2.再会
仕事が終わり、そわそわしながら会社を出た。
別に会うわけでもないのに、この落ち着かなさ。
ここ数週間、まともな人間生活を取り戻すため、無心に動いていたのが、猫だった短い期間の気持ちが思い出されてしまう。
また、思う。
あれは全部夢だったんじゃないか。わたしの知っている岸田は本当にあの街にいるのか。
駅を出て、まずは公園のにゃんてん様のところに行く。弁天様自体ははもう閉まっていたけれど、近くのベンチで彼女の姿を発見した。
にゃんてん様はちらりとこちらを見た。しかし「猫ですけど」と言った顔で後ろ足で耳をてしてし掻いたあと、のんびり毛繕いを始めて、わたしのことをすっかり無視していた。
近寄って話しかける。
「いろいろありがとう」
にゃんてん様は毛繕いに夢中で、こちらを見ようともしない。「あたしあんたと遊んだけど、勘違いしないでよね」みたいな感じ。この感じ、ちょっと憎いわ。気にせずに、新しい会社のことだとか、ビールの美味さだとか、適当に報告をし続ける。
にゃんてん様は気分じゃないのか人間の生活になど興味がないのか、完全に無視。猫のふりしやがってと思うけどよく考えたらどんなんでも本当に猫だからしょうがない。
それなのにベンチに腰掛けて鞄を探り、小さな声で「おやつ食べる?」と言った瞬間にぱっとこちらに来た。ちゃんと聞いてるんじゃん。
猫に人気のスティック型のおやつはにゃんてん様もご多分に漏れず好きなようだった。目の色を変えて寄ってきてくれる。実はわたしも知っている。それはとても美味しい。
「本当にありがとうね」
ぞんざいに「なう」と答えた彼女はまたおやつをペロペロしだした。そして、ペロペロし終えると「にゃん」と鳴いてさっさと離れていってしまう。この薄情さ……いつも通りだけど。
しかしにゃんてん様の普通の猫の擬態が上手すぎてまた不安になってくる。あの人、っていうか、猫、本当に猫神様だったんだろうか。だんだん、ただのデブ猫に見えてきた。
にゃんてん様が行ってしまったので、わたしも立ち上がって公園をぶらりと歩く。ここも少し久しぶりだ。
見まわすと、あそこのベンチで岸田とぼんやりしたとか、あそこの売店で岸田がアイスを買ったとか、そんなしょうもない思い出があちこちに散乱している。
経験は思い出になってしまうと、なぜか視点が変わってしまっていることがある。
だからわたしは、岸田と一匹の猫がそこに佇むさまを、まるで遠くから見ていたように思い出した。
公園の西端の方まで行って、少し歩けば岸田の家がある。ちらりとでも確認したい。怪しいかな。やめておいた方がいいかな、と心で逡巡しながらも足は焦ったように、異様な速さでそこを目指していた。
別に窓から中を覗こうとか、そんなつもりはない。
ただ、そこからまったく知らないおじさんとその家族が出てきたりしなければそれでいい。
あの日々が、現実だったと、そのいくばくかの証拠めいたものが見つけられれば、わたしはそれで満足だった。
逆に言うと、証拠を見つけずには帰れないような気持ちになっていた。全部わたしが作り出した妄想や夢だったらどうしよう。
二ヶ月間あまり、わたしは舞原留里の現実から確実に消えていた。けれど、それが岸田と過ごした日々と繋がっているとは限らない。
結局家の玄関の前まで行ったわたしは完全なる不審者だった。
表札は猫だった時に見たものと変わらず『岩瀬』とあった。人であるわたしが見たことのない情報と一致して少し安堵する。
それから、表札とは別に、少し離れた位置にポストがあるのを発見した。猫だった時は塀の上に乗ったりはしていたけれど、逆にそのすぐ下のポストの文字は死角になっていて、よく見てなかった。
近寄って見ると、ガムテープが貼られていて、そこにはサインペンで書かれた『岸田』の文字があった。
名前を見た瞬間、心臓がばくんと揺れた。
岸田はちゃんとここに住んでいる。
しばらく呆然としていたけれど、完全にストーカーと化している自分を発見して急ぎ足でそこをあとにした。
本当に、本当だった。
ふわふわした気持ちで駅前に戻ると、不意打ちで見たことのあるスーツが少し遠くに見えて、心臓が殴られたみたいにまたばくんと揺れた。
わたしの目は吸い寄せられるようその人へと向かい、そこから離れることを許されなかった。
それは岸田だった。
少し痩せたかもしれない。あまり元気な感じではなかったけれど、ちゃんと、あの日別れた岸田の続きだった。
あれ? 少し違和感を感じる。
そうだ。目線の高さだ。前はもっと見上げていたのが、かなり近い。顔にフォーカスを合わせる。
うわ。すごく、格好良い、気がする。
やっぱり、ものすごく好きな、気がする。
よく考えたらわたしは人の姿で大人になった彼を見るのは初めてだ。もしかしたら、どこかですれ違ったりはしていたのかもしれないけれど。
そこにいる岸田はひとつの実感を持って存在していた。わたしと岸田が過ごした、あれもこれも、全部本当にあったことだったんだ。
どうせ、わかりはしないだろうと、足を止めてぼうっと見つめていたら通り過ぎる時にこちらを見た彼とばっちり目が合ってしまった。
だけど、そのまま、すれ違う。
ほわぁっと、詰めていた息を吐いた。
息するの忘れてた。
岸田が生きてることに、すぐ近くの空間にいることに胸がきゅうっとして、そこからじわじわ熱を帯びて幸せが広がっていく。心臓はまだばくばくし続けている。
もう一度振り向いて背中を見ようとすると、行ってしまったと思っていた岸田が、こちらを向いて立っていた。
びっくりして前を向いて立ち去ろうとすると声をかけられる。
「あ! ちょっと待って」
呼び止められた。
「どっかで見たことあると思ったんだけど……」
岸田が言いながら近付いてくる。
「え、え?」
わたしはなぜだか後ろめたいような気持ちになった。
これは、きっとあれだ。ストーカーがストーキング相手に発見された時の気持ち。すいません。すいません。害はまだ与えませんからと、無駄に顔を伏せて硬直する。
大きな歩幅で近くまで来た岸田はわたしをまじまじ見つめて顔を覗き込み、
「舞原だろ」と言った。




