16.岸田頼朝(3)
俺は子どもの頃から、無駄を極端に嫌う性分だった。
時間の無駄。労力の無駄。そんなものを嫌がり、遠ざけて生きてきた。
父方の叔父さんは南米で研究してるから当分、あと何年か帰らない。もしかしたら帰ってこないかもしれない。
彼はある言語について研究をしているが、その言語には疑惑がある。
遥か昔の研究者が研究の進歩として、でっちあげた可能性があるのだ。
実際に使われていた言語ならば、研究の価値はある。けれど、途中で誰かが作った嘘ならば、それを研究するのは全くの無意味になる。生涯をかけて研究するにはあまりに危険な研究対象といえる。
俺はそのことについて、長いこと考えていた。
人生を賭けたものに裏切られる気持ちや、そのリスクを常に感じながら続ける研究の過酷さについて。
そしてずっと、そんなのは無駄だからやめておけばいいと思っていた。世の中には他にも研究すべきものはあるだろう。リスクの少ないものを対象にすればいいのに。人生で無駄なことに注ぐ時間はない。
なぜ彼がそこまでその研究にこだわるのかもわからなかった。
俺自身はさほどの興味の幅がなく、そこまでして得たいものなんて、そうなかった。まず、欲しいもの、その対象が見つからなかった。それを探すことはあったかもしれないし、なかったかもしれない。憶えてない。
悲観的ですぐに諦めて卑屈になる。
母親に評された性格はまったくもってその通りで、俺は始める前から理屈を捏ねて、リスクを回避することに全力を注いでいた。探すのも手間だ。見つけても手に入らなければ無駄だ。手に入ってもなくしてしまえばゼロと変わらない。それはやっぱり無駄だ。
なくさないように、あるいはなくしても仕方ないと思えるものだけを拾って、無難な道を歩いていた。
人と人との関係だってそうだ。全力を尽くして思ったものが返ってくるとは限らない。むしろ返ってこないことの方が多い。それは徒労だ。
だけど、最近は思う。
俺は言語学者でも研究者でもないので、それを研究することはないわけだけれど。最初からそれを研究しない俺の人生が、充実しているかと言うと、怪しい。それをやらないからといって、俺には何もなかった。
無駄を排除した俺の人生は、生活に必要な仕事と、生きるために必要な食事と睡眠の繰り返しだった。余った時間に何をしているのかというと、何も残っていない。覚えてすらいない。そのことに最近気付いた。
無駄を排除した先に残った俺自身は、無駄の塊だった。
研究に限らないけれど、たとえ徒労に終わったとしても、何かを信じて身を捧げた経験がある方が、今の何もない俺よりはよほど尊いだろう。
なんだっていい。もっと小さいことだって、他人からみたら当たり前のことだって、心をまっすぐそれに没頭させている瞬間そのものが、俺にはほとんどなかった。
だから、もしそんなものが手に入ったとしたら、全てなくしてしまったからといって、その日々を無駄だとは思わない。
最近彼女と話していたら、高校の頃、授業中に窓から見える青い空を見るのが好きだったことを思い出した。思い出のエピソードですらない、瞬間的な記憶。
なんでもない瞬間のささやかな感動は、今でもなぜだか胸に残っている。
うちにいた猫のことだってそうだ。
もともと猫は好きだったけれど、猫は先にいなくなる。それがわかっていたから、家を出てからもずっと飼う気にはなれなかった。
だけど、あの子がいなくなってしまったからといって、飼わなければよかったなんて、思いたくない。あれは俺にとって、貴重で代えがたい日々だった。
何を話したわけではないけれど、日常が、いつもとは違ったものに変わった。何かを前に進められたわけではないけれど、そこにある一瞬が何度も輝いた。
だからいつかまた、猫と暮らそうと思う。
でも俺は、本気で好きになった猫としか、暮らさない。
人間もきっと同じだ。




