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15.やっと始まった



 仕切り直してまた一ヶ月。

 岸田がわたしを拒絶することはなくなった。

 もう困った顔もしない。わたしと岸田の関係はきっと、やっと始まった。


 とは言っても、岸田に大きな変化はない。拒絶と困った顔をやめただけで、過剰に愛を囁くわけでもなく、たんたんと、過ごしている。

 でもひとつ、気になってることがある。

 岸田はわたしの前でお酒を飲まなかった。


 わたしは岸田が酔ったところは見たことがあるけれど、饒舌になる程度であまり変わったところはないように見えた。何杯飲んでもその程度の変化しかないので、比較的強い方だと思っていた。


 その日も、井の頭公園のベンチで隣り合ってコーヒーを飲んでいた。コーヒーは美味しいけれど、お酒も飲みたい。岸田と飲みたい。


「岸田と、お酒飲みたい」


「……え」


「岸田、お酒飲める?」


「飲めるよ」


「じゃあ、どうせまたよくわかんないこと考えて嫌がってるんでしょ」


「俺のことよくわかってるんだな……」


「わからないよ!」


 言われた言葉に反射で返すと、語気が強かったせいか、岸田が少しびっくりした顔でわたしを見た。


 岸田のことは、二ヶ月と少し一緒にいた分、それからその後会ってから知ったこともある。でも、何年いたって、きっとわからないことはある。心の奥深くなんて、わかりようがない。


「わかんないけど……でも、岸田のことは好きだよ」


「……」


「それじゃ、駄目かな」


「駄目じゃないけど……」


「けど?」


「俺は、知ってもらえると、嬉しい」


「……うん」


 岸田は、柔らかく微笑んだ。

 それから何がおかしいのか、ちょっと笑ってから言う。


「でも俺、酒飲むと、普段言わないようにしてるような……思ってることぽろぽろ言うから。それで振られたことあるし……酒はやめておく」


「え、そうなの? 何言ったの?」


「記憶はないんだけど……酷いことを……いや、やめておく」


「えー、知りたい」


「言わない」


「なんで」


「……相手に悪いだろ」


「振られておいて?」


「振られても……」


「うん」


 なんだか高校時代を思い出してちょっと笑えた。岸田は頬杖をついてぼんやり話す。


「俺は俺なりに、大事に思ってたつもりだったけど……もしかしたら、関係を壊したくないだけだったのかもしれない」


「んん?」


「大事だったのは維持したい関係性で、相手じゃなかった。それがバレたんだろ……」


 岸田が何を口走ったのか、教えてもらうことは、できなさそうだけれど、以前酒に酔って兄相手にこぼしていた「どうでもいい相手と結婚したい」などの酷い情報から大体推測できる気もする。


「そっか、じゃあお酒は悪くないね」


「えっ」


「これからずっと一緒にいるんだし、岸田、飲めないわけじゃないんだから、一緒にお酒くらい飲みたいよ」


「……」


「飲もうよ」


「……」


「よし行こう」


 さっと立ち上がる。ぶらぶら歩いて、七井橋通りに昔からある焼き鳥屋さんに入った。


 お酒って、いくら飲んでもまったく酔えないような時もあるけれど、ほんの二、三杯でおかしなくらいまわってしまう時がある。

 岸田はかなり慎重に、酔わないように飲んでいたようだったけれど、なぜか三杯くらいで、わたしの名前を連呼するようになった。これは面白い。


「留里」


「はい」


「うん」


 実に無駄な応答。


「留里」


「うん」


「ありがとう」


「何が?」


「……ありがとう」


 岸田はテーブルに突っ伏してしまった。まともな答えがないので、目の前の焼き鳥を食べた。ハツが好き。


「可愛くて……ありがとう」


 続けて口に含んだビールを噴出するところだった。


「岸田? 何言ってんの」


「留里」


「それはもう聞いたよ」


「留里」


「頼朝」


「頼朝です」


 なんで敬語になった。


 お店を出た時には岸田はちょっとふらついていて、わたしに寄り掛かるようにしていたけれど、やがて、半分おぶさるかのように体重を預けてきた。


「重いなぁ」と言うと少し軽くなった。どうやら歩けないわけではないらしい。だとすると、くっつきたいだけかもしれない。


「留里……」


「うん」


「留里」


「はいはい」


「留里……好きだ」


「うん。わたしも好き」


「好きだ」


「知ってるよー」


「すげえ好き……」


「そうなの?」


「一緒に住もう」


「え、あそこで?」


「叔父さんは、いつか帰ってくるかもしれない……帰ってこないかもしれない。でも、なるべくいて欲しいと言われている。俺もあの家が好きだから、できるだけ住みたい。いつか出ることになるまで、あの家で一緒に暮らして欲しい」


「出ることになったら?」


「その時は、一緒に新しい家に住んで欲しい」


「……酔ってない時にまた聞かせて」


「俺は酔ってない!」


「酔ってるだろ!」


「酔ってないだろ! 一緒に住む!」


「その言葉、忘れんなよ! 酔っ払い」


「俺は酔ってない!」


「……いいよ」


「うん?」


「わたし、岸田がいれば場所はどこでもいいし……」


「……」


「それに、岸田のごはん、もっと食べたい」


「うん」


「それから、岸田の洗濯物干したり、風邪の時看病したい」


「……うん」


「……」


「ありがとう」


 月が出ていた。

 夜の公園は森みたいだと思う。


 遠くで低い植え込みがガサガサと揺れる。何なのかはわからないけれど、小さな生き物の気配。くっついたまま公園を歩いて、しばらく黙っていた岸田が口を開く。


「留里にすればよかった……」


「何が?」


「猫の名前……ずっと、似合わないと思ってたんだ……でも、思いつかなくて……」


「……」


「留里……ごめん」


 岸田の謝罪は、何に対してなのか、わたしに対してなのか、一緒にいた猫への謝罪なのか、まったく見当がつかなかったけれど、それでも「うん」とだけ答えておいた。


「留里」


「うん」


「留里」


「はい」


「……」


「ねえ、岸田……ありがとう」


 わたしはもう、「にゃあ」と鳴くことはできないけれど、ここにいるよ。




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