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4.岸田頼朝(1)



 ある日、猫が現れたので、猫を飼った。

 そして二ヶ月と少し経ったある日、猫がいなくなった。


 そうだ。たったの二ヶ月かそこらだった。もっとずっと、近くにいた気がしていたのに。


 特別なことは何もなかった。ただ、いてくれるだけで、毎日が特別になった。


 いなくなってしばらくは、各所に届けてまわって、仕事が終わってから毎日いそうな場所を夜中まで捜していたけれど、どうにも見つからない。


 二週間ほどで、睡眠が足らず仕事と健康に支障をきたし始めていた頃、昔から公園にいる白くて大きな猫が寄ってきて「にゃあ」と鳴くのを聞いた時「見つからないよ」と言われた気がしてそれを止めた。


 生きてはいる。でももう俺のところには戻らないのだと、それを教えられたような、そんな気持ちになった。


 けれど、本当のことを言うと、その声を聞く前から俺は、なぜか強い確信を持って、あの子が死んでしまったわけではないことを知っていたし、それでも戻らないことを先に告げられていたような気がしていた。

 前にいなくなった時はそんな風には思わなかったのに。


 その予感めいた感情は、彼女がいなくなった朝からずっとあった。


 それでも、諦めきれなくて張り紙を作った。猫の写真と電話番号が書いてある。それを持って外に出ようとした時、足が止まった。


 こんなものを作っても、なぜだかまったく見つかる気がしないのだ。それは不思議な確信を持った絶望感だった。


 賢くてしっかりした猫だった。こちらの言うこともわかっていて、気が向けばきちんと聞いてくれる。


 そのせいか、自分が何か悪いことをして見放されたような感覚があった。


 あの子はどこで生まれたんだろう。急に現れた野良猫だから、知るよしもないのだけれど。よく考えると、あの子は人と暮らすことに慣れていた。首輪もなかったし、それらしい届けもなかったので、野良だとばかり思っていたけれど、もしかしたら元々どこかの飼い猫で、家に戻っただけなのかもしれない。


 俺は猫を飼ったことがなかったし、きちんとした飼育ができていなかった。今思えば、間違っていたこともたくさんある。あまり良い飼い主とは言えなかったろう。


 俺は猫がいなくなってずっと、捨てられたような気持ちだった。

 戻らないのは、何かあったとかじゃなくて、俺から逃げたのだ。そんな思いに囚われていた。


 けれど、そんなのはさすがに自虐が過ぎる。

 人間に逃げられることが多かったからそんな卑屈な感情になるだけだ。


 あれは猫だ。人とは違う。


 そう思って、作った張り紙を持って玄関を出たところで涙が止まらなくなった。


 喪失感と思い込みの自虐と、心配と悲しみと、いろんなものが胸を渦巻いて、本格的に精神が病んでいきそうな気配を感じて、俺は家の中に戻り、張り紙をゴミ箱に捨てた。


 無駄だ。こんなことしても無駄だ。


 そして薄情とは思いながらも、いったん頭から本気の捜索を追い出すことにしたのだ。そうしないと、生きていられない気がした。


 けれど、いまだに散歩に出た時などに癖のように捜してしまっている自分に気付く。


 あまりに寂しかったので他の猫を飼おうとも思ったけれど、やっぱりやめた。あれは、特別な猫だったように思う。他の猫も可愛いけれど、やっぱりあの子が一番可愛い気がした。


 チキンカツは甘えたで、賢いけれど自分勝手で横暴で、猫のくせに心配症なところもあった。

 人が食べてるものをよく欲しがった。少しだけあげると喜んだし、やらないとわかりやすく拗ねた。

 いつもは構うと鬱陶しそうにするのに、俺が落ち込んでいる時は黙って膝に乗ってきたりした。


 でも、もういない。


 それでも、いつかひょっこり戻ってくるんじゃないかと、頭の端で諦めきれず、ずっと待ち続けている。







 会社が終わっても、急いで帰る理由もない。改札を抜けてのろのろと歩いていた。


 俺は趣味が少ないし、人付き合いも最低限。もし結婚なんてしたら毎日まっすぐ家に帰って嫌がられる旦那になるだろう。結婚はなんとなくしたかったが、実のところ明るい夫婦生活なんてまったくイメージできなかった。


