17.失恋
わたしが岸田の元に戻ってしばらく経った頃、岸田が落ち込んで帰ってきた。どうやら保科さんに失恋したらしい。
兄を連れて帰宅した彼は珍しく酔っ払っていた。ろれつのまわらない言葉をブツブツと唱えていて、兄がそれにぞんざいに頷いている。端々から経緯が知れた。
岸田の会社には定年間近の独身男性がいるらしい。保科さんは、大変な歳上好きで、ある日別部署の彼に一目惚れして異常な行動力を見せ、あっという間に告白して、あれよあれよと妊娠して、なんやかんやで寿退社することになったらしい。
「前から……俺と話している時に、しきりに歳上が好きだと言っていたから……俺……むしろアプローチされてるとばかり……」
「お、お、恥ずかしいなそれ。彼女からしたら、むしろ牽制っていうか、だからあなたはタイプじゃありませんって言ってたわけだな……」
「そんなん、わかるかよ! そこまでの歳上好きとは思わないだろ!」
「まぁ、わかんねえかもなぁ……」
早い話が、岸田は最初から彼女のタイプではないのに、気をもたれていると勘違いして、いけると思っていたわけだ。まぁ、岸田はそこそこモテるだろうし、そういう人間は経験則から勘違いしやすい。
わたしは大喜びして家中を駆けまわった。
保科さん、おめでとう! そしてありがとう!
失恋だ! 失恋だ! 失恋だ!
喜ばしいったらない! 人間ならケーキにクラッカーでお祝いしてるところだ。わーいわーい! 岸田が失恋した!! 今日は岸田の失恋記念日だ!
「お、お前の猫、めちゃくちゃ機嫌いいな」
「あぁ……」
「まるでお前の失恋を喜んでいるかのようだな……」
その通りだよ! 祝福してるよ!
猫嫌いの兄にまでわかるご機嫌さに、岸田はうつろな目でわたしを見つめた。
「こいつ、雌だろ? 嫉妬してたんじゃないか?」
兄が無遠慮にわたしを持ち上げて股間を覗いてくる。
「ふごっ」
顔面にキックして降りた。
「くっそ! こいつ、畜生だな!」
実際畜生ですから。
岸田が着地したばかりのわたしを持ち上げる。
「兄貴、俺のチキンカツに触るな」
「にゃー」
その通りだ。一緒に糾弾した。
「おお! チキンカツ! 俺にはもうお前しかいない……!」
岸田が抱きしめておいおいと嘆くので「にゃー!」と同意する。
「お前とふたりで一生、生きる! お前が仔猫を産んだらその子達も一緒に暮らそう!!」
「にゃにゃー!」
「お前……それでいいのかよ……」
兄の冷静なツッコミが響く。
岸田は我に返ったかのようにまた力なくうなだれた。
「……そんなに好きだったのか? その、会社の後輩」
「彼女は、猫が好きだと言っていたから……そんな人と家庭を築けたらと……」
「そんな女ゴロゴロいるよ。ってか猫好きな女って痛い奴多くねえ?」
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのか、兄が世の猫好き女性を敵にまわすような発言を始めた。
でも、この兄はモテるタイプなので、弟と違って女性の前では絶対にそれを口には出さないだろう。なんなら猫を見ても女の子と一緒になって「可愛いね」と微笑んでる胡散臭い笑顔まで目に浮かぶ。
「ってかお前……結婚まで考えてたのか」
「結婚したかった……」
「彼女と?」
「いや、誰でもいいけど、猫好きと」
「誰でもいいのかよ!!」
「俺、正直もう恋愛したくなくて」
「はぁ?」
「恋愛は、駆け引きだの嫉妬だの付いてきて面倒くさいだろ。結婚は、そういうの終わってもっと、ただ隣にいてくれる感じがいい」
「それこそ幻想だろ。女なんて適当に付き合うのは楽しいけど、結婚はやだな。ときめきはねえのに事務的な共同作業だけ増えて絶対面倒くせえぞ」
「それは向き不向きの問題だよ……。ときめきとかすっとばして枯れた関係が欲しいんだが、誰かいないか?」
「お前そういう顔じゃねえからな……」
「そうだよ……みんなこの顔がいけないんだよ。俺がだいたい向こうに押されて付き合って、その女が押してくる男に靡いてとられるのも、恋愛体質の女が寄ってきてるからだろ!」
「うんうん」
前から思っていたけどこの兄、面倒くさくなると頷いてすましている。
「学生の頃人に嫌われたのも、この性格の悪そうな顔がいけないんだろ!」
「いや、それは、お前……実際に性格が悪かったんだよ」
「チキンカツー!」
岸田がわたしをひしと抱きしめる。
だいぶ心がまいっている模様。
「何を嘆くことがあるんだよ……。お前の話を総合すると、さほど好きでもないどうでもいい女に相手にされてなかっただけだろ」
「……っ、無難な相手と……結婚したかったよう〜」
「お前、今果てしなく失礼なこと言ってるからな」
「……本心だから仕方ないだろ!」
「最悪。だいたいさぁ、お前、彼女のドライで干渉し過ぎない感じがいいと思ったとかって言ってたよな……」
そんなことを言っていたのか。耳を傾ける。
「教えてやるけど、そこを好ましいと感じるのはお前が相手を好きじゃないからで……そもそもドライなのは向こうがお前に関心がねえからだよ! お互いどうでもいいと思ってたのが脈も縁もなかっただけじゃねえか! なんの問題があんだよ!」
「うう……怨念の強そうな女は嫌だ。お互いどうでもいい相手と結婚したい」
「お前今はっきり、どうでもいいって言ったな……」
「いや、いい意味で!」
「いいも悪いもあるか! そんな面倒くせえこと言ってるうちは結婚できねえよ」
「……ぐう」
岸田が呻いてテーブルに突っ伏してつぶれた。好きな人が割と馬鹿なことがわかって、わたしも悲しい。
「俺明日仕事だから帰るぞ」
「さよなら……お幸せに……」
「暗いっつの! じゃあな」
数年ぶりに会った岸田は、社会性を身につけて丸くなったと感じていた。人付き合いもそこそこできるようになったと。でも、こうして聞いていると、根はさほど変わっていない。偏屈で、人嫌い。
いや、わたしがそう思い込んでいただけで、彼の根は、意外にも、もう少しおせっかいで寂しがりだ。いくら虚勢を張っても完全に孤独にはなりきれない。
だとするとそれは、もしかしたら、諦めなのかもしれない。
誰かと深くわかり合おうと、馬鹿みたいに正面からぶつかって、結局理解されずに生きてきた彼が高く築き上げた、諦観の壁。
岸田は表面上は適度なコミュニケートをすることを覚えたけれど、根っこは分かり合うことをはなから諦めている。
全てに拒絶をしておきながら、誰かにみつけて欲しがっている。誰かにわかって欲しくて、隣にいて欲しがっている。
だから彼の求めるものはとても中途半端だ。




