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悪魔の乗りし船  作者: 最勝寺蔵人
本編
6/41

05 (ウェイ)

 ウェイは、自分の荷物置き場から愛用の竪琴を手に取ると、部屋を出た。入った時より暗く感じた。日が傾き続けているせいもあるが、イーギエの魔法の明かりに慣れたせいもあるだろう。

 客室の方が近いが、いきなりノックをして話しかけると、相手を警戒させてしまう。依頼人のテオ氏の意向に反する行為に当たるので、避けるべきだ。

 とはいえ、船員に片っ端から話しかけるのも嫌がられる。相手は仕事中だし、こちらは嫌われ者の冒険者だ。だが、もちろん、この手の情報収集に慣れているウェイには策があった。

 話しかける前に、何について聞くべきか整理しながら、ウェイは上へ向かう。

 注目すべきは土地の位置関係だ。この船、渦越え号は、王都とハイマーを主に往き来する交易船だ。一方で、闇夜の悪魔が恐れられている都市はプルサスだった。単純に考えて、これらは重ならなかった。プルサスには、やがてハイマーに通ずる河があるが、この渦越え号はそこまで遡ることはできないはすだ。だから、闇夜の悪魔がいつもの行動範囲を少し越えてみようと思ったというより、明確にハイマー経由で王都へ向かっていることになる。

 この動機は推測できた。おそらく捜査の網が狭まってきたのを感じて、それから逃れるための行動だろう。これはテオ氏が追跡している事実が裏付けになっていた。

 こういった行動を考えると、闇夜の悪魔は船員より乗客である可能性が高い。逆に言えば、船員であるなら浮いた存在になるだろう。洗い出すのは簡単なはずだ。

 階段を上り、客室の前の狭い通路を抜けると、船の前部空間に出てくる。帆柱が突き抜け、上への階段があるこの空間に四人の船員がいた。網や綱の整理をしていたり、胸の高さまである綱が巻かれた台座のようなものをいじったりしていた。ウェイの姿を見るとお互いに目配せし、一様に嫌な顔をする。

 ウェイは上りの階段の出口を見上げる。上からは、先ほど彼らが居た時と同じように、船員たちを叱りつけて指示する声が聞こえてくる。

 最初は臭いの問題からも、上まで上がることを考えていたが、ここの方が良いかもしれない。監督的立場の者がいれば、その部下は話がしづらい。監督も巻き込む手はあるが、失敗すれば一気に全体から話を引き出せなくなる危険があった。始めは小規模な集団からが適してそうだ。

「すいません、ちょっといいですか?」

 話しかけた船員たちからの返事はなく、きつい眼差しだけが返ってくる。自慢できないが、こういう態度を見せられるのには慣れている。そして、対応策も心得ている。ウェイは敢えて後ろ手に隠すように持っていた竪琴を軽く奏でる。

「私は吟遊詩人なのですが、各地を旅して回っているあなた方なら、私の知らない伝承歌を知っておられるでしょう。教えていただけませんか?」

 富める者も貧しき者も、生活の中で不足しているのは娯楽だ。現に、船員たちは仲間と顔を見合わせるが、その目は輝き始めている。

「お仕事の邪魔をするつもりはありません。手を止めずに歌っていただければいいだけです」

 実際、労働者たちが歌いながら仕事をしている姿は町の至る所で見かける。船員たちも歌いながらの作業に慣れているだろう。

 船員たちの顔を見合わせが頷き合いに変わる。が、まだ声を発していない状況で、いきなり歌うのは心理的な障壁が高い。だから、ウェイは先に提案する。

「では、お礼代わりに私から一曲披露いたしましょう。『いたずら小僧トゥキーの冒険歌』聴いたことはありますか?」

 言いながらウェイは早いリズムで陽気な曲を奏で始める。町に住んでいる者なら子供頃に必ず歌っている有名な歌だ。船員たちもにんまり笑い、体を揺すり出す。

「♪ホイホイホー、トゥキー様のお通りだ……」

 もちろん、ウェイの主な目的は歌ではなかった。歌を通じて船員たちの警戒心を解し、歌の合間に雑談として情報を引き出す。それが目的だ。この策は今回が初めてではなく、何度も使ったことがあった。

 四半刻ほどで多くの事が新たにわかった。

 まず、客室と思っていた部屋の一つは、上級船員の部屋だった。歌を聞きつけて、中からボリスという航海士が様子を見に来た事で、それがわかった。その部屋は今上で監督している甲板長と二人で共有している。

