11.夜の公園
仕事のミス。でも自分のじゃないから気持ちは楽。他人のミスだと謝るのも、リカバーするのもさほど苦にならない。他人のミスのリカバーに燃えるタイプの熱血漢もいるので、雰囲気が悪くならない。
それにしても、すごく遅くなってしまった。
精神的にはそうでもないけど肉体的にはかなりげっそりした。次の日の土曜日に午前出勤すれば終わる量を、次の日を休みにするため、あえて遅くまでやった。
「お疲れ様」と言い合って、終電間際に会社を出た。
頭にぼんやり思う。
岸田。
岸田成分が足りない。
駅に向かいながら電話をすると、すぐに出た。わたしは空気中の電波に感謝しながら岸田の発する「あぁ」とか「うん」とか「そうか」などを聞いた。それだけでだいぶ満たされた。
「じゃあ、駅ついたから」と言うとびっくりしたような声が聞こえた。
「え、今から? まだある?」
「うん……たぶん。これから帰るとこ」
「舞原、家どこだっけ」
「ずっと国分寺だよ。親が家売って自分の地元に引っ越したから今はアパートにひとり暮らしだけど」
「ふうん……そうか」
「うん。それがどうかした?」
「……うち、来れば?」
確かに吉祥寺の方が若干近いけど、電車に乗るならあまり意味がない。一瞬素直に「え、なんで?」と出そうになったのをごくんと飲み込んで、「行く。寄る」と即答した。
井の頭公園駅の方で降りてと言われて、改札を出ると、岸田はもうそこにいた。
「あ、スーツだね」
「俺もさっき帰ったとこだったから」
「え、じゃあせっかく家ついたのに、また出たの?」
「近いから、気にしなくていい」
少し遠まわりして、コンビニでお弁当を買って、住宅地をふらふらと歩く。
なぜだ。今日の疲れが全部吹っ飛んでいく。
充実感しかない。頬が緩みまくる。
「公園、ちょっとだけ歩きたい」
家の前まで着いてそう言うと、岸田は玄関に買った荷物とわたしの鞄だけ入れて、また施錠した。
「暗いね」
夜の公園は昼とは違った顔で、昼間の鮮やかさはないけれど、ひんやりした風が心地よく気持ちいい。岸田といるから特に、素敵な風景に見える。
「さっき……」
唐突に岸田が口を開く。
「衝動的に、言ってしまったんだけど……本当に来ると思わなかった」
さっきの電話の「うち、来れば?」というやつだろうか。確かに、よく考えたら付き合ってもないこの関係性で急に夜に家に呼ぶのはおかしい気もする。
どうも岸田は「衝動的に」呼んでしまったらしい。
後先考えずに呼んでしまったので、この後どうするか、少し考えてしまっているんだろうか。歩きながら窺うと、少し後悔しているようにも見えた。
「え、なんだ……来ない方がよかった?」
「そんなことない……いや、呼んでおいて悪い」
「……」
「舞原に、会いたいと思ったんだ」
ボソボソと言う岸田には猫の時に見せてくれたような明るさはない。むしろ暗かったし、なんだか少し申し訳なさそうにも見える。
「嬉しい」
そう言ったけれど、岸田の表情は余計に曇った。
「でも俺は、なんていうか、舞原が思ってるような奴ではない……と思うんだ」
わたしが思っている岸田。岸田の認識するそれは、おそらく高校時代のそれで、その頃彼をどう思っていたかの感覚を、わたしは既に忘れつつある。
「じゃあ、どんな奴なの?」
「……なんだろ。もっと、面倒くさい……」
「それは知ってるな」
岸田は「あ、そうか」と言って小さく笑う。
「それとは少し違う……いやむしろ正反対に、俺は重い……だから……」
「だから?」
「今なら、まだ……」
岸田は唐突に珍しく、何かを伝えたがっていた。
けれどそれは岸田の中でもまだはっきりと言語化されていないらしく、直感をただ言葉にしただけのような、たどたどしいものでしかなかった。
そしてそれは夜中に呼び出されて一緒に公園を歩いているこの状況とは壮絶に不似合いな拒絶を孕んで感じられた。
胸の中に、不安の塊の雲みたいなものがもわんと出現する。
