表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/43

19.長い一週間【前編】


 わたしの思考がややおぼろになりつつあった、ある火曜日。帰宅した岸田が咳をこんとした後に「人の風邪が猫にうつるか」を検索して調べて、その後すぐに寝てしまった。


 翌朝水曜日、マスクをして会社に出ていった岸田は帰ってくると、ぐったりしていて、倒れるように寝てしまった。そして、次の日の木曜日は会社に行けなくなってしまっていた。


 咳、鼻、喉も痛そう。だるそう。風邪だ。


 部屋はエアコンが強く効いていて、篭った熱気が充満していた。床にはティッシュの山が積まれていく。


 岸田はずっと苦しげに寝ていた。

 キャットフードとお水を替えに、一日に何度かフラフラと起き上がるけれど、それ以外はトイレにしか行かなかった。


 次の日は祝日の金曜日だった。丸一日寝込んでいたわけだけれど、岸田はどんどんぐったりしていくように見えた。酷くなってるようにしか見えなかった。


 なかなかよくならない症状に、だんだん心配になってきた。


 熱があるのだろう。苦しそうだ。でも、この家には体温計がないので、どれくらいかもわからない。異常だったとしてもわからない。

 起き上がるのがしんどいからなのか、食べ物もあまり食べていない。確かに、冷蔵庫になければ寒空の下買いにいかなくてはならない。それは大変だろう。


 病院に行った方がいいのでは。

 少しくらい何か食べた方が。

 せめてもっと水分をとって欲しい。

 換気して加湿器を使った方がよくないかな。


 色々思うけれど、何もできない。

 枕元で「にーにー」鳴くばかりだった。


 はらはらしながら、部屋の床をウロウロしていたけれど、それも邪魔だろうと、ベッドの横で様子を伺う。


 一日中、岸田はいつ見てもずっと苦しそうにしていた。


 いつも、この家はわたしと岸田以外誰もいない。だから賑やかではなかったけれど、それでも生命力や活気があった。


 薄曇りの冬。外は昼間でも薄暗く、電気のついていない部屋は夕方のようだった。窓の外を見ると雪が振り出していた。

 閉じた部屋の中は動きもなく、どんよりとしている。時間だけが酷く緩慢に、のろのろと通り過ぎていく。


 今何時だっけ。

 もう、今土曜日だっけ。まだ金曜日のままだろうか。どれくらいこうしているんだろう。時間の感覚を失う。


 青白く顔色を失った岸田が、岸田じゃないものに見えてくる。


 全然よくなってる感じがしない。


 それどころか悪くなっている気がする。

 どんどん心配が募っていく。


 大学時代、知り合いの先輩が風邪で来なくなり、入院して、そのまますぐに亡くなったことがある。ウィルスが脳に、とか、そんな単語の切れっぱしを聞いた。

 それはあっという間の出来事で、風邪で人が亡くなることがあるんだと、信じられないような思いだった。


 子供の頃、夏休みにおばあちゃんの家に行ってひと夏過ごしていた。すごく楽しかった。

 当たり前にずっと存在していると思っていたそれは、ある夏に急になくなった。そして、そこで過ごす夏の日は、二度と戻ることはなかった。


 中学校にいた高齢の先生が、ある日来なくなった。しばらくして、二度と来ないと知らされた。


 連続していろんなことが思い出される。いつもは意識していない、想像すらしていない「死」というそれが、急に生々しさを帯びてすぐそこにあるような気がして怖くなる。普段は忘れているだけで、それは本当はいつだって隣にある。


 人は、思いがけないことで、本当に急にいなくなる。


 それはわたしの頭の中の、一番触れたくない記憶に触る。


 お母さん。


 小学校四年の時のことだった。

 それなりに長い日々だったのに、あの時期の何もかもが慌ただしくてあっという間で、前後の記憶は薄い。いや、本当は覚えているのに、思い出したくないだけかもしれない。


 だから思い出そうとすると病院の帰り道の道路に落ちていたへこんだ空き缶だとか、そんなものばかり浮かべてしまう。


 思い出したくないことに、罪悪感さえ抱えて。でも本当はずっと、全然忘れてなんていない。


 日常が崩れる瞬間はいつだってあっけない。


 目の前にいるこの人が、急にいなくなる可能性は確実に存在している。


 既に、いつもの日常にいて笑ってくれる岸田はこんな早さでいなくなってしまった。


 これ以上悪くなったら、何かに連れてかれてしまうかもしれない。


 怖い。怖い。怖い。


 どうしていいのかわからず、それでも片時も側を離れたくなくて、ずっと近くにいた。

 見ていない間に、彼がどうにかなってしまうような不安があって、なんにもならないのにずっと「にーにー」と声をもらして見つめていた。


 冷たい冬に、苦しげな顔で汗をかいてうなされている岸田を見てると心配になったし、熟睡して動かないと今度はもう目を開けないんじゃないかと不安になった。


 物音ひとつしない静かな夜中に、血色を失った岸田の寝顔をひとりでずっと見つめていたら、泣きそうな気持ちになった。


 岸田。岸田。早くよくなって欲しい。


 元の岸田に戻って、笑って欲しい。戻ってきて欲しい。


 ちゃんとよくなるんだろうか。全然食べてない。このまま重い病気になってしまったらどうしよう。誰かを呼んだ方がいいんじゃないかな。何かできることは。


 焦るばかりで頭が働かない。


 あまりに静かな部屋が怖くて、「にゃあ」と小さな声を上げる。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