1.弁天様の大きな猫
疲れた。
疲れた。
疲れた。
年も明けたばかりなのに、わたしは疲れ果てていた。
ここ最近はずっと終電帰り。休日も潰れていた。ようやく仕事がひとつ案件を終え、狭間の短い期間に入った。直前の仕事がトラブル続きだったため、限界を迎えた金曜日。わたしは半休を取って会社を後にした。
途中下車で、吉祥寺駅南口の改札を出た。
わたしは疲れた時や休日に、いつもここに寄る。
吉祥寺は東西にのびるJR中央線を境に、北側は都会的なビルやお洒落な商業施設が立ち並び、賑やかで利便性が高い。
南側は、大きな池のある井の頭恩賜公園を主とする自然がメイン。小さな動物園もある。お店もこちら側は少し緩くて、どこか個性的。都会的なお洒落さと、大きな緑の穏やかさが隣り合ってひとつになっているのが街の特色だ。
ここに来ると映画館、美容院、高級レストランから大衆居酒屋、そして緑の多い自然まで。この街だけで一通り揃う。吉祥寺は街全体がひとつの箱庭として完成されている。都心から近いのと、探検するのにちょうどいいサイズ感もいい。
元気に楽しみたい時は北。癒されたい時は南。
今日は断然南。緑色に包まれたい。野鳥や鯉や亀を穴が開くほどうつろに眺めてコーヒーでも飲みたい。
クレープ屋、アジア系の雑貨屋、昔からある焼き鳥屋。それらのいろんな匂いを嗅ぎながら七井橋通りを進んでいくと、井の頭恩賜公園が見えてきた。
公園をてくてく歩いてコーヒースタンドに行き、コーヒーを買う。ベンチに座って大きな池を眺めながら飲むと人間の形の消炭みたいになっていたのが、人間に戻った気がした。
飲み終わったら、ぶらぶら歩いて井の頭弁財天へと向かう。
赤い堂舎が特徴的な井の頭弁財天は、公園内の池の中の小さな浮島の上にある。
ここにはわたしの大好きな友達がいた。
いつも周辺にいる、ものすごく大きくて真っ白な雌猫。金色の目と、長めの毛並み。異様に長くて太い尻尾はまるで白蛇のように見える。
弁天様の遣いである白蛇を連想されるのと、彼女のその妙に神々しい存在感で近所の人からは『にゃんてん様』という、ありがたいのかありがたくないのかわからない通称が付いていた。
いつからいるのかは知らないが、すっかりちゃっかりしれっとこの周辺のトレードマークとなった彼女はだいたいここにいる。
最初のうちは見向きもされなかったけれど、何度か来ているうちに少し近寄らせてくれるようになり、やがて撫でさせてくれるようになった。
ふてぶてしく、実に賢そうな顔の美しい猫だが、少しおっちょこちょいなところもあり、建物の屋根に登ろうとして目測を見誤ってそのまま落下していたりするのを見かける。身体が大きい分身軽さに欠けるようだ。そのまま溝にはまって無表情で固まっていたのを引っ張り上げたこともある。
この、にゃんてん様とも、もうかれこれ四年近くの付き合いになり、こうなるともう顔見知りを超えた友達みたいなものだ。雨の日などに少しでも濡れているのを見かけると、手持ちのタオルで水滴を拭いたりと世話を焼いてしまう。
彼女は今日も人間世界のしがらみなどまるで無関係な風態で凛とそこにいた。
午後の、のどかな風が吹く中、堂舎の裏のベンチに腰掛けて猫の背中を眺めていると、ふと高校の頃のクラスメイトのことを思い出した。そこまで親しくはなかったけれど、いろんな意味で目立つ奴だった。
岸田頼朝は成績もそこそこよかったし、顔も邪悪寄りだけれど整っていた。目立つのはスペックだけなら単純にモテるタイプだったのもあるが、それ以外にも非常に稀有な特性を持ち合わせていた。
岸田は猫に好かれる。
歩いていても寄ってくるし、ちょっと警戒心が強い野良猫でも、岸田には触らせる。中庭の芝生で座っていただけで、どこかから来た猫が寄ってきていたこともあった。
さほど親しいとはいえない仲だったけれど、通学路、校舎の外の渡り廊下、修学旅行中なんかに何度か見たそれはなかなか印象に残っている。
一方の私は猫好きだったけれど、鼻息荒いのが察知されるのか、野良猫にはまず逃げられる。友達の家の猫は、触らせてはくれるけど、抱っこまではできない。