 ほぼ同じ広さになる客室も、二人部屋だった。客室と思っていた一つは便所だとわかったので、客室は全部で四つ。乗客は許容量の半分までしか埋まらず、それぞれ一人の合計四人らしい。

 他の船員たちは、今ウェイのいる場所の真上、船首楼で寝るらしい。こちらの人数は二十数名。航海士でも、数えないとわからない状況だった。疑われたくないので、もちろん、正確な人数はせがまなかった。

 待遇については愚痴混じりで聞かせてくれた。

 船員は、一般的な雇われ人と違い、日払いではなかった。出港前に半額、船が着き、荷を下ろし終えたら残りの半額をもらう仕組みになっていた。この点は、冒険者と似ていた。この額が少ないというのが船員たちの不満だったが、この手の不満はどこの労働現場に行ってもある。ウェイは、その具体的な額を聞くという不粋なことはしなかった。途中から会話に加わった航海士は、下級船員たちに不満を漏らすなと注意したが、確かに相場より低いのは認めた。しかし、その額を決めているのは船長であり、航海士ではどうにもできないらしい。ただ、安全な航海なので、危険への対価が含まれていないという解釈を示し、船員たちを、そしておそらく自分も含めて、なだめていた。

 航海士によると、この船はもっと沖へ出て長い航海ができるらしい。それを片道三日から四日の航海に費やしているので、嵐や海賊には遭いにくいそうだ。このあたりの理屈はウェイにはよくわからなかったが、船員たちは納得している様子だった。

 興味深かったのは、船旅の合間の期間だった。船が港に着いてから次に出る日は決まっていなかった。天候に左右されるのはもちろんあるが、積み荷が満杯に近くないと出発しないのが普通だからだ。だから、旅の合間は早くて一日、長ければ十日ほど掛かることもあるらしい。決めるのは船長だ。その間、船員たちは近くの酒場で時間を潰す羽目に陥る。下手をすれば所持金が底をつく危険すらあるらしい。船の維持に雇われる船員はほんの一握りで、これは日払いなので仲間たちは順番に回してやりくりしている。もちろん、それが待てずに他の船に乗る者や、家庭の事情などで次の航海に乗れない者は必ずと言っていいほど出るらしい。その結果、数名の補充が必要となり、今回は二人がいつもとは違う顔ぶれになっているそうだ。ただし、うち一名は何回かこの船に乗ったことのある者で、使える人材ということはわかっていた。あとの一人は、出航して数刻しか経っていない今の段階で使えない奴と判明した。既に、到着後の報酬が減額されるのは決まっていると笑いの対象になっていた。

 この時点で、ウェイは正規の船員たちの誰かが闇夜の悪魔であるという考えをほとんど捨てた。彼らにはプルサスまで行って帰ってくる時間がほとんどないのだ。

 プルサスには、王都からよりハイマーから向かう方が近い。それでも三日はかかる道のりだ。プルサスからハイマーは、川を下って来られるので早くなるが、往復で五日かかる計算になる。そこまで急いでも、この渦越え号の出航に間に合わない事が多いだろう。雨が降るだけで、道はぬかるみ歩きにくくなり、川舟は運航すらしなくなる。そうなると、往復に十日以上掛かるだろう。こんな状況で、闇夜の悪魔が、普段は渦越え号の船員として生活するのは、無理がありすぎる。

 考えられるのは、事件後闇夜の悪魔としての身を隠すため、船員になるという絵だ。これなら、今回臨時雇いになった二人は、闇夜の悪魔かもしれない対象となる。

 しかし、一番怪しいのはやはり乗客だ。

 それについても聞こうと、船員たちの気を引くために別の歌を披露しようとした時、向こうから好機がやってきた。

「陽気な歌が聞こえてくると思ったら、吟遊詩人も乗っていたのですか」

 そう言いながら客室側から現れたのは、一人の男。背は平均よりやや低く、痩せていた。年齢は四十代というところだろう。ポケットが複数ついたベストを着ているあたり、貧しい者ではない。だが、これは当然だ。貧しければ、こんな船には乗れないからだ。

「初めまして、下の階に部屋を借りているウェイと言います」

 ウェイは先に会釈を送った。

「これはご丁寧に。私はストンウェルと言います」

 そういうとストンウェル氏は、胸のポケットからパイプを取り出して口にくわえた。そしてすぐに苦笑する。

「すいませんね、悪い癖で」

 近くに火種があれば、そこから火を移してもらおうと炭の欠片を持ち歩いている愛煙家は多い。だが、町中と違い、船の中には火種はない。この男性も、ウェイと同じように一度火について怒られたのかもしれない。吸えないのだが、癖で、くわえ続けている。

