうだろう。


「お前に俺の何がわかるんだよ」


 これは、わたしが三年間付き合った人に、別れ間際の喧嘩中に言われた言葉。





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