22.にゃんてん様に会いに
わたしはその日の夜中、ベランダの窓を開けて、そっと外に抜け出した。わたしが一度家出してから岸田は家を出る時はどこもかしこも必ず施錠するようになってしまったけれど、本人が家の中にいる時は忘れっぽい。
冷たい空を見上げると、星が静かに瞬いていた。
わたしはいつも、逃げてばかりだった。
会社から逃げて、逃げた先で岸田が彼女を作ると思い込んで、そこからまた逃げようとした。楽な場所に留まることを選んでいた。
わたしは人間に戻りたい。
今は、はっきりとそう思う。
人間じゃないと岸田を助けてあげられないから。
彼が風邪をひいた時に、わたしは何度も思った。
代わりに、買い物にいければいいのに。
何か作ってあげられればいいのに。
わたしには、何もできない。
猫はそこにいるだけで与えることができる。
助けてもらうかわりに、存在で相手を救うことができる。
わたしは猫として、岸田に助けられ、与えられ、また猫としての何かを彼に与えた。
でも、それじゃ、できないことがある。
できないことが、多過ぎる。
わたしは岸田と、もっと多くのものを共有したい。同じ目線でものを見て、少し不自由でも言葉を使ってわかり合いたいと思う。
彼が愛しているのはわたしの猫の形。いわば体目当てだ。人として好かれるかはわからない。嫌われるかもしれない。
でもわたしはもう、彼を誤解することはないと思っている。わたしは、人であるわたしを彼に同じように知ってもらいたい。
家を出て見上げる。この家ともしばらくお別れ。でも、絶対に戻ってくる。
*
夜の井の頭弁財天の周りには人の気配はなかった。木々がざわざわ揺れる音だけが響く。
施錠された入口の前に、にゃんてん様が、いた。
白い毛並みは相変わらず神々しくて、ぼんやり発光しているかのようにふわり、ふわりと揺れている。
人に戻してもらいにきたよ。
それを伝えようと「にゃー」と鳴く。あれ、でもこれじゃ伝わらないかも。なんとか伝えようと「にゃ、にゃにゃにゃー!」と言う。
「普通に話してくれて構わない。外からはわからない」
にゃんてん様が答えた。もう一瞬早く言って欲しかった。
まぁでも意思を伝えられるらしい。外からは猫の集会にでも見えるんだろうか。冬の弁天様の前で二匹の猫が会話をしている。
「にゃんてん様って弁天様なの?」
「違う。私は住まわせてもらっているだけだ」
にゃんてん様は尻尾を揺らした。
「猫、楽しかったよ。ありがとう」
「世話になっていた恩返しだ」
世話というのは、ドブにはまっていたのを引っ張り上げたのとか、雨の日に持ってたタオルで体を拭いたのとか、そんなのだろうか。
「でも、人を猫に変えられるくらいなら、ドブにはまったくらい、どうってことなかったんじゃ」
「必要かどうかは関係ない。優しくされると、嬉しいだろう」
「……そか」
そもそも普通に考えると動物にされるのってむしろ呪いだし、恩返しのバランスがでかすぎる気もしたけれど、わたしは少し嬉しくなった。
「ここ最近は環境が変わり信仰心は得られなくなった。代わりに私という猫に向けられる下心のない優しさが、そのまま願いを叶える力となる」
「……何その猫本位な魔力。にゃんてん様、しょっちゅうそんなことやってるの?」
「叶えるかどうかは、その時次第。叶え方も私が決める」
「もっとたくさん叶えてあげればいいのに」
にゃんてん様は前足をぺろりと舐めた。
「なぜ私がそんなことをしなければならない」
「……おっしゃる通りです」
にゃんてん様はきっと猫神様だ。
気まぐれな猫の変化したそれは、きっとどこまでいっても人間とは違う。思考は人の理解を超えたところにあるんだろう。
けれど、それは、不器用な人間が優しさの使い方を間違えているみたいで、誰かを思い出して温かくなった。