 新たな人物の登場に、陽気になっていた雰囲気が少し変わった。が、意外なことに、警戒心が高まった感じはなかった。ストンウェル氏も、会話が止まったのは意識していた。

「どうぞ、お構いなく」

 ストンウェル氏が手のひらを見せるように差し出して促すが、航海士はもたれていた壁から姿勢を起こす。

「いや、俺はまだ書き物の続きだったんで……。お前らも手は止めるなよ」

 最後は船員たちにそう言って、左の一番手前の部屋に入っていった。

「へーい」と船員たちが答えるが、あまり真剣さは感じられない。だが、注意する目がなければ、労働者がだらけがちになるのはよくある事だ。ウェイはストンウェル氏に狙いを絞る。

「何かご希望があればお弾きしますが?」

 ストンウェル氏はパイプを持つと首を左右に振る。

「いや、昼寝から覚めたばかりで……頭が回らん」

「お客さんはいいよな。のんびりできて」

「オレたちゃ、はたらきづめだせ」

 船員たちが愚痴をこぼした。だが、嫌みというよりからかう調子の方が強い。

「それが仕事だろ。それにあと一二刻すれば飯だろ? 我慢しろ」

 このやり取りで、ウェイはストンウェル氏が船員たちと顔馴染みだと確信した。彼が現れた時の船員たちの反応――仲間意識はないが警戒もしていない――もこれで納得いった。きっと過去に何度かこの交易船を利用していたのだろう。

「まあ、オレたちは曲付きだから、バクロの奴らに比べりゃ良い方だ」

「へっへ、違えねえ」

「でも、一番良い思いをしてるのはやっぱり船長だろう?」

「だよな。今ごろお楽しみの最中なんだろうなぁ」

 そこで船員たちは笑ったが、ウェイはその下品な笑い方が気になった。

「どういうことですか?」

「今回、船長は女を乗せているんですよ」

「女性が乗っているんですか?」

 そう話されたばかりなのに、意外だったのでウェイは聞き返してしまった。

「へえ。船長の後なら、ダンナも金さえ払えば回してくれるかもしれませんぜ」

 ウェイは不快感に顔をしかめた。ウェイはこの手の女性を品物のように扱う風潮が好きではなかった。とはいえ、世間の大多数がそうなのは知っている。船員たちから得たばかりの好感を失わないよう、顔を逸らすのがやっとだった。

 ウェイの代わりにストンウェル氏が会話を続ける。

「珍しいな。……でも、三日四日我慢できないわけでもないだろう。船長に新しい女でもできたのか?」

「それがとんだ拾いもので」

「若い女がどうしても乗せてくれって、やってきたんですよ」

「なるほど、大方売春宿から逃げてきたとか――」

 ウェイはストンウェル氏の発言を最後まで聞かなかった。持っていた竪琴を彼に押しつけると、上り階段を駆け上がる。

 後ろから、驚いて船員が声を掛けてきたが、無視した。ウェイの懸念どおり、その若い女性が望まない奉仕を強要させられているなら、猶予はない。近くにいた船員に「船長はどこに?」と声を掛ける。彼は驚いた顔をして言葉を発しなかったが、視線を泳がせた。ウェイはその視線の先を追い、理解する。

 そこは船尾にある一段高くなった場所だった。ウェイたちが気晴らしに登っていた足下が船長室だった。考えてみれば、下から上がって来るまでに、船長室らしき場所はなかった。船首楼の中は、船員たちの部屋だと聞いていたので、消去法で船尾楼だと決まっていた。

 船長室へと進んで行くと、帽子を被った男が「何事だ?」と聞いてきた。ウェイはちらりとそちらを見、その男がこの場を仕切っている甲板長とわかった。が、答えずに早足で歩き続ける。

