21.長い一週間【後編】
日曜の午後になって、彼の母親が来た時は安堵で腰が抜けるかと思った。
岸田の母は来てすぐに窓を開けて、部屋のゴミを拾い集めて、洗濯をした。それから栄養ドリンクを飲ませて、着替えをさせておじやを与えた。
それだけで暗い部屋に活気が少し戻った気がした。ありもしない死の影に怯えていたのが、彼女がカーテンを開けた光で霧散したみたいに感じられた。
「母さん……」
「なあに」
「俺が死んだら……猫を……チキンカツを……」
「大丈夫よ。もう治るから」
母親がにべもなく言う。岸田は黙った。
それから岸田の腋にあった体温計を見て言う。
「微熱。もう治りかけ。あんたの風邪のいつものパターンよ。明日には治るわよ。いつもそうだったでしょ」
「今回ばかりは……もう駄目だ」
本気でそう思っているわけでもないのだろうが、岸田の口からは弱気な発言しか出てこない。岸田母は呆れた顔をしたけれど、穏やかに笑っておでこを撫でた。
「あんたはいつもそうなの。悲観的で、大したことでもないのにすぐに卑屈になって諦めて。絶対大丈夫って言ってるのに、やろうとしないの。受験の時もそうだったじゃない」
岸田母は、ベッドの枕元に座ってにこにこと話しかける。
「俺は駄目だ……ゴミ虫だ……粗大ゴミだ」
「そんなに健康で賢くて格好良く産んであげたのに、贅沢ねえ」
「今健康じゃない……。全然健康じゃない」
「屁理屈言わないの。あんたはたくさん幸せになれる可能性を持っているのに、性格が捻くれてるせいで損してるのよ。直しなさい、その性格」
「……」
「誰に似たのかしら……って、絶対お父さんに似たのね! あの人も陰気が服着て歩いてるみたいな人だから。性格って遺伝するのかしら……嫌ねえ……。あの人も何かっていうとすぐ僕はゴミだウジだって、ほーんと鬱陶しいったらありゃしない! ゴミならゴミらしく黙ってればいいのに!」
「前から思ってたんだけど……母さん、父さんのどこがよくて結婚したの?」
「あら……言ってなかったかしら。顔よ顔! 顔の造作がこれ以上ないくらい史上最大に私好みだったのよ! この顔を毎日見れるなら大抵のことは我慢できると思ったからお母さんから猛アタックよ!」
「……」
「言ったっけ? 私のお爺ちゃんのお葬式で会ったのよ。彼はバイトで来てて……あっ、私はその頃結婚式場でバイトしてたんだけど……そうそれであまりに陰気な顔してるからあの人参列者と間違われ……」
「わかった。もうわかったから、黙って。静かにして」
岸田がうるさそうに言ったけれど、それはいくらかいつもの調子を取り戻したものだった。
わたしの方も彼女がぺらぺらしゃべる楽観的な言葉を聞いていたら、なんだか安心してしまった。
最初は図々しい感じのおしゃべりなおばさんと思わなくもなかったけれど、この人はやっぱり岸田のお母さんだ。
こういう時に彼に必要なものがわかっている。
それは、洗濯やごはんだけじゃなくて、無責任なくらいに明るくて前向きな姿勢だ。病気の時は暗くなりやすい。特に岸田は根にある悲観的な暗さが前面に出てしまう。
「台所におじやの残りあるから。後でちゃんと食べなさい。もう帰るよ」
「え、もう?」
岸田が思わずこぼした言葉に、彼女は一瞬黙って、また座り直す。
「じゃあもうしばらくいて、話していてあげる」
「……」
「なんの話しようか。そうだ! あんたが小学生の頃、熱出した時死ぬんだって大騒ぎして遺書をしたためたでしょ、あれまだ家に残ってるわよ。なんだっけ、ぼくのいさんはすべて、のらねこにきふしま……」
「母さん……やっぱ帰って」
岸田母は笑いながら立ち上がる。
「いい大人なんだから、もうちょっとしっかりしなさい。猫ちゃんが心配そうにしてるじゃないの」
そうだ。猫は心配することしかできなかった。
「そんなんじゃ、お嫁さん来てくれないわよ。あ、あんた出会いがないとかなんとか言っておいて、振られたんだって? 晴信から聞いたわよ……えーと、なんだっけ、会社の……星飛雄馬みたいな名前の……」
「……帰って。今すぐ迅速に帰って」
「あんた明日も休みなさいね」
「さすがにそれは……」
「あんた有給余ってるって言ってたでしょ。権利だから使いなさい。それに治りかけでも周りに感染したら迷惑でしょ。病院行って、インフルエンザじゃないかちゃんと診てもらいなさい」
「わかったから帰って……」
この年代の御婦人はなぜか、帰ると言ってからの延長戦が長い。岸田母は、結局その後、岸田が寝落ちするまで喋り続けていた。
そしてわたしも、気がついたら泥みたいに眠っていた。
*
岸田母の言った通り、彼の風邪は翌日にはだいぶよくなっていた。
彼は起きて、シャワーを浴びて、買い物にいって、きちんと食事をした。それから一応病院へと行ったが、ほとんど問題なく、よくなっているように見えた。
「チキンカツ、最近一緒に外に出れてなくてごめんな」
そう言って笑って、頭を撫でてくれた。
次の日は会社に出かけていく。何もかも元通りの日常だ。大したことは、結果的には全く起こっていなかった。
けれど、この長い一週間の出来事はわたしの心の一部を変質させて、そこだけ完全に元には戻らなかった。
わたしはあの時言いようのない恐怖を感じたし、もうそれはどうあっても払拭できない。
わたしは、ひとつの決心を固めていた。
猫をやめて人間に戻ろうと思う。