「人に戻してもらいにきたよ」
「そろそろ来ると思っていた」
にゃんてん様はそう答えたけれど、そこからしばらく黙っていた。猫は、黙ってそこにいると本当に何を考えているかわからない。
「お世話になった人がいるんだけど、人に戻った時、わたしだったって、言ってもいい?」
「……それは、しない方がいいだろう」
「なんで?」
証拠だって示せる。わたしは彼とチキンカツしか知らないことを、たくさん知っている。
「それをすると恐らく……」
この世のことわりから外れたことだ。因果律が乱れるとか、そんなことが起こるのだろうか。
「恐らく、危ない人間だと思われる。それに、まず普通の人間は信じないだろう」
「はぁ」
割と常識的なこと言われた。
まぁ、そうかもしれない。それに、色々証拠を出したところで、私生活をじろじろ見られていたなんて気持ち悪いと思うかもしれない。わたしなら思う。
わたしはもちろんほどほどにプライバシーに配慮した動きはしていたつもりだったけれど、逆をされたらと思うとぞっとする。絶対嫌だ。もしそんな変質者みたいな男がいたら、三十発くらい殴って記憶を全部飛ばしてやりたくなる。
岸田は怨念度の高い女は嫌だと言っていたし、言わない方がいいかもしれない。それによく考えたらわたし、トイレを岸田に片付けさせてたし。うん。絶対言わない。
「あの……じゃあお世話になった人に最後に、お別れが言いたいんだけど、なんとかならない?」
チキンカツが急にいなくなったら岸田は絶対心配するだろうし、悲しむだろう。せめて、ひと言、挨拶してから行きたい。
「夢の中なら会話できる」
「ほんと?」
駄目元だったんだけど。サービスいいな。
「正確には、夢としか思わない」
「うん、いいよ」
「夢は、起きた時には忘れてしまうかもしれない」
「え、そうなの?」
せっかく挨拶しても、覚えてないかもしれないのか。でも、他に方法がないなら仕方ない。黙っていなくなるよりはマシだ。
「……お願いします」
「わかった」
言うが早いか、にゃんてん様の金色の目が、妖しい光を帯びた。そして白い尻尾がぶわっと広がって膨れ上がる。
それを見た、気がした。
気が付くとわたしは、真っ暗な闇にいた。
自分の身体の輪郭すら感じられない完全な闇の中、空間がぐにゃりと歪んだ気がして、身体がふわりと浮遊するような感覚に包まれる。
それから身体が何かに押し潰されるように縮んで、潰されていくような、ちょっと気持ち悪い感覚。それがふいになくなって、弾けるような光になって散らばった。
目を閉じて、再び開けると冷たい夜の空と街が目の前にぶわっと飛び込んできた。
そうして、わたしは引っ張られるように飛んだ。
夢の中で空を飛んでいるみたいに、星と雲の間を抜けていく。
途中丸まるように、転がるように、空気を切り分けて、わたしという一匹の猫が進む。
わたしが猫として岸田と過ごした二ヶ月あまりの日々を駆け抜けているみたいだった。
岸田。岸田。
さよならを告げにいくための道中に、いろんな岸田が通り過ぎる。
困った。
思い出されるどの岸田も、好きでたまらない。
次に目を開けると、岸田の部屋のベランダにいた。冷たいガラス窓にはうっすら猫の姿が映っている。
わたしは、なんだか今を意識した。
いつもそうだ。気がついた時だけ、ここにいる自分を認識する。それ以外はいつも流れている。今わたしは、猫の姿でここにいて生きている自分をこの上なく意識していた。
風の音、冷たい空気の肌触り、自分の呼吸の音。しっぽを動かす感覚。そんなものを生々しく感じる。
出てきた時同様、窓を少しだけ開けて中に入る。
それで、部屋の中には、やっぱり出た時と同じように、岸田が静かに眠っていた。
猫の身体でその顔を静かに見つめたこの瞬間を、わたしは後できっと何度も思い出すような気がした。




