23.さよならチキンカツ
岸田は静かに眠っていた。
頬に肉球をピタピタ当てると、彼は目を開けた。
半身を起こして、かしこまって縦に座るわたしを訝しげに見つめる。
「なんだよチキンカツ、夜だから寝ろ」
わたしは決めてきた第一声を放つ。
「……どうも、吾輩はチキンカツだニャ」
声を出すと岸田がむくりと起き上がって、わたしをまじまじと見つめた。そして顔に驚愕を浮かべる。
「え、えぇ! お前、一人称吾輩だったの? その、語尾にニャ、とかも……なんか古くねえか?」
思わぬところに駄目出しを受ける。岸田は寝ぼけているのか、混乱しているのか、猫がしゃべったことよりも一人称や語尾が気になったらしい。
吾輩って猫くらいしか一人称で使ってるの見ないから、いいかなと思ったんだけど、雌にはおかしかったかもしれない。語尾の「ニャ」も、思いついた時はいいと思ったんだけど。お好みに合わなかったらしい。恥ずかしくなった。やっぱりやめよう。
「……チキンカツです」
「そっちの方がいい」
「はい……」
岸田は依然半分夢の中みたいな顔で目をゴシゴシ擦っている。
「ご挨拶にきました」
「なんの?」
「もうわたしは行かなければなりません。でも、元気にいますから、心配しないでください」
なんとなく考えてきた台詞をしゃべる。どうにもお堅く、海で助けられた昔話の亀みたいになった。圧倒的にキャラの練り込みが足りない。
目を擦っていた岸田がまた少しびっくりした顔でこちらを見た。
「え、行くってどこに?」
「人間になって戻ってきます」
「お前……お、俺はそこまで追い詰められた願望は持ってないはずだぞ! やめろよ!」
岸田が自分の深層心理を疑い出した。この人捻くれてて面倒くせえ。
「いや、そういうんじゃなくて、わたし元々人間なの。戻るから」
「人間って、どんな?」
「えっ」
岸田がベッドにあぐらをかいた状態で腕組みして聞いてくる。まさかそんなとこにツッコミが入るとは思わなかった。
「なぁ、どんな?」
「……か、可愛い、かな?」
「本当に?」
「ほどほどには可愛い……かなぁ。い、いや、普通かなぁ……こういうのは個人の感覚違いがあるから」
「俺好み?」
「そ、それはどうだろ……」
そもそも好み、知らないし。
「胸は大きい?」
「あんた……猫でいいって言ったくせに、つまんないところにこだわるね」
「聞いてみただけだよ。その感じだと、お前ひんにゅ……いてぇッ」
頭を思い切り上から下にはたいた。岸田の頭が残像を伴ってぶんと下に揺れた。
岸田が顔を上げないまま言う。
「……いや、チキンカツは猫のままでいいよ。どこにも行くなよ」
「ごめんなさい。絶対悲しむと思って、挨拶をさせてもらいにきたんだけど……元気だから、安心して」
「いや、そういう問題じゃない。俺はお前がいないと嫌だ」
岸田が目覚めた時にチキンカツがいなかったらどれほど悲しむか、想像に難くない。すごくかわいそうだけど、こればかりは仕方がない。
「明日目が覚めたら、わたしはいないけれど、死んだわけじゃないから、悲しまないで」
そんなこと、無理だとわかっているのに。
それでもそう言うよりなかった。
岸田は困った顔をした。
「チキンカツ……猫のくせに悪い冗談言うなよ。……嫌な夢だな」
「人に戻ったら絶対会いにいくから」
「だから嫌だって。このままそばにいてくれよ」
「それは無理なの」
「駄目だよ! 絶対駄目!」
「我儘言うな! わたしにもわたしの都合があんだよ!」
「いや、我儘って……お前の声と物言い、誰かに似てるな。どこかで……」
岸田が首をひねる。思考を遮るように声をかぶせた。
「とにかくこれはもう決定事項。わたしは幸せになるためにここにはいられません! 諦めろ!」
「絶対嫌だって! 俺が幸せにしてやるから!」
「……」
挨拶は済ませた。納得してもらえないけど、これ以上は無駄かもしれない。とりあえず諦めて、さっと身を翻した。
