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2.舞原留里、猫になる。



 少し眠ってしまっていたのだろうか。

 ここがどこだったかな、と考えて身を切る寒さに思い出す。とんでもないところで眠ってしまった。

 目を開けるとにゃんてん様はもうそこにはいなかった。


 起き上がって身体に違和感を感じる。

 視点が、低い。頭をブルブルと振ってあたりを確認する。


 暗い中、井の頭弁財天は施錠されていて、周りは夜の気配を感じさせる冷たい風が吹いていた。


 目の前に猫の前足が見えた。ありえない位置で見えた。


 夢かもしれないが、わたしは猫になっていた。いや、最初は本当に夢としか思わなかった。


 瞬間的に思ったことは、もう、会社に行かなくてもいいんだ! ということだった。


 短絡的な思考だし、それ以外にも色々あるというのに、最初に浮かんだのはそれだった。わたしは自分が思っているよりもずっと疲れていたのかもしれない。それに、きっとこれは夢だし。


 信じられないくらいに身体が軽かった。数時間前まであった肩こり、腰痛、眼精疲労なんてものも全て消えていた。


 わたしは夜の公園を駆け抜けて、飛びまわった。


 こんなに高く飛べる。こんなに速く走れる。


 その瞬間はまだ現実感がなくて、困惑を超えた開放感に満ちていた。

 あの白い猫はきっと、神様の使いかなんかで、わたしの願いを叶えてくれたんだ!


 公園を抜けて街の方へ出た。

 建物のガラス部分に映る自分の姿を確認。

 うん、やっぱり猫だ。本当に猫だ。

 どこからどう見ても猫。小柄で、灰色の美しい毛並みに黒い縞模様がある、いわゆるサバトラだ。少しばかり長毛で、耳が大きめ。尻尾は細くて長い。なかなかの美猫だと思った。


 まじまじ見つめていると、突然おしりの辺りをぺしんと叩かれた。びっくりして飛び退いてそちらを見ると、ビルの清掃らしき初老の男性が、邪魔だったらしく、手をぴらぴらして、シッシッと追い払う仕草をしていた。


 その場をそっと離れると、今度は正面にいた幼児が口を開けて「ニャアだ! ニャアだぁ! ニギャアァアアアーー!!」とかん高い声を出しながら両手をあげて、ものすごい勢いで駆け寄ってくる。えもいわれぬ危機感を感じて飛び上がってまた逃げる。


 しかし、街中はどこもかしこも人間で満ちていて、逃げ場はなかった。

 いや、あるにはあるんだろうけれど、猫初心者のわたしにはなかなか見つけにくいものだった。つい人間の休むような場所で休んでしまう。そうするとすぐに人が寄ってくる。そして見知らぬ人間に身体中を撫でまわされる。屋根の上に乗っていても写真をパシャパシャ撮られる。


 どこにいても、人がいる限り放っておいてもらえない。


 数時間で人間が嫌いになった。


 猫は可愛い。

 だから猫になれば無敵だと思っていた。しかし、現実的には猫を嫌いな人もいるし、好きで撫でてくる人間も無遠慮さに閉口してしまうことが多い。


 静かに休んでいるところには構わないで欲しい。無遠慮に持ち上げようとされると恐怖を感じる。撫でるだけ撫でて、おやつもくれない人ばかり。


 そう思うのはお腹が減ってきたからだ。


 野良猫に中途半端におやつを与えないのは、正しいのかもしれない。しかし、わたしはつい数時間前まで人間だったのだ。自給自足でそこらへんのゴミ箱を漁ったり、公園のトカゲやネズミを捕まえて食べる気には到底なれない。


 最初はちょっと浮かれていたし、現実ではないと思っていた。

 けれどいつまで経っても夢からは覚めないし、急に人間に戻れるような気配もない。うっすらと危機感を感じるようになってきた。


 弁天様の方に戻ってぐるっとまわって捜してみたけれど、やっぱりにゃんてん様はどこにもいなかった。どこに行ったんだろう。辺りも捜しまわる。いない。


 夜が深まり、寒さが増してきた。とりあえず自分の家に帰りたい。まわらない疲れた頭でぼんやりとそう思う。


 浮かべたひとり暮らしの部屋は国分寺にあった。徒歩だと遠い。それに家の鍵もない。


 もしかしたら、この状態ではあそこには帰れないかもしれない。見ないようにしていた当たり前の現実の重大さが脳をかすめる。それでもまだ、本当の現実とは思えなかったし、他に目的地もないので、トボトボと駅の方に歩き出す。


 人の足の間をかいくぐり、路地を抜け、信号が変わった瞬間に走りだす。


 寒い。

 毛は人間の時より多めに生えているけれど、季節は日に日に冷え込みを増していた。飼われている猫はともかく、野良猫はどこでこの寒さを凌いでいるのだろう。


 駅前にスーツの集団がいて前を塞がれる。

 時間的には飲み会帰りとかで、二次会に行く相談でもしているのだろう。緩い円陣になってダラダラと何か話している。わたしは前からこの無駄な時間が嫌いだった。見ているだけで気が滅入るし、脚がたくさんで邪魔だった。


 そこをやっとこさすり抜けて、達成感でなんとなく振り返ると、スーツの集団の中に見覚えのある顔がひとつあった。

 意地の悪そうな、だけど端正な、魔界から来た悪魔みたいな顔の男。


 数秒後、記憶と現実の情報が一致する。

 記憶のそれより大人びているが、それは岸田頼朝だった。


 さほど親しくもなかったのに、見知った顔というだけで安堵を覚え思わず引き返して近付いた。

 足元に身体を擦るようにして気を引いて、こちらを向いた彼に掠れた声で挨拶を告げる。


 岸田は口元を緩めて微笑んだ。

 万が一の他人の空似も疑っていたが、この表情、やっぱり間違いない。岸田だ。確信を深める。


「岸田、また猫に寄られてんぞ」


 近くで笑い声が聞こえて、それと同時に岸田にひょいと抱き上げられた。猫生は短いけれど、すごく違和感のない持ち上げ方で、抱き方も上手いと感じた。


 猫になったわたしは人間の時と同様に、少し小柄で細身な体格だったので、無骨な指に抱かれた身体はすっぽりとコートの内側にくるまった。

 金曜の夜の喧騒の中、手足を痺れさせるような冬の冷たさは少しだけ緩和された。


 固まって話していたスーツの集団が動き出す気配がして、頭上にある岸田の喉仏が動いた。


「吉岡さん……すいません、俺今日行けません」


「え、どうした?」


「……離れないんですよ。こいつ」


 わたしはあらんかぎりの力でもって彼にへばりついていた。ここで出会った、猫に親切なことだけは確かなこの男を逃したら、暖かい布団やご飯には今晩まずありつけないだろう。


 わたしは混乱もしていた。当たり前だ。目が覚めた時に自分が猫になっていて、混乱しない人間がいたらお目にかかりたい。まず自分の正気を疑うだろう。わたしは正気じゃないと判断した。

 完全に夢だと思えたらよかったけれど、あいにく身を切るような寒さや、人混みの喧騒も、この上なくリアルな肌感覚を伝えている。こうなると舞原留里として、人間だったことの方が夢のようだけれど、ここまで生きた猫としての記憶は全くない。


「岸田、どうすんだ。それ」


 年かさの男性が岸田に苦笑いで声をかける。

 岸田は腕の中のわたしの眉間のあたりをそっとひと撫でして、笑ってみせた。


「とりあえず今晩は持って帰ります」


 とりあえず、持って帰られることになった。



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