岸田は抱っこが苦手な子でも、ひょいと自然に持ち上げる。抱かれた猫は気持ち良さそうな顔で目を細める。
岸田はほんの少し愛おしいようなまなざしを猫に向ける。普段聞いたこともない小さな甘い声で話しかけたりもする。その姿にドキッとしてしまったことは、実はある。
幸い恋にまでは発展しなかった。
なぜかと言うと、岸田は猫にはめっぽう優しかったけれど、人間には全く優しくなかったからだ。彼はとても協調性がなく、横暴で自分勝手な尖った奴だった。あれは人間が嫌いなんだろう。
けれど、そんなことに気を取られていた、のどかな昼休みに想いを馳せる。
岸田に限らずだけれど、高校のクラスメイトの半数以上は今何をしているのかは知らない。
みんな、わたしと同じように社会に揉まれてくたびれているのだろうか。
岸田は横暴な人間嫌いの印象であったが、わたし自身も学生時代、協調性のある方ではなかった。むしろ人より自分勝手で我儘で、自由で尖っていた。
しかし、会社に入ってからの五年ですっかりその尖りは失われて、丸くなったと感じる。会社での生活で、徐々にこぞぎ落とされたのだ。周囲同様、既製の型の形に変えられて量産型の勤め人メンタルへと変わった。少なくとも表面上は。
パワハラ、セクハラ、そんなのが破滅的に蔓延している会社ではなかった。多少ある程度。ブラック企業というのかどうか、その会社しか知らないので、基準もわからない。これが普通で、自分が大袈裟なのかもしれないとも思う。
我慢できる程度のストレス。けれど、繰り返される日々に混ぜ込まれるそれで毎日擦り減る何かがあった。
疲れが溜まってくると、ちょっとしたことに傷付きやすくなる。
直前の案件で自分がやらかしたミスを思い出す。普段ならやらない凡ミス。疲れているからと確認を怠ったせい。もう全く新人でもないのにと落ち込んだ。深い自己嫌悪とそれに加勢するように上司からの攻撃が加わり、さらに周りの迷惑そうな視線が刺さる。深海の底まで気分は落ちた。思い出すだけで気が滅入る。
せっかく入れた会社。耐えられないほどではない。けれどたまにどこか遠くに行きたくなる。
白猫の長くて太いしっぽが鷹揚な動きでゆらん、ゆらんと揺れる。それを見ていたら羨ましくなった。
声をかけると猫は毛繕いから顔をあげてきょとんとした仕草でこちらに来る。温かくて柔らかな毛並みを撫でていたらまた涙が出てきた。
喉元に手を伸ばす。猫はゴロゴロいいながら撫でさせてくれた。調子に乗って首に抱きつく。
「猫はいいねえ……」
ここに来る時はいつも疲れていて、そんなことばっかり言っていた。特に、普通の猫と比べても、彼女の威風堂々とした佇まいは、現世と遠く離れている。
彼女はわずらわしい人の世とは違う場所で生きている。
「もう猫になりたい……」
そう思わされてしまう程度には丸いフォルムと凛とした瞳は、自由で、美しくて、しなやかだった。
わたしは人間である舞原留里の生活から逃げて、仕事や、人間関係や、生きるための細かな面倒ごとのない猫の世界に行きたい。
「ねぇ、わたし、猫になりたい」
その一瞬、日常の細かな楽しみや、大切なことが全部心のストレスで塗りつぶされて、心底そう思ってしまった。
ふと顔を上げると猫の金色の瞳と目が合った。光彩が、きゅっと動くそれに、吸い込まれるような気がした。
それを見ていたら、ぐわん、と一瞬視界が歪んだ気がした。
強い風が吹いて、髪の毛をバサバサと揺らし、目をつぶる。
その風が通り過ぎると、不思議なくらい静けさに満ちていた。夕陽に照らされた堂舎と、辺り一面が黄金色に光っていた。
猫が、ごく小さな声で「なお」と鳴く。
わかったよ。とでも言うように。
体が輪郭を失うような浮遊感があって、直後に強い眠気に襲われる。
夢うつつに声が聞こえた気がした。
鈴を転がすような女性の声。
「戻りたくなったら、いつでもここに」
なんのことだろう。今、とても、眠い。
心地良くて、温かい眠りがやってきて、それに飲み込まれる。