「それが……何がなんだかさっぱりで」

「さっきまで、きげん良く歌ってたんですがねえ」

 後を追いかけてきたらしく、先ほどまで話していた船員たちの声が聞こえた。好都合だった。彼らが時間を稼いでくれる。おかげで、問題なく船長室の前まで着けた。

 船長室は、船首楼の端から一歩奥まったところに扉があった。扉の前の空間は、片側に棚、もう片側に樽と木箱がある簡易な物置になっていた。

 ウェイが扉を叩こうとすると、後ろから「待て!」と鋭い声を掛けられた。駆け寄る複数の者の足音もする。

 ここで組み付かれるわけにいかない。ウェイは振り返ると、初めて睨みを利かせた。

 ぎょっとしたような顔を浮かべて、三歩の距離にまで迫っていた二人が足を止める。

 当然、ウェイも荒野の支配者の一員として、何度も激しい経験を積んできていた。その実体験から備わった迫力は、似た体験をしていない者を戦慄させうる。とはいえ、ずっと釘付けにできるわけではない。ウェイは半身になって船員たちを視界に捉えたまま、扉をノックする。

「……後にしろ!」

 ややあって怒鳴り声が返ってきた。それを聞いて、一番近くにいた二人が半歩下がり、別のこちらへ近づいていた多くの船員が足を止めた。どうやら船長は船員たちにかなり恐れられているらしい。

「今すぐ話があります」

「……お客さん、話があるなら他の者に聞いてください」

 声からノックしたのが船員ではないと知り、怒鳴り声は収まったが、苛立たしさは隠していない。状況が違えば、忙しいのだろうと身を引くが、忙しさの中身を知る今は引き下がるつもりはない。

「船長に、話があるのです」

 扉越しにも悪態が聞こえた。が、同時にこちらへやって来る気配もする。船員たちに背を向けるのは気にかかったが、他に術はない。ウェイは扉に向き直る。

 扉が引き開けられ、中から禿頭の船長が現れた。が、ウェイの主な関心はそちらにない。船長の肩越しに中を覗き込む。部屋の中は暗く、何があるのかほとんどわからなかった。が、白い衣装を着た女性らしき姿がちらりと見えた。その瞬間、船長はウェイを押しのけ後ろ手に扉を閉めた。

 船長はまずウェイを見ずに、後ろの船員たちを見た。その表情は、何事かと事情を問うていた。船員の何人かがもごもごと言い訳らしいものを唱える。が、はっきりしないうえに重なって意味をなさない。

 その間にウェイは目を閉じ、先ほど脳裏に焼き付けた一瞬の場面を思い返す。

 女性はベッドらしきものの上に座っていた。上半身のシャツは……まだ着ていた。

 そこで目を開き、改めて船長を確認する。彼は上着の首紐が解けていた。ウェイの訪問を受けて、すっぽりと被り直しただけなのだろう。上着の裾が被っているせいで分かりにくかったが、ベルトはしっかり締められていた。扉を開ける時間から計算すると、こちらはウェイの訪問前に脱いでいなかった可能性が高い。

 ギリギリで間に合ったのか。

 ウェイはひとまず安心した。が、これは希望的推理にすぎない。それに、この後のやりとりに失敗すれば、今だけ間に合っても意味がない。

「で、用ってのは何だ?」

 船長がウェイを睨みつけてきた。

 背はウェイより若干高い。年齢は四十前後だろうか。身体は筋肉質だ。左の腰には長い反り身の鞘があった。既に乗船の交渉時会った相手だったが、改めて観察すると、醸し出される雰囲気から、できる相手だと見積もれる。船員たちが恐れるのも納得できる。

「今、中に女性が居ましたね?」

「それがどうした」

 ウェイの質問に、船長は全く動じていない。罪の意識がないからだろう。

「聞くところよると、中の女性は乗客の一人だとか」

 わかりやすく説明しようと試みるが、船長は不機嫌そうな顔で首を傾げ、割り込む。

「あぁ?」

「乗客なのになぜ客室ではなく、船長の部屋にいるのでしょうか?」

 ウェイが言い終えても、船長はまだわかっていない顔をしていた。だが、数拍してから急に思い当たったように、目を広げ、それからニヤニヤと笑い出す。

「あぁ、なるほどな。兄ちゃんは、あの女の股ぐらを拝みたいわけか」

 船長が下品にゲラゲラと笑うと、追従して船員たちも笑った。

「だが、俺が先だ。その後なら、金次第で回してやっても良いぜ」

 船長がウェイの肩を叩こうとするが、ウェイは肩に触れられる前に振り払った。次の瞬間、船長が柄に手をやる。反射的にウェイも腰に手を伸ばすが、そこには細剣(レイピア)がない。レイピアどころかダガーも置いてきていた。

