3.岸田頼朝の家
岸田のコートの内側で揺られて徒歩十分ほど。
辿り着いた家は、位置的には吉祥寺駅の隣にある井の頭公園駅からすぐの場所。雰囲気のある木造の一軒家だった。
特別大きくもないし、新しくもないけれど、腕のいい大工さんが丁寧に建てた、そんな感じの家。二階建てで小さな可愛い庭もついている。玄関と反対側は公園とかなり近い。いい場所だった。
表札は『岩瀬』となっていたので、彼の実家や、持ち家ではないのかもしれない。そこらへんの細かい事情は猫なので口に出して聞くことはできない。
岸田は鍵を開けて玄関に入ると、わたしを床におろした。そして廊下の電気をつけてからわたしを見る。目が合うと、しゃがみこんだ。
「お前のおかげで早く帰れたよ」
苦笑いしながら耳の裏を撫でられて、とても気持ちいい。それから、岸田が温かい濡れたタオルを持ってきて四本の足先を拭われた。
「俺ちょっと出てくるけど、いたずらするなよ」
岸田は伝わるかわからない注意を律儀にしてスーツのまま、また外に出ていく。わたしは頭をぶるんとひと振りして、廊下をトコトコと渡り、室内を見渡した。
階段や扉の配置、壁紙、全て統一感がある。どことなく可愛い感じのレトロさと、野暮ったくないお洒落さを感じるデザイン。一目見て好きになった。
あれだけ猫に好かれる岸田。先住の猫などいたらどうしようかと思っていたが、幸いなことにその気配はなかった。
そして同居の人間の女性なども見る限りいなさそう。あいつ、偏屈だったからなぁ。色々幸い。
疲れた。しばらくリビングのソファでまるまっていると、玄関で音がして、どこかに行っていた岸田が戻ってきた。
持っていたコンビニのビニール袋に手を突っ込んで、猫缶を取り出して言う。
「ほら、お前も食えよ」
見てると彼はきゃぱ、とそれを開けて、目の前にコトンと置いた。
物悲しい気持ちになった。
猫にあげるんだから、猫缶は正しい。
もしかしたらこれは、ごちそうなのかもしれない。
しかし、わたしは数時間前まで人間だった。
これをぱくぱくと食べる気にはなれない。まだそこまで切り替えられない。
缶の中身に鼻面をくっつけて、匂いを嗅ぐ。薄い魚の風味の香り。空腹に食欲をそそられた。
しかしやはり、わたしの人間の感覚が邪魔をする。
「食べないのか?」
こちらを見る岸田に、思わず目を瞑り首を横に振った。
少なくともまだ、他に選択肢のあるうちは食べる気にはなれない。
わたしはソファで弁当を食べ始めた岸田の膝に鼻面をふんふんと近付ける。
「え、これ? 猫には味が濃いぞ」
普通の猫には濃いだろうけど、わたしは普通の猫じゃないんです。身体は猫でも心は人間。人間は酒や煙草やジャンクフード、身体に悪いものも、好きに食べる権利があるんです。
割り箸に持ち上げられていたチキンカツの端をぱっと咥えて奪い、部屋の端にしゅっと逃げた。
「あー!」と声が聞こえたけれど、気にしない。美味しい。人間のご飯美味しい。空腹にしみる。
すぐにぺろりと食べてしまって、おかわりをもらいにいく。岸田は苦笑いしながら「今日だけだぞ」と言ってプラスチックの蓋に大きめのチキンカツを置いてくれた。自分の食べる分がなくなるのに、こいつ、本当に猫には優しい。
今度は端には行かず、わたしはその場ではぐはぐと肉を咀嚼した。
わたしの心は人間だけど、心なしか肉を食べてる時にすごく野性的な快楽を感じる。身体が猫のせいなんだろうか。
食べ終わったら少し落ち着いた。岸田が深めの皿にお水をたっぷり入れてくれて、それを飲んだら少し落ち着いた。
「お前はどこで寝る? 毛布とかあったかな」
岸田が立ち上がる。廊下を抜けて階段を上がるのでついていく。ひとつの扉を開けて入っていくので覗き込んだ。こちらは寝室のようだ。
ベッドと小さな机にノートパソコンがひとつ。
岸田がクロゼットを開けて中を覗き込む。中は簡素な部屋とは対照的にランタンとか、テントなどのキャンプギアや、巨大なスピーカー。縦に重なってるけどたぶんレコード。よくわからないオブジェ。そんながらくたが所狭しと埋まっている。
「あれ、なかったかな。叔父さん捨てちゃったかな」
わたしはさっさと岸田のベッドに飛び乗って、掛け布団に潜り込んだ。
「あれ? ……もう、そこでいいか」
クロゼットの中のものを散乱させていた岸田が振り向いて言う。そして、物を中に戻した。
布団は知らない男の匂いがする。でも、嫌いじゃない。暖かで、眠くなる。
たぶん色々考えなければならないことはあった。いや、たぶんじゃなくて確実にたくさんある。
なにしろ猫になってしまったのだ。
これがもし夢じゃなくて現実ならば、肉親、友達、あと会社、そんなものとの関わりが困ったことになる。
父は定年を期に自宅マンションを売って郷里の長野に引っ越した。そちらには年末年始に顔を出したばかりなので、少し連絡がなくても心配はしないだろう。もともとそこまでマメに連絡を取ってはいない。
友達も、仕事を始めてから没交渉になった子が多い。忙しくて会う暇もなかった。どれくらいこの状態が続くのかはわからないが、少しならばさほど問題はない。
一番の問題は会社。
会社のことを考えたら、少し思考にもやがかかったようになった。
わたしは社畜だったのかもしれない。わざわざ調べたこともないので明確な定義がわからず、もっと酷い会社に文句も言わず勤める人の話を聞いて、自分は違うと思おうとしていた。
もっと酷い会社はある。もっとしんどい人はたくさんいる。だからこれは普通。そう思ってたんたんと仕事をしていた。
あまり休めないのも普通。残業代が出ないのも普通。たまにパワハラにあうのも普通。他人のミスの責任を押し付けられるのも普通。大人の社会とは、会社とはそういうものだから。何もかも当たり前で、それに疑問なんて抱かずに勤めるのが大人だと思っていた。
本当はいろいろなことを考えたくなかっただけかもしれない。心が疲れていた。
わたしはこうなってほんの少し、反発心にも似た疑問を抱いた。あれは本当に普通なんだろうか。
それでも会社には行かなくてはならない気がしていた。それはもう反射みたいな思い込みで、焦りに似ていた。
だから頭の表面では一刻も早く人に戻らなければならないと思っているのに、心の一部がそれを拒否している。まだこのまま、この夢に逃げていたい。人間は疲れる。
わたしは考えるのをやめた。
とりあえず、とりあえず今日は猫でいい。猫のままでいたい。寝よう。
ウトウトしていると、シャワーを浴びたらしい岸田が簡素な部屋着姿でベッドに潜り込んできた。口元の緩みきった顔で背中を撫でられて、腕の中に潜り込んだ。
温かい。なんだか安心する。
そうだ。きっと。
この腕の中にいる時は、けだもののように、今のことしか考えなくていいんだ。