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1.人間の生活


 気がついた時は弁天様の外にいて朝の優しい光の中、目が覚めた。春が近付いているとはいえ、気温はまだ低かったのに身体は冷えていなかった。


 持っていた鞄を探る。あの日の持ちものがちゃんと全て入っていた。定期や家の鍵やお財布も中身もまんま。だけど、スマホはバッテリーが切れて暗い画面は動かなかったし、入れていたキャンディは溶けて包紙にひっついているので、それなりに時間の経過を感じた。


 公園を出て、吉祥寺駅方面へと歩き出す。


 それからわたしがやったこと。

 まっすぐ電車には乗らず、朝早くに行かないと売り切れてしまう羊羹を売ってる最中もなか屋さんに行き、羊羹購入。喫茶店で時間をつぶした後、北口の西エリアにあるわたしの好きなラーメン屋に開店と共に直行。

 赤いのれんをくぐってカウンターに座る。

 チャーシュー、メンマ、三角に切られた海苔、がのっている昔ながらの東京煮干しラーメン。さらにビールも注文した。


 まず、冷たいビールを喉に流し込む。


 これが……沙婆シャバの味。

 刑務所帰りの前科者みたいな気持ちだった。


 それから出てきた湯気のたつラーメンを十五秒ほど見つめて「これ、本当に食べていいんですか」みたいな気持ちで呆然としていたが、我に返って慎重に箸を手に取った。


 取ったが結局ためらいを消しきれずに置いて、先にれんげでスープを掬った。味わって飲み込む。五臓六腑に染みる味だ。わたしの中に蓄積したここ二ヶ月あまりの飢餓感がじわあっと埋められていく。麺、麺もいこう。急いだように箸で麺を持ち上げる。口に運び思う。これは、ラーメン!


 最初は美味さに震えていたが、途中からは無我の境地で麺をすすり、スープを味わい、脳内がラーメンで埋まった。

 こんなに何かを集中して味わうのなんて、いつ以来だろう。わたしはここ数年で一番、もしかしたら猫だった時より動物的に食事をした。


 ラーメン、ラーメン。好き。ラーメン。

 脳味噌にはそれだけだった。


 それからブラウニー専門店でブラウニーをふたつ買ってから電車に乗る。さらに地元の駅ではスーパーでおやつとお酒をドカ買いして、懐かしい我が家へ戻ってきた。


 わたし、世間的には神隠しにあってたことになるのかな。二ヶ月かそこらだし、失踪の方が近いかもしれない。


 少し埃っぽくて篭った感じではあったけれど、出た時と何も変わらない我が城だった。


 鏡を覗き込むと、髪の毛は少し伸びていた。

 一応、生きていたみたい。


 ぶっちゃけ、体感として身体は重いし、ジャンプ力のないその感じには妙な不自由さを感じる。でも、にゃんてん様のサービスなのか、単に時間が経ってるからなのか、酷かった眼精疲労や肩凝り腰痛の類は抜けている。しごく健康。残念なことに体重も特に減っていない。


 わたしは窓を開けて埃っぽい部屋を換気して、お布団を干した。シャワーを浴びて、髪を梳かし、化粧水を使った。


 それから買ってきた食料を開封してテーブルにひろげていく。まだまだ舌と脳を甘やかす気満々だ。

 ピーナツバターとラズベリーのブラウニーを口に入れる。口の中で幸せが溶ける。羊羹も豪快に齧る。みずみずしい甘味に脳が痺れる。

 ポテトチップスの袋も開けて、何枚か豪快に口に放り込む。心地良い塩分。チョコレートも食べる。またビールを呑む。あとでアイスも食べよう。

 一時は二度と食べられないかもしれないと思った美味しい物達。好きなだけ食べれる。素晴らしい。これだけでも、戻ってよかったかもしれない。


 それから、充電したスマホをチェックして、何件か入っていた連絡を確認、返すべきと判断したものだけ簡素に返信した。

 念のため父に電話をかけたけれど、まったく何も気が付いていない感じだった。旅行に行ったとか、姉の子供の話だとかを浮かれた調子で長々話された。わたしはそれに相槌を打って、仕事を辞めたことだけ話して、通話を終えた。割と能天気な親なので、本当にお金がなくなったらこっちにくればいい、と言われただけであった。


 でも、急いで実家に頼る必要はない。

 家賃は安いし、社畜時代の蓄えが多少はある。

 まずは生活をゆっくり立て直さなくては。





 次の日には美容院に行った。

 それからしばらくぶりに服を買った。ずっと、人だった頃からゆっくりそんなことをしていなかったのだ。

 これも、猫にはできないこと。少しでも可愛く見える服が欲しくて、結構探した。探している時もずっとわくわくしていた。


 買い物の途中、前勤めていた会社の前を通ったので覗いてみたら、やっぱりつぶれていたのでガッツポーズをしたわたしの性根はだいぶ畜生だ。


 家に帰ったら自炊して好きなものを食べる。

 入浴剤を入れてゆっくりお風呂に入る。

 当たり前の生活が全て新鮮に感じられる。


 そうこうしていると、すごくいいタイミングで、知り合いから声をかけられ、新しい会社で働くことが決まった。


 他にできることがなく、前と同じ業種だったのでやっぱり忙しい時期はあるけれど、前の会社と比べると、活気がある。

 人は誰でもミスはする。前の会社は誰かがミスをした時に、責任を押し付け合うことばかりで、ギスギスしていた。

 新しい会社は協力してどうリカバーするかを考える方に意識が向いている。やることは同じでも精神の負担がだいぶ違う。


 こんなことならもっと早くに前の会社を辞めていればよかったかもしれない。でもそれは結果論だし、以前のわたしは辞めるなんて発想がなかった。


 毎日、仕事に行く。お給料は別に高くはない。前とほとんど変わらなかったけれど、休みがちゃんとある。代休もとれる。残業代も出る。


 人としてのわたしは一度死んだみたいに感じられる。

 蓄積していた疲れ、いろんな膿が全て出ていった感覚で、何もかもが新しく、リセットされている。


 そんなことをしていると、あっという間に一ヶ月ほど経っていた。


 岸田、大丈夫かな。落ち込み過ぎて鬱とかになってないといいけど。ちゃんと挨拶したから大丈夫かな。

 いや、夢だと思ってるかもしれない。覚えてないかも。やっぱりまずいかもしれない。


 会いに行くのはもう少し会社に慣れてからにしようとか、人に戻ってドカ食いしたのであと二キロ痩せてから、とか思っていたけれど、いろいろ心配になってきた。よく考えたら遅くなるとあまりよくない。


 岸田はあれでそこそこモテるから、向こうから声をかけられたら、破滅的に合わないとかでない限りはほいほい付き合うんじゃないだろうか。


 彼女はともかくとして、健康にしているだろうか。ちゃんと食べて少しは笑っているだろうか。


 今会っても、まだどうしていいかわからない。それについては日々計画を練っていた。どうせなら、ドラマチックな出会いを演出したりするのもいいかもしれない、とか、わくわくしていた。


 でも、本当のことをいうと同時に怖くもあった。

 岸田は猫のチキンカツには心を寄せてくれたけれど、人間の舞原留里のことは拒絶するかもしれない。そう思うと勇気が出なかった。


 でも、少しだけ、覗きたい。

 心配だから。


 一度そう思ったら止められなくなった。

 いっそ直接会えなくてもいい。少しでも近くの空間に行って岸田の気配を吸い込みたい気持ちが広がっていく。


 岸田。岸田に会いたい。



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