18.選択
岸田は失恋をした。でも、きっといつかは、彼女を作るだろう。彼は実際のところ猫とふたりだけでずっと暮らしていけるほど強くはない。結果的にそうなることはあるかもしれないが、少なくとも本人にそのつもりはなさそうだ。
だからわたしも、いつかは戻るつもりだった。
でも、油断すると忘れそうになる。今が心地良すぎて。この状態は今しか楽しめない。だったら、彼女ができるまでは、このままでいたい。猫になったわたしの世界には、きっと岸田しかいなかった。
あまり長くいると岸田の方の情も深くなる。よくないとはわかっていた。
だけど、どうしても離れ難かった。
わたしはこの小さな街で、岸田が眠り、目覚めてご飯を食べて、ぼんやり過ごすのをまだ見ていたい。
誰かに惹かれるのに理由はいらないけれど、わたしの心には岸田に惹かれる理由がしっかりとあった。それもいくつも。言葉にできるものと、言葉にはできないものもある。
岸田は消極的で面白味はあまりない奴かもしれないが、大切にしようと思った対象に心血を注ぐポテンシャルはある。
潜在能力でしかないのは、彼が人間相手にそれをいまいち発揮できなさそうだからだ。自意識の強さが邪魔をしているのかもしれない。
猫であるわたしには、彼は気負いなく、心をまっすぐに注ぐことができる。
岸田はわたしを甘やかす。
興味や好きなものを探り、反応を見てそれに近いものを揃えていく。わたしは自分でも知らなかった猫生の楽しみをたくさんみつけられていた。岸田と過ごす日々はどんどん楽しくなる。
わたしは最近箱に入って遊ぶのが好きだった。けれど、思い返してみれば、これは人間の子供の頃も好きだった。
狭い箱の中に収まると落ち着くし、岸田が撫でてくるその腕にじゃれて遊ぶのも楽しかった。
そのまま遊び疲れて眠るのは動物的な快楽だった。
最近、子供の頃のことをよく思い出す。
子供の頃は、見えている世界が違った気がする。
それは、比喩的なものではなく、単純に目に入る物が細やかだった気がする。
たとえば、空気中に舞う埃が光できらきらしているさまや、床の木目のひとつひとつの模様。
ゆっくりと動いている雲や道路に落ちてる葉の葉脈。硝子瓶を通る光。そんなものが自然に目に入っていた。
人間の脳は年齢と共に蓄積した情報が増えると、一度見たものや、慣れたものはパターン化して認識から除外していくと聞いたことがある。そうなると目に入っていても、一度見たことのあるものとして、いちいち意識はしなくなっていく。
最近は、子供の頃のように、少し世界が細かくなっている気がする。視界が狭くて細かくて、だけど近過ぎて全体は見まわせず、ぼんやりしている。
人だった頃から、ぼんやりしている時はあったので、もしかしたら前からなのかもしれないけれど。
最近、複雑な思考をするのが疲れる時がある。
高校の頃授業で読んだ、主人公が虎になる話を思い出した。
彼は自尊心と羞恥心を基に虎となり、だんだんと人間である心や思考が失われていく。
虎となった身体に人間の心が飲み込まれてしまうのだ。
わたしはなんだろう、何を基に猫になったのだろう。疲労と、怠惰だろうか。
怠惰に引き寄せられるように、考えなければいけないことが隅へと寄せられていく。
*
夜中に誰かに呼ばれた気がして顔を上げると、ベランダに続く窓が開いていた。カーテンがゆらりと揺れるのに誘われるように外に出る。
手摺りの上に、にゃんてん様がふわりといた。
にゃんてん様は頭に響くような声でしゃべる。
「そろそろ、だよ」
「そろそろって、何が?」
「戻るなら、そろそろだ」
「もう少し……」
「もうそろそろ、戻らないと、完全に猫になる」
「え、どういうこと?」
「今のお前は人でも猫でもない。あやかしのようなものだ。心だけでなく、身体感覚だって、本物の猫とは少し違う。猫のようなもの、でしかない。そんな生き物はこの世のことわりからはずれている。不安定な状態はずっとは続けられない」
にゃんてん様は言った。
「選ぶんだよ。これからの人生を。人か、猫か」
「でも……」
「猫になれば、人間の感じる悲しみ苦しみからは、一切解放される」
完全に、猫になる。
不思議と、怖いとは感じなかった。
わたしはとても幸せだったからだ。
懸念材料はひとつ、岸田が彼女を作ること。
だけど、脳みそまで完全に猫になってしまえば、その時に嫉妬で苦しむことはない。
もしかしたら人間社会で過ごすより、猫として生きる方が、わたしには向いているのかもしれない。
それに何より、岸田と、ずっといられる。
大好きな人と、一番良い関係性のまま、一緒にいられる。
岸田だって、わたしが人であるより、猫であることを望むはずだ。
「もう、そろそろだよ」
にゃんてん様は「そろそろ」を繰り返す。
わたしはぼんやり「そうか」と思う。
*
目が覚めた時には、わたしは部屋の中にいて、さっきまでのにゃんてん様との会話が夢だったのか、現実だったのかもわからなかった。
だからわたしは、それを夢だと思うことにした。
その時点でわたしの選択は一方に傾いていたのだろう。
あるいは、舞原留里の家族や、生きた数々の記憶が引き留めようとするそれは、獣のぼんやりとした思考にゆっくりと塗られはじめていたのかもしれない。
だからもしかしたら、その次の週にあった、あの小さな出来事がなければ、わたしは今でも猫として岸田の家で、彼の膝にいたかもしれない。




