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5.井の頭自然文化園


 少し早めに行った待ち合わせ場所に、岸田は先にいた。

 岸田は時間には遅れないタイプだし、単に近いからだろう。それでも、五分早く会えたことに喜びを感じる。


 近寄って顔を合わせた岸田はどことなく困った顔をしていた。わたしも、微妙にどんな顔をしていいのかわからないところはある。


「その、うぐいす色? のジャケット、岸田にすっごく似合ってるね!」


 猫の時からずっとずっと思っていて、なのに伝えられなかったことを意気揚々と言う。


「そ、そうか?」


 褒められた岸田の反応は悪い。でも気にしない。岸田だし。人間に対して岸田が素直によい反応を返すはずがないのだ。伝えられて満足したわたしはさっさと歩き出す。


「岸田、何か見たい?」


「……なんでもいいよ」


「え、じゃあわたし、ヤマネコ見たい」


「それでいい……」


 なんだか妙なテンションだなと思った。

 岸田は会社の人、たとえば保科さん、佐々木さんにだってもう少し気を使えていた。こいつはもっと一般的な大人の対応ができるようになっていたはずだ。だけど、今ここにいる岸田は変な感じにつっけんどん。でも、口調の温度はそこまで冷たくない。だから少し妙な感じ。

 

 でもそれはわたしにしても、同じだった。

 今はもう少し、ちゃんとした大人の対応ができるのに、岸田の前ではそれができない。まともな社会人の顔を出すのが、逆にちょっと照れ臭いのだ。調子が狂う。


 実際はそれぞれもっと大人になっているのに、少しだけお互いの知っている思春期の頃のふりをしているみたいだった。

 別にそれを求められてるわけでもないのに、同一人物とわかるための答え合わせみたいにそれをわざわざ出して見せている。


 岸田は少し後ろからついてくる。

 だいぶ気のない返事を返されたが、語調は高校時代のそれより柔らかい。それに岸田は元々歩くのがかなり早い方なので、これは、合わせてくれている。あの頃のふりをしたって、何もかもが、少しずつ違う。


 わたしはただ歩いているだけで嬉しかった。

 人としての関係はまだまったく親しくはないけれど、わたしはまた、こうして彼の近くを一緒に歩けている。


 ヤマネコの檻の前で真剣に見た。日向ぼっこしてるだけなのに、可愛くて飽きない。しばらく堪能というか、没頭する。

 今度は猿山の方に行こうと思って、少し歩いてから岸田がついてきているのを振り返って確認して、また歩く。


 ついてから、しばらく見て、はっとする。

 あ、わたし今……自分が人間なこと忘れていなかった?!


 人間はさほど親しくない人と出かけてる場合、次の場所に移動する時、何か一声かけたりするんじゃないの? いつもの癖で、黙って顔を確認して促してしまった。猫かよ。

 まぁ、井の頭自然文化園はさほど大きくはないので特に見たいものを打ち合わせなくても全部見てまわることができる。


 隣をそっと見たけれども、岸田はさして気にした様子もなく、猿山の猿を見つめていた。わたしも猿が猿の、毛繕いをしているのを見つめる。


 わたしはこうして黙って彼と過ごすことに慣れきっている。とても心地良いし、空気が美味しくなる。


 でも、少しは話しかけた方がいいのかもしれない。


「岸田、猿好き?」


「…………ほどほどにな」


 話は全く広がらなかった。これは質問もよくなかった。けれど、岸田が少し考えてから、さほど答えようのない質問に何かしら答えようとしてくれたその様子に、笑みがもれた。


「舞原、楽しそうだな」


「楽しいよー。来たかったから」


 岸田と来たかった。もちろん前半は省略。


「あぁ……そっか」


 わかるんだかわからないんだか、曖昧な返事をして、岸田は歩き出す。


 動物園は小さなものなので、すぐに一通り見てしまった。


 動物園自体は楽しかったけれど、さほど盛り上がりもなく外に出て、ふらふら歩く。このまま帰るのも、あまりに進展がない。


「あそこ、寄ってく」


「うん」


 目についた雑貨屋に入る。岸田もついてきた。その後も別の店に入って、中を見た。


 なんとなく噛み合わないまま、わたしが岸田を引っ張りまわす感じに進行している。


 岸田は自分の希望を言おうとしないし、わたしも聞こうとはしない。


 岸田はずっと、後ろから一応といった感じについてきているだけだ。けれど、さほど雰囲気は悪くない。変な会合。


 店を出た時に岸田が小さく息を吐いているのを発見する。

 もう今日は終わりかな。帰ろうと思って挨拶をしかけて、近くに岸田が好きそうなアクション映画の宣伝広告があるのに気がついた。それを指差して話しかける。


「岸田、あの映画観た?」


「あぁ、まだ観てないけど……たぶんそのうち観ると思う」


「来週の日曜、一緒に観ない?」


「俺と?」


「うん」


「え、舞原、他に友達いるだろ。……あ、そうじゃなくて……俺でいいのかよ?」


 なんとなく、今日の岸田の態度に深く合点がいった。


 この人、現段階でわたしの好意にまるで気付いていなかったのか。


 だからあれは、なんで誘われたのかわからないけど、とりあえず一緒についてきた感じ。わたしの意図がわからないなりに付き合っていただけなのだろう。

 鈍さに呆れる。わたしは困った顔をしていたと思う。


「岸田がいい」


 どうしようか少し迷ったけれど、隠していてもしょうがないのではっきり言った。

 岸田、わたしのことを嫌がってはない。それなら早い段階で言ったほうがいい。この人どうせ誰でもいいんだし。


「……っ、うん」


 岸田は目を丸くして、思ったより衝撃を受けたような顔をしていた。


「どうしたの?」


「その発想はなかった……」


「……」


「舞原と……結びつかなかった」


 岸田がボソボソと言うので、なんとなく言葉の意味が伝わったみたいで安心した。安心したけれど、一気に恥ずかしくもなる。


「……映画、一緒に行ってくれる?」


 声が小さくなったし、トーンも少し下がった。

 高校の頃のふりみたいなのがなくなって、これじゃ普段の社会人の顔のわたし、いや、今のはそれでもない、まるで、普通の恥ずかしがってる女性みたいだと思った。


 岸田は口からしゅるると空気を吐き出し、思い切り視線を逸らしながら「……うん」と頷いた。


 よかった。

 安心したらどっと疲れた。


「よ、よかった……。じゃあ、わたし帰るね……またね。今日、ありがとう」


 言って、手を振る。


 岸田は、なんだか少し緊張が解けたかのようにもう一度息を吐いた。


「駅まで送ってく」


 岸田が今日初めて、自発的にそう言って、わたしより先に駅の方に向かって歩き出す。


 胸のあたりがむずむずした。


 駅について「じゃあね、またね」と言うと岸田が「連絡する」とはっきり言った。


 その瞬間から、きっとわたしと岸田はほんの少し、歳をとった。


 高校時代のふりをやめて、だけど大人のふたりとはまた違った関係性へと、変化した。そんな風に感じられた。



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