16.捜されるチキンカツ
家出生活は散々だった。
岸田といる時はそうでもなかったけれど、ひとりでいると他の野良猫には妙に警戒されやすかった。縄張りがあるのか、もしかしたら普通の猫と違うのがわかるのかもしれない。理由は不明だけれど、避けられたり威嚇されたり、たまに追いかけられたり。
夜は寒く、ヨレヨレで毛並みもボサボサになっていく。わたしは野良猫としてはまったくもって生活力のない奴だった。
特に、他の野良猫ならば食べられるものでも、わたしには食べられない食材が多かった。落ちているものとか、生きたネズミだとか、カエルだとか。無理無理無理。絶対無理。
しかし偏食の野良猫なんて、生きていけるよしもない。
わたしは猫になったと思っていた。
実際身体は猫だった。
でも、わたしの心はずっと、猫ではない。
そういうものが野生で生きていくのはとても難しい。というか、まず無理。元がもっとたくましい人間だったら違ったかもしれないけれど、わたしは無理。
早い段階で音を上げたわたしは弁天様へとおもむいた。このままだと、真剣に生存が危うい。
岸田のところに戻る勇気はわかない。人に戻してもらおう。というか、そうするよりない。
にゃんてん様はまた留守らしく、どこを捜しても見当たらなかった。なんとなく、公園内に気配も感じられない気もした。
人間だった頃はいつ行ってもいたのに。
よく考えれば毎日行っていたわけでもないので、今まではたまたま生活スケジュールが会いやすいものだっただけかもしれない。
堂舎の近くでずっと待っていたけれど、結局その日、にゃんてん様が戻ることはなかった。
逼迫した状況ではあったのに、わたしはそのことに少し安堵を覚えたりもした。まだ、にゃんてん様に会うのにためらうような感覚が少しあった。
しかし、順調にお腹は減っていく。
そんなこんなで二日も経つ頃にはすっかり野性味をおびた、そのくせ生活力はない、警戒心だけ異様に強いボロ猫へと成り果てていた。
自由って、すごく不自由なんだ。
お腹が減った。頭がぼうっとする。
ぼんやりした頭の中、わたしはずっと、岸田のことばかり考えていた。
岸田。岸田。岸田。
頭の中が彼で埋まっている。
目を閉じても開けても、笑う顔や、愛おしげなまなざしが、頭の端にいくつもちらつく。
再会してからの彼は高校時代はほとんど見せなかった顔を、一度だけ素敵だと思ったその時の顔を惜しげもなく見せてくれる。
あれはきっと、人に不器用な彼が、猫にだけは見せられる顔だ。
でもそれは、わたしに、舞原留里に向けられたものじゃない。
そんな思考を繰り返して、結局堂々巡りをしていた。
*
気が付くと、しとしと雨が降っていた。
公園内の植木と植木の間で丸くなっていたわたしは身を切るような冷たい風に目を覚ました。
寒い夜に降る雨は体温を奪っていくが、腹が減ってどうにも動けない。よく見ると一部雪になっている気もする。
やばい。凍死する。せめて、屋根のある場所。もう少し、雨風が凌げる場所。
猫のまま死んだら、人のわたしはどうなるんだろう。もし死んだ直後に人間の姿に戻り、素っ裸で公園内に倒れているとかの事態になったら、笑えない。
寒い。眠い。気が遠くなる。
ふーっと低い音が聞こえて、見ると近くに猫がいて、歯を剥いていた。
一目で敵意がわかる。反撃する元気も逃げる気力もなかった。
殺されるかなと思ったけれど、突然何かに気付いたように逃げていった。
顔を上げると白い猫が少し遠くに見えた。
にゃんてん様だ。猫の目で見ると、明らかに普通の猫と違う異様な存在感がある。後ろ向きで、こちらに気付いてもいないのに、威圧感はすごい。
あそこに、行かなくちゃ。行って、戻してもらわなくちゃ。
その時、少し遠くから声が聞こえた。
「……カツッ」
耳を澄まさなくても、声は近づいてきていた。
「チキンカツー!」
岸田の声だった。今までも家を出て勝手にそこらを散歩して帰ることは何度もあったけれど、戻らない時間が長くなり心配になったのだろう。もしかしたら昨日も捜してくれていたのかもしれない。
「チキンカツ! チキンカツ! チキンカツー!」
何も知らない人が聞いたら、そんなにチキンカツが食べたいのかと思われるであろう絶叫が、雨降りの夜の中に響く。それは、スーパーで買ってきて渡してあげたくなる悲壮さだった。
岸田が愛猫のチキンカツを捜して、雨の中来てくれたというのはわかるのに、わたしの足は積極的には動こうとはしなかった。
楽しかった猫生活は思わぬことでいまいち楽しめなくなってしまった。
わたしが、岸田に恋をしてしまったことで。
そばにいると、幸せだけどきっと辛い。そしてこれからもっと、辛くなる。
距離が近付いたのか、一際大きな声が聞こえる。
「テイィッキーン! カアァットゥゥーー!」
すごい。興奮のあまり巻き舌になってる。
あまりに悲壮に響きわたるチキンカツコールに、わたしことチキンカツはふいに脱力を覚え、ふらふらと声の方角へと歩き出した。にゃんてん様のいるのとは、違う方向に。
いつか出ていくにしても、人に戻るとしても、とりあえず今は岸田のところへ戻ろう。そう思った。
ぬかるんだ土に肉球を浅くスタンプさせながら歩き出し、思う。
これでいいんだ。
岸田が捜してる。わたしを必要としてる。
彼の必要としているのは猫のチキンカツであって、人間の舞原留里じゃないけれど。
たとえばわたしが元の姿に戻り、彼に会いにいくと、彼は愛猫を失うことになる。彼は人間であるわたしとは親しくもないし、だいぶ面倒くさくて気難しい彼がわたしを受け入れるかはわからない。
「にゃー」と言って近くにいくと、岸田はものすごく俊敏な仕草でバッと振り返った。
「ち、ち、ち?」
「にゃー」
「ティーッキンカツ!」
どう見ても猫である物体にチキンカツと断定した呼び声をあげた彼は、それでも警戒させないよう、恐る恐るといった感じに近付いた。わたしは、疲れ切っていたのでさっさと足元に寄って身体を擦り付けた。
ごめんよ。心配かけた。そんな風に、まなざしで送った。
岸田はわたしを抱き上げて捕獲すると、いくらかほっとしたようで「チキンカツ、チキンカツ……」とまた半泣きで食品名を連呼している。
「なんだよ。散歩に出て迷子になったのか? それとも俺のことが嫌になったのか?」
岸田も寒いのだろう、声が震えている。
「急にいなくなるから、心配しただろ……」
「……」
「俺のそばからいなくならないでくれよ……」
ぼんやりする頭で胸の匂いをかいで、ああ岸田だ、と思う。
やっぱり好きだ。すごく会いたかった。
わたしだって、ずっとそばにいたい。
人じゃ駄目なんだと思っていた。
猫だから、好き同士でいられるんだと。
自分で思ったことだけれど。
それが本当なら、人であるわたしの想いはどうなるんだろう。どこに行くんだろう。