「さよなら。捜さないで」
「嫌だあぁ! チキンカツー!」
「ちょ、あっ、や、」
岸田がさっさと帰ろうとしたわたしの尻に抱き着いたのでびっくりして声が出た。
「猫のくせに変な声出すなよ! ドキッとした俺がど変態みたいだろ!」
「そんなこと言われても」
岸田がわたしの身体をつかんで、動けないようにベッドに仰向けに拘束した。岸田の端正な顔がすぐ近くに見える。
「ちょっと……この体勢、ドキドキするからやめてよ」
「だからそういうこと言うのやめろって! 俺にそんな特殊な趣味は絶対ない!」
確かに潜在願望を夢に見てると思うと起きた時、別の意味でもかなり落ちこみそうだ。可哀想な変態岸田。哀れ岸田。悪いな岸田。
「ごめんね」
「駄目だ」
「……姿は違っても、戻ってくるから」
「俺は猫じゃないチキンカツはチキンカツとは認めない」
「そもそもその名前どうなの……猫なのかチキンカツなのかおかしなことになってるじゃん」
「誤魔化すなよ! 俺はお前とずっと一緒にいたいんだ」
岸田、しぶとい。しつこい。
わたしは岸田の鼻面を後ろ脚でべしとつぶして、力技でそこからひらりと抜けて、床に降りた。
「心配すんなって言ってるじゃん! 行かないわけにはならないの!」
「チキンカツ、お前、そんなわからずやの性格だったのかよ! もっと賢い猫だと思ってたのに……この、馬鹿猫!」
「ばいばい! 本当に、捜さなくていいからね!」
挨拶して、ベランダの手すりにひらりと飛び乗った。岸田が追いかけて、外に出てきた。
「待ってくれ! 頼むよ……俺は、お前が好きなんだよ!」
「わたしも……好きだよ」
「じゃあなんで!」
「……なんででも」
「バカ!」
「そっちこそバーカ!」
言い返す。今にもそこからいなくなりそうな気配を感じたのか、岸田が泣きそうな顔をした。
「じゃあ……最後に、抱かせてくれ」
別れる寸前のカップルのスケベ男みたいな文句を言われて足元に行くとそっと持ち上げられた。
岸田の腕の中は、心地良い。
ずっとこうしていたくなる。猫の姿で初めて会った時のことが思い出される。
あの時の岸田と、高校の岸田と、今の岸田。
今ではもう全部好きになった。
身を切るような冷たい風が吹いて、岸田がわたしをより強く抱いた。
「にゃあ」と鳴いてやる。
この瞬間もどこかに閉じ込めて置いておきたい。いや、実際にわたしの頭の中で、何年経ったとしても、忘れない特別な場所に置かれるだろう。
身体が、輪郭を失うような感覚がまたやってくる。
岸田がわたしをこのまま離さなかったとしても、やっぱり別れはやってくる。
わたしは猫じゃない。本当はここにいないはずの生き物だから。
お別れだ。それがわかる。
夢の世界が、破れようとしている。
もうすぐ猫としてのわたしは消えて、二度とこの世に戻らない。もう、こうしていられるのは、あと数秒。
身体がぼんやりした浮遊感に包まれる。
それから、頭はほんの少し別の世界を認識し始める。
これはもうすぐ、目が覚める時の感覚。
人間のわたしは、毎日死んだように生きていた。
何が必要なもので、なんのために息をしているのかもわからないくらいに、全てが麻痺して、たくさんのものを失っていることにも気付いていなかった。
わたしは猫になって生き物として蘇ることができた。
失ってしまっていたものをいくつも取り戻せた。
さよなら岸田。猫のわたしは、岸田が大好きだったよ。
あなたのためなら、人間の生を捨ててもいいと思えるくらい、好きだった。
でも、わたしはあなたのために、人間に戻って、色々やり直してみたいと思ったんだよ。もう少し、頑張ってみようかなって、そんな風に思えた。
いや、そんなのは嘘で、本当は人間として会いたかっただけかもしれない。
またね。
すぐに会いにいくよ。
【第一部:終わり】




