15.家出
目が覚めると見慣れた自分の部屋だった。
身体が重い。懐かしい眼精疲労。肩こり、腰痛、慢性的な疲労感。鏡を覗き込むとくたびれた顔の女がいた。
スマホの表示を見ると、一月十七日だった。
何もかもがあの日、猫になる前の状態のまま。
じゃあ、岸田と出会ったあれも、何もかも全部夢だったんだろうか。
岸田はあそこに住んでいるのだろうか。
あの場所に、大人になった岸田はちゃんと存在しているんだろうか。
わたしは岸田を捜して電車に乗った。
電車は誰も乗っていなくて、真っ赤な夕焼けが眩しく射していたけれど、着く頃には扉の外は真っ暗になっていた。
電車は、暗い海の上を走っているようにも感じられた。
駅の改札を出たところで、緩い円陣になっているスーツの集団を見つけて駆け寄る。
いた!
あれだ!
「岸田!」
見慣れたスーツに駆け寄って腕を掴む。
振り向いた岸田は眉間に皺を寄せて、不快そうな顔をした。
「お前、誰だよ」
岸田は続けて言う。
「俺が好きなのは、猫のチキンカツだ。お前じゃない」
*
おかしな夢を見てしまった。
寝過ぎたのか、岸田はもう出かけたあとだった。身体は猫だし、岸田の部屋だし、ちゃんと昨日の続き。どちらが本当の夢なのかといったところだが、そこは問題ではない。もっと重大なことがそこにあった。
さっきの夢は何かおかしいと感じる。
わたしは猫として岸田が好きで、岸田も猫のわたしが好き。それでなんの問題もなかったはずだ。
なんでこんな夢を見るんだろう。
これじゃまるで───。
自分の思考に混乱してしまい考えた。
ベッドの上で丸くなり考えていたら眠くなったので、部屋の隅に行き、尻尾を床にぴたぴたしながら考え続けた。
原因はなんとなくわかる。
昨日の夜岸田が保科さんと電話で話していた。
その態度はいつぞやの佐々木さん相手の時とは違う。
嬉しそうというよりは気を使っている感じだったけれど、丁重に扱っている感じがした。
そして週末にふたりで会う予定を話していた。岸田が誘ったようだった。
そうか、と思う。
勝手にすればいいことだ。
なのに、おかしい。
おかしい。
わたしは、岸田が恋をして幸せになることに拒否感を感じている。彼は幸せになるべきなのに。
それなのに、はっきり嫌だと感じる。
ベランダに出る窓が半開きになっていた。
わたしは普段から勝手に庭や散歩などに出ることを許可されている猫だったので、岸田は窓の開閉にそこまで神経質に気を使ってはいない。
そこからベランダに出ると、洗濯籠がおいてあった。湿った洗濯物がまだいくつか籠の中に残っている。上を見上げると途中まで干されていた。よほど急いでいたのか、途中で諦めて出たんだろう。気の毒だが代わりに干してやることはできそうにない。
外には午後の静かな空が広がっていた。
雲はほとんど動いていないように見えて、ゆっくり、ゆっくりと移動している。
この空の下にものすごく大勢の人の生活が存在している。
この時間、働いている人、学校にいる人、休んでいる人、遊んでいる人。泣いてる人、笑ってる人、怒ってる人。わたしとは関係ない多くの生活が外には無数に散らばっている。
それはわたしが想像しているよりもきっとずっと広くて、いろんなシーンに溢れている。
岸田も、働いている。
本当のわたしとは無関係な、人間の生活を毎日送っている。わたしはそれを覗き見しているだけだ。
岸田頼朝と舞原留里は親しくもない遠い知人でしかない。
わたしと彼の関係は、高校時代で止まったまま、何ひとつ動いてはいない。こうやって過ごした生活は何もないも同然だ。
岸田の人生は毎日前に進んでいる。
けれど、わたしの人生はあの日からきっと、動いていない。前にも後ろにも行かず、止まっている。
なんでわたしはここにいるんだろう。
そう思った。
猫になってすぐに出会った岸田。なんとなく流れでここまで来たけれど、もともとここで暮らす予定だったわけじゃない。
何もかも、流されていただけで、わたしは自由だ。岸田の生活に付き合う理由なんてない。
他の飼い主を探した方が、もっといろんなものを食べさせてもらえるかもしれない。
このままいたら、避妊手術とかされるかもしれない。
病院に連れていかれて、猫用のワクチンを打たれたことはある。あの時は、もう終わったと思ったけれど、とりあえずなんともなかった。よく考えたらわたしは人間の状態でインフルエンザの予防接種を受けてたりもしたので、関係ないのかもしれない。でも避妊手術は別だろう。そんなことされたら、人間に戻った時にかなりややこしいことになる。まだそんな話は出ていないのに、頭の中で出ていくための理由を探し始めている。
いろんな言い訳を考える。
でも、本当は理由はひとつだ。
保科さんと岸田が仲睦まじくしてる光景がずっと頭の端にあった。
そう遠くない未来に、現実にそうなる可能性がある。わたしはその時彼のそばにいて、楽しくいられる自信がない。
こうしている今も、彼は会社で彼女との時間を過ごしている。それを想像するだけでお腹の奥がモヤモヤするような感じがした。
そもそも、わたしはいつまで猫でいる気だったんだろう。そろそろ人間に戻ってもいいかもしれない。
いや、このまま猫として生きていくことだってできる。
わずらわしい人間の世界を完全に捨ててイケメン、いやイケ猫の雄猫でも見つけて番って、猫の家庭を築くのだってありだ。それだってもしかしたら幸せかもしれない。
どうするにせよ、新しい道を見つける方が、建設的だ。もう出ていってもいいかもしれない。
それでも、それを引き止めるように岸田のいろんな顔が頭に浮かぶ。
吉祥寺駅で再会した時の顔。高校の頃の仏頂面。兄と話している時の気の抜けた顔。わたしに微笑みかける優しくて無防備な顔。
その顔達はわたしの心を弾ませるものだったけれど、それをかき消すようにもうひとつの顔が浮かぶ。保科さんと話していた時の、優しさで気を使った顔。相手を尊重した人間に見せる顔だ。
途端、楽しかった日々と生活が色褪せて、萎れていく。
ベランダからは遠くが見渡せる。
わたしは、ここにいたくない。
猫でも人でも。
行こうと思えば、どこへでも。
隙間から抜ければ、もうそこは外の世界。
新しいものが、なんだってある。
わたしはそのまま家出した。




