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14.後輩社員


 その日、岸田は女の子を伴って帰ってきた。

 ぱっと見て線の細い感じで、真面目そうな彼女の名前はどうやら保科ほしなさん。だいぶ酔っ払っているように見える。


 彼女は泣いていて、ふたりはそこまで親しいようにも見えなかった。少なくとも今はまだ。


 溢れ聞こえる話を総合すると、彼女は岸田の会社の新人。入ったばかり。あまり優秀ではないが、日々真面目に頑張っていた。しかし、教育係の女性社員とはあまりうまくやれてない。

 何度か行った取り引き先で毎度セクハラを受けて精神バランスを崩していて、それが呼び水となり、ちょっと大きなミスをしでかして「もう辞める」と言っているのを、岸田がなだめていた。


 なんとなく、わかる。

 ひとつなら我慢できたことが、追加で雪崩のように来るとキャパを超えてしまうのだ。


 わたしも何度かそんなことがあった。

 対処法は、なんとかやり過ごす、それだけだった。時間が経てばなんとかなる案件と、そうでもない案件があって、いくつかは耐えていれば過ぎていく。数が少なくなるのを待つのだ。

 その間は慎重に、息を潜めて過ごす。特に、人に頼るのが上手くない人間はそうするほかない。


「私、駄目なんです。他の人とも上手くやれないし……高川さんのことも……嫌だなって思った時に、顔に出ちゃうのは……社会人としてありえないって、久我さんに言われました……でも、おかしくないですか?! あんな気安く触ってくるのが社会人なんですか?!」


 ぐすぐす泣いている保科さんは最初と最後でテンションが自罰から他罰に変化している。感情がしっちゃかめっちゃかなのが非常によく伝わってくる。


「もう続けられる自信がありません……私が、私が全部悪いんですよね……他の人ならあんなのもさらっと笑顔でかわして、久我さんともうまくやって……ううぐぅ」


 また、傍で見ていると岸田は慰めるのがあまり上手くない。


「大丈夫だよ、俺も最初はそうだった」


「岸田さんは男だから……男性は女性ほどは人間関係に気を使わなくてもいいんですよ。それが許されてる気がします。女同士ってもっと面倒くさいんです! それに……岸田さんは仕事もひとりでできるからいちいち聞かなくていいし……久我さんは私が嫌いなんですぅ……私にだけ、いつも……うう……」


 新人のうちって、どうしてもひとりではできないから、教えてくれる人間との関係性はかなり大きい。人によっては守られている気楽さを感じる人もいるかもしれないが、わたしもさっさと覚えて、当たり前のことをいちいち許可を取らずにひとりでやれるようになりたいと思っていた。


「岸田さんは教えてくれた吉岡さんに好かれているから……わからないんです! あいつも入った頃は酷かったって聞きましたけど、そうやって、きちんと見てくれる人が付いたから……仕事覚えた頃にはマトモになってたって言うけど……私は久我さんじゃ覚えられません! 久我さん教え方が雑で、言ってくれないし、言わないでも先を読んで動けって言うくせに、いざやるとなんで勝手なことしたって怒ってばっかりなんです!」


 久我さんからしたら当たり前にやって欲しい簡単なことをやらず、マジでやって欲しくないことを勝手にした可能性もあるけど、保科さんの気持ちはすごくわかる。

 自分が当たり前に知ってるからといって雑に説明されると、新人はまったくわからないのだ。おそらく久我さんは自分がすいすいできたタイプか、あるいは忘れてしまっているんだろう。


 話だけだと、どちらがより悪いのかはわからないが、相性は確実に悪いんだろう。


 保科さんは蕩々とこぼした後に熱がぶりかえしたのか、また嗚咽しだした。


「うう……すびばぜん……」


「いや、大丈夫。保科さんは俺よりまともだから」


「ううぅ……じゃあなんで……」


「誰でもそういうことはあるよ。頑張れ。大丈夫」


 さっきから岸田は根拠のない大丈夫大丈夫を繰り返すばかりでまったく説得力がない。

 下手だなぁ、そう思うけれど、彼の性格を知っているわたしは少し感心してしまった。

 岸田はここまでで、いつもの余計な本音を封印している。それだけでも、理性的に相手を慰めるのを目的としている。


 さんざん泣き喚いて、鼻の頭を赤くした保科さんが、ここまでずっと置物のようにベッドの上に鎮座していたわたしにようやく気付いた。


「猫……飼ってるんですか」


「え、ああ……チキンカツ……」


「岸田さんお腹減ったんですか? あの猫の名前は、なんていうんですか」


「……お茶でも飲む?」


 岸田はわたしの名を教えるのをやめて、誤魔化して、キッチンに行った。


 わたしはここまでで、保科さんに自分に似たものを感じてしまい、同情してしまっていた。

 わたしも、もしかしたら彼女の数倍は社会に適合しにくい人間だったからだ。


 猫は言葉を持たない。

 けれど、だからこそ与えられるものがある。


 彼女の膝に前脚を乗せてやると、少し驚いたようだったけれど、ほんの少し頬を緩ませた。


 けれどそれは一瞬で、彼女はまた現実を思い出したのか、しばらく呆然とわたしの背中を撫でていた。


 岸田が戻ってくる。


「紅茶でいい?」


「あ、私、コーヒーがよかったです!」


「先に言えよ!」


 軽口が叩ける程度には回復したらしい彼女を見て、岸田もほっと息をついた。わたしにも、彼女は普段はもっと明るい人なんだろうというのが窺われた。


 彼女はまたしばらく、わたしの背中を撫でていたけれど、ぽつりと呟く。


「猫はいいですね。気楽で……」


 岸田は少し考えていたが、しばらくして口を開く。その言葉に、凍りついた。


「俺は、君が猫だと困る」


 岸田はそう言った。


 岸田は彼女が持ち直すと一緒に出ていった。


 まだ終電も余裕である時間。送っていったのだろう。


 わたしは、その場でずっと、猫の置物のように固まっていた。


 思えば、ミスをして落ち込んでいる後輩を慰める役に岸田は向いてない。だから誰かに言われたとは思えない。そして彼の性格的に、そんな役割を積極的にやりたがるとも思えないので、これはやっぱり、彼にも下心があったのだろう。


 保科さんの方は本気で会社に疲れている様子で、そんなことは頭にないのかもしれない。どうだろう。情報が少ない分どうにでも見える。

 そういえば先輩後輩にしてはずいぶんと打ち解けているようにも感じられた。


 どちらにしてもわたしは妙な居心地の悪さを感じてしまう。


 もしかしたら、岸田の新しい恋愛が始まった現場に立ち会ってしまったのかもしれない。


 正直な感想としては、見たくなかった。


 岸田は彼女と付き合うんだろうか。


 もしそうなったら、わたしはどうなるんだろう。


 しばらく考えて、別にどうもならない、という結論に至った。


 たぶん関係ない。猫がいても、ほとんどの場合、付き合いも結婚も出産も、何も影響しない。猫は、人同士の繋がりには、関係がないのだ。


 わたしは。


 にゃあと鳴く猫の役割と、その存在について考えずにはいられなかった。




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