12.怨霊
岸田頼朝は高校時代の同級生だ。
意地悪そうな顔で、人嫌いで横暴。妙に猫に好かれる元クラスメイトだった。
高校の中庭の端でぼんやり立って、スマホをいじっていた岸田のそばに、どこかから入り込んだ野良猫が一匹、寄ってきていた。
生温い風が吹いていて、校舎の木の枝が少しだけ揺れていた。
岸田がポケットにスマホをしまい、猫を抱き上げる。
節くれだった無骨な長い指が、柔らかな毛並みに埋まるところから目が離せなかった。
わたしはその時、岸田の唇が言葉を吐き出す形を記憶しているし、猫を見つめる瞳の温度から、柔らかな身体を抱く指の形だって、覚えている。
わたしはたぶん、その時に恋をした。
その恋は一度まぶたを開けて始まって、瞬きのように閉じられたまま、ずっとそこで止まっていた。
長くその状態でストップモーションのように止まっていたそれが、動き出したのは、数年後の吉祥寺駅で。
わたしはその時猫だった。
*
恋の始まりから十年あまり経過した。六月の井の頭恩賜公園。初夏の夜。
わたしは岸田に抱きついて泣いていた。
これが猫なら抱きついて鳴いても可愛いものだが、今は立派に人間。控えめに言って、怨念。いや通り越して怨霊みたいだった。
岸田。そこらの悪霊より粘着力と怨念力の強いのに好かれた。もう逃げられない。かわいそう。他人事のようにそう思う。
怨霊にしがみつかれた岸田はぴくりとも動かない。拒絶も受容もしないまま、硬い樹木になったかのようにそこに立っていた。
わたしは少し泣いたら、鼻面に岸田の匂いがある状態で冷静になってしまい逆に焦った。
見上げると、正面から岸田と目が合った。
そして、目が合うと岸田は目を丸くした。
顔がものすごく近くて、呼吸が止まりそうになる。
岸田の瞳、こんなにまっすぐにごく近くで見たことはあっただろうか。わざわざ記憶はしていないけれど、わたしはそこから目が逸らせなかった。初めて見たような、ずっと知っていたような、不思議な感覚だった。
そのまま、ゆっくり近付いて、影が濃くなる。
どんどん濃くなって、闇に近付いていく。
それはやがて、緩い体温を伴って、完全に影と重なった。
ひんやりした風が吹いている夜だった。
公園の樹々の音がガサガサ聞こえる。
どこか遠くで、鳥が鳴いた。
ふっ、と触れていたものが離れた感触で、それが完全に重なっていたことを知る。
「岸田」
「うん」
「今、キスしたよね?」
「……うん」
その顔を見て思う。これ絶対、うっかりしちゃったやつ。だって、あからさまに「しまった、やっちゃった」って顔してるもん。この野郎……。
「舞原、その……」
「まさか、これで改めて振るとか……ないよね」
「……」
「さすがに、それはないと思うんだ」
「……」
「これで振られたら、わたし……男性不信になってこの先、生きていけないかも。そういう意味では精神的にお嫁にいけなくなったかも」
「……」
「あ、すごい絶望感。もう生きていたくなくなってきた……何もかもどうでも……あ、こんなところに池がある」
「わ、わかった!」
「わかったじゃないよ! 岸田、言うことあるでしょ」
「…………俺と付き合ってください」
「うん! よろしくお願いします!」
元気良く答えたあと、違和感に気付く。
「え、結婚じゃないの?」
「……そこは、さすがに……舞原が嫌になるかもしれないだろ」
「……岸田」
「……どうなるかわからないし」
「きーしーだー」
「……前向きに検討する」
「うん! 前向きにね。後ろ向くなよ」
心配だな。こいつ基本的に思考が後ろ向きなんだよな。
「……でも、舞原がそんなに俺に対して本気に思う理由がないだろ」
ほらもう後ろ向いてる。
「岸田はなんで駅前で声かけたの?」
「なんとなくだよ」
「なんで今日呼び出したの?」
「うっかりだよ……」
「なんでキスした」
「それも、うっか……えっと」
さすがにそこをうっかりにするのはまずいと思ったのか、言い淀む。睨み付けると気まずそうに口を閉じた。
「岸田、前向きにね」
「……あぁ」
だいたい、こいつはやってることと言ってることがちぐはぐなんだ。再会した時だって、自分から声かけておいて。今日だって呼び出しておいて。キスしておいて。無理だとか、言動が全部逆じゃないか。
ただまぁわたしは岸田の七面倒くさい性格はだいぶ把握できている。全部とはいえないが、本気で嫌な時は態度と言葉ではっきり出すところは変わっていない。だから大丈夫。
「じゃあ、帰ろっか」
「え?」
「あ、帰れないんだった、岸田んちだね」
本当はうっかり岸田の家に帰る意味で言ってたけど、上手く誤魔化した。今日はわたしも岸田も、うっかりしてばかりだ。
わたしは人間の岸田の手を、人間のわたしの手でがっちり掴んで歩き出す。
猫のわたしと岸田みたいな関係には、当分なれないかもしれない。そして、似たものになれたとしてもそれはやっぱり違うものだろうとも。
でも、わたしは急がない。時間さえあれば、きっとなんとかなる気がしている。
時間はたくさん必要だ。
これは、うっかり結婚までしてもらうよりないだろう。