 なんとなく、視界に気になったものがあった予感がして焦って振り向いた。一緒にいたチキンカツの気配のようなものに感じられたのだ。


 そこにいたのは猫ではなくて女だった。立ち止まってこちらをぼんやり見ていた。

 最初は知らない女だと思った。でも、どこか懐かしい感じ。


 まじまじと見ると、見覚えがあった。


 舞原留里。高校の同級生だ。

 つり目がちの大きな目がくるっとしていて、涼やかなのに愛らしい印象の顔立ち。頭の大きさ、骨格、顔のパーツ、全てがこぢんまりとしていて、飼っていた猫に少し似ているタイプ……。


 そこまで考えて思う。

 人間を見ても猫を思い出してしまうなんて重症だ。


 思わず声をかけた彼女の雰囲気は高校時代のそれよりは多少落ち着いていたし、野暮ったさこそなかったものの、比較的変わっていなかった。話してみたら余計に変わっていなかった。


「連絡先」と言われて顔を上げた一瞬「こいつ俺に好意があるのかな」みたいに思ったのはもはや反射だし、歳の近い異性に聞かれたら、男だろうが女だろうが、誰でも一瞬くらいは思うだろう。


 しかし、すぐに思い直す。よく考えたらこいつは舞原。舞原留里だった。見た目は少しは大人になってるみたいだけれど、基本の設計が舞原。普通の女と一緒にしてはいけない。

 こいつは感情があけすけなくせに次の行動は読めないという猫みたいな物件なのだ。


 何をたくらんでいるのかと、訝しむ。

 久しぶりに会ったさほど仲のよくない同級生の連絡先をすぐに聞くなんて、宗教勧誘か、政治的勧誘、詐欺の類いかもしれない。


 ただ、舞原のイメージにはどれもそぐわなかった。こいつは無礼で畜生な奴だったけれど、計算や悪意や悪気はないタイプだった。それともここ数年で変わったのだろうか。迷ったけれど、結局普通に頷いて交換した。


 たぶん気まぐれだろう。交換しても連絡はこないだろうと思ったし、俺もしない気がした。


 しかし、連絡は、すぐにあった。

 それも、その日の晩すぐに。


「岸田、明後日の日曜、井の頭動物園行こう」


「え、なんで?」


 これは嫌だったとかではなく、びっくりし過ぎた感想がそのまま出たものだった。割と無礼な反応といえる。しかし、舞原はあっけらかんと返す。


「……ほかに行く人がいないから! 岸田、行こうよ。近所なんでしょ」


 なるほど。きっと何人かに断られたあとなんだろう。まだ少し警戒する気持ちはあったけれど、取って食われるわけでなし、どうせ暇だし、と了承した。


 もし言われたのが土曜日だったら断っていたかもしれない。実際に用事があった。

 俺は歯医者だとか必要な買い物とか、大抵のすませなきゃいけない用事は土曜に入れていて、日曜日はのんびりするために空けていることが多かった。


 それにチキンカツがいなくなって、それどころじゃなくて忘れていたけれど、久しぶりに動物園、行きたいなと思っていた。

 舞原が適当に言った井の頭動物園というものはない。正確には井の頭自然文化園。チキンカツがいた頃入口まで一緒に行ったのに、母親がパソコンの具合が悪いから見てくれとか連絡してきて、結局行けなかったこともある。ちょうどいい機会だ。


 それに舞原を見てると、不思議と元気が出た。ここ数日、折に触れて思い出していた猫のことも、その瞬間だけは忘れていた。

 忘れていたわけではないかもしれない。その部分にあった穴が埋められたような感覚が少しあった。彼女の持つ乱雑な明るさのせいかもしれない。


 舞原と、動物園。

 少し楽しみな気持ちになっていた。

 昔持っていた苦手意識みたいなものは、再会した彼女には感じなかった。俺も彼女も、多少大人になったからかもしれない。


 元々、舞原は俺が使う尖りきった鉛筆みたいな言葉を気にしないで流すというほぼ唯一の女子だった。

 他人に対する尖り、自分を守るため、あるいは自己を主張するためのそれが、お互いこそげて、気安さは残っているのにそこそこ気は使えるようになっている感じがちょうどよく話しやすかった。


 舞原は気まぐれだ。

 ものごとや人にあまり執着をしない奴だった。だから思いつきなんだろう。


 その、思惑の薄さ、思いつきみたいなものに巻き込まれるように立てられた予定は、思いのほか楽しみになった。





 約束の日曜日。待ち合わせ場所にいた舞原を見て、少し戸惑った。


 どことなくお洒落だったからだ。


 気のせいかもしれないけれど、それは。


 まるで気になる異性とデートに行くことになった時にする格好みたいにも見えた。


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