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9.試着室の彼女


 新しい服を買った。最近買い過ぎじゃないかと思わなくもないけれど、ここ数年ほとんど買ってなかったからよしとする。


 わたしはもちろんそれを着て岸田と会った。

 岸田はもちろんそれに対して何かは言わない。そんな軽口が言えるような奴ならこんなに拗らせていない。だから最初から期待はしていない。


 ただ、待ち合わせ場所でわたしを見た岸田が見せた一瞬の顔、それに既視感を覚える。どこかで見た、印象に残る顔。でも、思い出せない。


「岸田、それ似合うね」


「え、どれ?」


「その……名前わかんないけど、ジャケットの下に着てるやつ。なんか色と生地が岸田っぽくていい」


「そうか?」


 岸田は言わないが、わたしは言う。だってずっと、思っても伝えられなかったから。

 岸田が寝ぼけてシャツを裏返しに着ていた時も教えられず、彼はそのまま会社に行った。帰ってきた時は直ってたので、どこかで気が付いて「いやーん恥ずかしい」をやったのだろう。


 言葉はない方がいいと思っていた。言葉は誤解を生むし、あるが故の伝わらなさ、はがゆさだってある。岸田とは、言葉がなくても幸せだった。


 でも、言葉があることで、くだらない、小さなことを伝えられるのも、とても楽しいことだった。


「岸田、岸田、見て見て、猫」


「えっ、あぁ」


「岸田がいれば逃げられない、行こう」


 わたしの言葉に岸田は苦笑いしたけれど、否定はしなかった。

 猫はわたしに気付くと耳をぴんと立てて目を丸くしたけれど、背後の岸田を見て、そのまま寄ってきた。


 岸田が優しい顔でしゃがみこみ、顎の下を軽く撫でる。


「すごいね……」


「何が?」


「なんで、岸田には懐くんだろう」


 心底不思議に思ってこぼしたわたしに、彼は答えた。


「子供の頃、井の頭公園の池縁に嵌ってたやたら大きな猫を助けたことがある……そこから猫に好かれるようになった」


「何それ、猫の恩返し?」


「じゃないかなぁと思ってる。それまでは普通だったから」


「そうかもねぇ」


 笑いながら冗談のように同意したけれど、それ、たぶん白い猫じゃないかな、と思う。


 猫が岸田の膝に飛び乗ってくる。そのご利益、わたしも欲しい。でも、もうもっと大きいの叶えてもらったしな。


 それに、わたしは猫が好きだけれど、猫と岸田を見るのはもっと好きだ。岸田は猫がすごく似合う。猫の前ではすごく解けた顔をしているし、この人の素はたぶんこちらで、人間の前ではいつも気を張っている。


 今日は特に予定は立てなかった。

 コッペパン専門店でいくつか買って、街をぶらりと歩いてまた公園に行った。


 池の近くまで行くと、ふたりでスワンボートに乗っている男性二人組が見えた。

 ふたり共とても人相が悪く、辛気臭い顔をしていて、麻薬の取引でもしてそうな雰囲気だった。わざわざ可愛いボート乗って、何やってるんだろう。見てるだけでわくわくする。その奥にはカップルのボートも見えた。


「……岸田、ボート乗る?」


「え?」


「わたし、乗ったことない」


「……俺は子供の頃に家族と乗ったな」


「乗ろう」


 公園にはボート乗り場がある。岸田と一緒にそこに入った。ボートは三種類。スタンダードな手漕ぎボートと、屋根が付いてるサイクルボート、白鳥の形のスワンボート。


「わたし、スワンボートがいいと思う」


「えぇ?」


「え、他のがいい? あれが一番愉快だと思うんだけど」


「なんで愉快さを最優先させるんだよお前は……」


「ほかになんかある?」


「……なんていうかな……ロマンとか」


「え? うーん……あぁ!」


 そういえばカップルは、手漕ぎのローボートに乗ってることが多い。確かに、デートだと、そっちの方がそれっぽいかもしれない。岸田はデートっぽさを気にしてくれたらしい。なるほど。


「よし、スワンボートだ!」


「待て。俺は普通のがいい!」


 仕方なく、ふたりで手漕ぎのローボートに乗った。でも、十分愉快だ。


「これ、乗るとカップルが別れるってジンクスがあるよね」


「弁天様が嫉妬するってやつ?」


「え、そうなの? それおかしくない? 弁天様、縁結びの神様でもあるのに変じゃない?」


「え? 弁天様って金運じゃないのか?」


「金運、武芸上達、縁結び、なんかいろいろご利益あったよ……」


「縁は結ぶけど、既に結ばれてるのは切るとか……」


 なんだその支離滅裂な神様は。弁天様はそんなことはしない。単にほとんどのカップルは別れることが多いからそう言われるだけだろう。それに、その理屈ならわたしと岸田はまだ結ばれてないから大丈夫だ。


 いいお天気だ。水面に光がきらきらしているし、ボートを漕いでる岸田も素敵だと思った。岸田といると、いつも頬が緩んでしまう。



 岸田とは仲良くなっている。でも、進展はなかった。岸田はわたしの気持ちを知ってはいるわけだけど、それでもはっきり「付き合って欲しい」とは言い出せなくて、なかなか前に踏み出せずにいた。

 せっかく言葉で言えるようになったから、本当は思うさま伝えたい気持ちもあったけど、失敗すると全部無になると思うと怖い。


 岸田の方も拒絶するでもなく、前に進めようとするでもなくで、なんとなく週末の逢瀬が重なっていく。


 少しは好きになってもらえているんだろうか。不満とまでは思ってなかったはずなのに、陽が陰ったのにつられたように、ほんの少しだけ胸に陰りがさした。


 帰りの駅に向かう途中、岸田がわたしに声をかける。


「舞原、服、汚れついてる」


 岸田がわたしの新しいワンピースの肩口を指して言う。どこかに寄り掛かったりして擦ったのかもしれない。白墨っぽい壁のカスみたいなものがついていた。


「うわぁ、あー……でも取れる。よかった」


「その服…………」


「うん?」


「なんでもない」


 そんな会話をして、駅に着く。


 帰り際に唐突に思い出した。

 今日会ったばかりの時に岸田が一瞬だけ見せた、どこかで見覚えがあった顔。


 あれは、わたしが買ってもらった首輪をつけた時の顔。


「すげー似合う」


 そう言って口元で笑った、試着室から出てきた彼女に見せればいいと思った顔だ。あれと、すごくよく似ていた。


 気のせいかな。

 でもなんだか胸がムズムズする。



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