5.明けて、朝
一晩明けて、土曜日の朝。
目が覚めてもやっぱりわたしは猫だった。
夢じゃなかったんだなあという気持ちと、夢の中で目が覚めても猫だった夢を見てるんじゃないかな、みたいな投げやりな現実感放棄。
起き上がって、うんと伸びをする。
この時点でわたしはまだ少し楽観的だった。
弁天様で、眠りの寸前に聞こえた言葉を思い出したのだ。
「戻りたくなったらいつでもここに」
戻った時はいなかったけれど、にゃんてん様のところに行けば、彼女に会えればきっと元に戻れる。だったらさっさと彼女を捜せばいいのだけれど、それでどうなるかというと、また前の状態に戻るだけだ。わたしは前の生活に辟易していた。
特に『会社』その単語にまだ拒絶反応がある。急に猫になるとか、こんなのどうせわたしが現実逃避に作り出した幻かなんかだから、もう少しのんびりすることにする。
ベランダに続く窓から射し込む陽射しが一番心地良いポイントを見つけて、そこに丸くなる。土曜日だし、あともう少し。もう少しだけ。
「え、昨日? ああ……それは、猫が……いや、嘘じゃなくて……吉岡さんに聞いてない?」
少し離れたベッドの上では不機嫌そうなイケメンが困った顔でスマホを耳に当てて誰かと会話していた。
高校時代の岸田について思い出すことは、その偏屈さばかりだった。
けれど、駅前で見かけた彼は、きちんと大人の表情をして、敬語を使っていた。今だって嫌そうな顔はしているけれど、一応ちゃんと相槌を打って会話している。
その変化が大学時代なのか、社会に出てからなのかはわからないけれど、以前とは明らかに変わっていた。岸田も社会に揉まれて丸くなったのかもしれない。わたしと同じように。
「……佐々木さん、前も言ったけど、俺、会社の人と付き合う気ないから、ごめん」
断りの文句もそこまで非人道的でもない。感心した。
スマホのスピーカーからはしばらく、女性の音域の声が長々と流れていた。何を言ってるか、内容まではわからないけれど、勢いのよさはわかる。まったくひるんでいる感じではない。
しばらくうんうん相槌を打ちながら控えめに「いや」と「でも」を繰り返していた岸田がだんだんと苛ついていくのがわかり、ついに声のトーンをひとつ落とした。
「……はっきり言うけどさ、俺苦手なんだよ。佐々木さんみたいなタイプ」
……さすがにはっきり言い過ぎじゃないだろうか。会社で毎日会う人だろうに。
少しは丸くなったかと思いきや、やっぱり本質的には変わってなさそう。聞いていて少しだけハラハラした。
スマホではしばらくまた佐々木さんのターンのようだった。岸田の表情はいよいよ苦々しいものとなっていく。
「……いやそういうことじゃなくて……ブスとか可愛いとかそういう基準のことでなくて……性格が破滅的に合わないと思うんだよ……まったく興味もわかないし、俺のこともだいぶ誤解して見てる」
なんかわからないけど、話が通じてないことだけわかる。相手も相手で、岸田の気遣いのなさなど気にしないたくましいタイプかもしれない。それにしても、『まったく興味がわかない』はハッキリ言い過ぎだし『破滅的に』は余計な装飾だろう。
「いやだから、そういう偶像化された俺に合わせる気もないし……えっ、偶像っていうのは、つまり、理想的なモデルを相手に投影して勝手に被せて……あぁ、もういい」
中二病的な屁理屈を使うところは変わっていない。しかし意思疎通は相手の勢いにやられて撃沈している。
人間って大変そう。
他人事みたいにそう思う。
木漏れ日の心地良さに大あくびをひとつして、そこから先はよく聞いていなかった。
陽だまりの中でうつらうつらと惰眠をむさぼるわたしは猫としての快楽をこの上なく享受していた。
通話を切った岸田はしばらくミニテーブルに小さなノートパソコンを広げてカチカチと何かやっていたが、チャイムが鳴って、そこを立った。
仕事かな? なんとなく画面を覗き込むとそこにはこんな単語が並んでいた。
『猫 洗い方』
階段の下を覗くと一階の浴室の方から扉の開閉音がして、飛び上がる。シャワーが床を叩く音も聞こえる。
「なぁ、からだ……あれ?」
岸田が部屋を見渡して、ベッドの下にいるわたしを発見した。
「……なんで気付いたんだろ。なぁ、出ろよ。昨日のチキンカツのたれが取れてないし……」
自分の全身の毛が膨らんでいる気がする。
岸田が長い腕を伸ばして首の皮を猫掴みで外にズルズルと引っ張り出される。
ベッド下から出たタイミングでジャンプして逃げた。
「待てって! 待てよ! 手荒なことはしないから!」
岸田の寝室は家具が少ない。ひとつだけある小さな本棚の上に飛び乗る。上に乱雑に積まれていた雑誌や小さな文庫本をなぎ倒す。さらに迫りくる岸田の手を逃れてジャンプする。
「ま、待てよ! 本当に……優しくするから! 気持ち良くしてやるから!」
そんなこと言って、お前初心者じゃないか!