会って、歩いているどこかの段階で岸田のテンションが変わってしまっていた。
岸田は自分の呼び出しに簡単に応じたわたしを見て、何かの危機感を感じたのかもしれない。だから呼び出しておいて、急いで別れの言葉をぶつけようとしているようにも見えた。
それは、わたしが嫌いとかではなさそうで。だけど、関係を前に進めることは確実に拒んでいる。
「舞原、ごめん、やっぱり……俺は……」
唐突に謝り出した岸田に、今度はわたしの危機感が別方向に膨れ上がる。
まずい。
面倒くさい岸田が、面倒くさい謎の理由で、本格的に面倒になる前にわたしを排除しようとしている。というか、終電終わってるのに、夜に呼び出しておいて振るとか、この後どうするつもりなんだよ。
「岸田!」
大声をあげたわたしに、岸田が足を止めた。
「知ってただろうけど、わたし、岸田が好き」
岸田は、困った顔でまっすぐわたしを見た。
「ごめん……俺の方は、無理そうだ。やっぱり、付き合えない」
「なんで? わたしのこと嫌い?」
「いや……」
岸田は嫌いなら、それに準ずることをはっきり言ってくれるタイプだ。けれど、この歯切れの悪さは違う。そもそも嫌いな奴を夜中に呼び出したりはしないだろう。
「もう少し、俺の個人的な事情というか……上手くいかないと思うんだ」
「じゃあ、やだ!」
まったく引き下がらず秒で返したわたしに岸田が「え」と小さく声を上げた。
「わたしは岸田が本気で好き」
「……俺は無理」
「無理じゃない!」
「俺が無理だよ」
「わたしは無理じゃないの!」
「無理だっての! お前ひとりで恋愛するつもりかよ!」
「わたしが頑張るから! だから無理じゃない!」
「いや、駄目。なんかお前は絶対駄目!」
夜中の公園の中心部。ふたりとも我の強い本性が露出して、興奮でどんどん声が大きくなっていく。
「急にそんなの、納得できない!」
もう大人の自分などカケラもいない。岸田に恋をしていることだけ違う、あの頃の自分のまま、声を張り上げる。
「岸田、売り言葉に買い言葉で張り合って強情になってない?!」
「なってない! なってない! もうはっきりわかった! 俺、お前だけは絶対無理!」
「明らかに意地なってるじゃん!」
「なってない!」
「じゃあなんでどんどん言葉が強くなってるの! 呼び出しておいて!」
「だから、それは今気付いたんだよ!」
「だからなんで! はっきり言ってよ!」
「そんなの言えるかよ!」
「言うまで諦めない!」
岸田が怒った顔で息を吐き出した。きっ、とこちらを睨み付ける。
「……じゃあ言ってやるよ! お前みたいな奴! 急に現れて……どうせ急にいなくなるんだよ! 俺はもっと、いなくなってもどうでもいい奴じゃないと無理だっての!」
「……」
「……」
「え……」
何その愛の告白。しかも悲しい。
自分でもわからない感じに涙が出た。
岸田はなぜだか傷付いた顔で、わたしから目を逸らした。
夜の沈黙が、風と一緒に流れていく。
わたしの涙も風で乾くかと思いきや、また追加で来て、鼻をすすりあげた。
「やだ!」
「……」
「わたしは、岸田がいい!」
売り言葉に買い言葉だったのは、むしろわたしの方で、すっかり熱くなったわたしの口は、絶対に言うはずではなかった言葉をぽろぽろとこぼし出した。
「岸田が好きなんだよ……」
いや、言うとしても、もっと軽い、怨念の低い感じにと思っていた。
「き、岸田じゃないと、いやだ……」
こんな、泣きながら、怨念まみれの言葉を吐く予定ではなかった。
「岸田と、い、一緒にいたい」
「……」
「岸田が好き……岸田と毎日一緒にいたい……」
それなのに、口から出てくる重い言葉が止まらない。
「岸田、好き。お願い……わ、たしと……」
「……」
「……わたしと結婚してください!!」
わたしは帰れないこの状況で、付き合ってもない男にメガトンハンマー級に重たい告白をぶちまけて抱きついた。