絶対に嫌だ! それでなくても、昨日再会したばかりのクラスメイトに身体を洗われるなんて、人間の矜恃と水が嫌な猫の本能の両方が拒絶を示す。
抗議の声を上げて、部屋をしゅるしゅると逃げまわる。
「待てよ、一回だけ……やらしてくれ!」
「ぎにー!」と濁った声をあげる。
なんとか逃げ場を探して、部屋を駆けまわるが、そう広くもない部屋。部屋の扉を出ようとしていたところを塞がれ、捕獲され、あえなく浴室に連行された。
浴室にはもくもくと湯気が立っている。
「あ、急に大人しくなったな。観念したか」
お湯を身体に浴びたら冷静になった。
よく考えたらわたしはつい昨日まではストレス解消に入浴をしていたレベルの風呂大好きな人間だった。そのことを急に思い出したのだ。
「気持ちいいか?」
割と良い。
なぜ、さっきまであんなにも嫌な予感に打ち震えていたのかがわからない。今後は協力しよう。人であることを思い出せば、風呂など、シャワーなど怖くはない。
同級生の男に手ずから身体を洗われるということに抵抗感がなくはないが、今のわたしの身体は女体とは程遠い猫であるから、そこは思い切って気にしないことにした。
昨晩注文したのがさっき届いたのか、なぜかそこにあった猫用シャンプーで背中、お腹、色んな場所を丁寧に洗われる。
身体をタオルで拭かれたあとに、ドライヤーを当てられると、毛がふわふわになった。
「トイレも来たからな」
思わず岸田の顔を見た。どうやら本格的に住まわせてくれるつもりらしい。
猫になってからのわたしの生理現象についてはプライバシーのもと、黙秘させていただくが、トイレは必要不可欠。
「名前つけなきゃな……うーん……」
岸田はしばらく考え込んでいたけれど、やがて「チキンカツはどうだ?」と聞いてきた。
確かに、ペットの名前に食品をつけることは世間ではままあるように感じられる。でもそれはクッキーだとか、ミルク、プリン、トマトだとか語感の可愛いものに限る。
チキンカツは、ない。もやし炒めとか牛丼とかと同じくらいない。どうやらこの男、名前のセンスは壊滅的にないようだ。
「よし! チキンカツ、今日からお前はチキンカツだ!」
最低!
しかし、本人は上機嫌だし、今のわたしは拒絶の言葉を持たない。すがめた目で見つめることしかできない。猫の不自由さを少し知った。
「お前、ほんと可愛いな」
すっかり綺麗になった私を岸田がうっとりと称賛する。
「お前みたいに可愛い子、なかなか会ったことない。いや、いない……かわいぃ」
後半は口調がデレ過ぎて溶けていた。さすがに言い過ぎだと思うが悪い気はしない。にゃあと鳴いてやる。
「俺さ、こう見えて結構猫に好かれるんだけど……部屋に連れて帰ったのなんて、お前が初めてだよ」
それは嬉しい。感謝を示す「にゃあ」をまた返してやる。
「一目惚れだな。お前は?」
わたしにとっては面識があったため、残念ながら一目惚れではない。
「そっか、お前もか」
それでも、そんな事情を知るよしもない岸田はわたしを見て嬉しそうに笑う。
それなら、それでもいいかもしれない。人間ならば、本当かとか、性格はとか、色々な猜疑が付随するが、猫には一目惚れかどうかなんて、些細な問題だ。
好きか、嫌いか、それだけでいい。
岸田は人間世界であったことなど、今だけすっかり忘れているかのように、優しくわたしを撫でる。しかし、スマホを見て何かを思い出したのか、溜息をひとつもらした。
もしかしたら岸田も、わたしと同じように人間が向いてないのかもしれない。