 ウェイが武装していないのは船長もすぐ理解した。余裕の笑みを浮かべる。

「兄ちゃん、調子に乗るんじゃねえぞ。確かにあんたは客だが、この船の船長は俺様だ。機嫌を損ねると、不慮の事故から、船の外へ落っこちまうかもしれねえぜ」

 明らかに脅しだ。しかし、ウェイはそんな事では屈しない。

「まだ質問に答えてもらっていません。彼女が乗客なら、今すぐ客室へ移してあげるべきです」

 船長の笑みはすぐ消えた。不機嫌そうな顔になると、背を向ける。

「聞いてなかったのか、怪我する前に帰れ」

 扉を開けようとする背中に、ウェイは呼びかける。

「いいでしょう。そちらがその気なら、王都に着いたら、この船の中で違法な売春行為がされていたと告発します」

 船長が笑いながら振り返った。

「ハッハッハ、正義面ぶって脅しているつもりだろうが、ちっとも怖かねえぜ。ここは町中じゃねえ。海の上の船の上だ。この船じゃ俺様が王様で、俺様が法律なんだよ」

 言いながら顔が険しくなっていき、最後はウェイに顔を突きつけるようにして話した。唾が掛かりそうになったから目を閉じただけで、ウェイは顔を逸らさない。

 確かに、船長の言うことは正しい。領主の法が及ぶのは、基本的にその領内だけ。それ以外の魔物の徘徊する荒野は無法地帯なのだ。例えば、荒野での殺人行為は法の裁きの対象になるが、領主の支配圏に入って初めて罰せられる。しかも、それは領主が被害を受けた場合のみ。一般市民の生死は何か理由がない限り考慮されない。こんな状況で、小規模な売春行為が目に留まるわけがない。

 が、ウェイは黙り込むつもりなどない。

「王でも悪法を布けば、反乱で命を落とす。それが天下の法です」

 これまでの会話から、この船長はかなり横暴に振る舞っていると予想できた。暴君が罰せられる事もあるのは歴史が証明していた。

「反乱ねぇ」言いながら、曲げていた背を伸ばした船長は、ウェイを押しのけるようにして一歩前に出ると、わかりやすく剣の柄を握った。

「おい、てめえら。俺に文句ある奴はいるか? 反抗しようって奴は前に出ろ」

 怒鳴り声に対する答えはない。船員たちは顔すら背けていた。それだけ、船長の恐怖による支配は強いということだ。

「だとよ」

 扉の前に戻りながら、船長が言った。ウェイの方は見ようとしなかった。ウェイも、船長の顔は見たくなかった。それに、まだ言い負かされたわけではない。

「売春行為は海の上だけとは限りません。港に着いてからは、揺れる売春宿として機能しているんじゃありませんか?」

 船長は相手にするまでもないと、鼻で笑った。そういう使い方をしていないか、していたとしても証明できないと考えているのだろう。が、ウェイの狙いはそこではなく、その先にあった。

「それなら、港湾管理官が税金徴収に興味を持つでしょうね」

「管理官は関係ねぇ!」

 突然、船長が怒鳴ると、振り向きざま剣を抜く。抜かれれば勝ち目どころか命さえ危ういのを理解しているウェイは、前に飛び出すと、両手で船長の剣の柄頭を押さえる。

 ウェイの方が早かった。直前に、自分が帯剣していないと確認できていたのは幸運だった。一瞬でも躊躇いがあれば間に合わなかっただろう。それくらい、船長の抜刀は慣れており早かった。

「ぐっ!」

 抜刀を阻まれた船長は、あくまで剣を抜くつもりだった。左手で鞘を押さえ、柄を持った右腕に力がこもる。

 左手でウェイを突き飛ばそうとはしなかった。鞘を離せば、右手で剣をいくらか引けるが、鞘もつられて動くため、詰まってしまう。だからといって、柄を離せば、ウェイにそれを握られ剣を抜かれかねない。

 一見、予想外の行動をとられて混乱し、抜刀に固執しているように見えるが――いや実際そうなのかもしれないが――悪くない手だ。実際、力は船長の方が上だったので、ウェイは両手で押さえに掛かっているのに関わらず、長く持たないと感じていた。持たせたところで、後ろから船員たちに羽交い締めされればおしまいだ。だから、ウェイは船員たちの足音が迫る前に、大声で表明する。

「わたしは魔法が使えます!」

 背後の足音がバタリと止まった。船長も、ぎょっとした顔をしてのけぞった。

 効果があったのを確信してから、ウェイは船長の剣からそっと手を離し、半歩下がる。

 抜刀を許す形になるが、今の言葉が効いたなら、押さえ続けている方が逆効果だ。むしろ、今のように身を引く方が、剣を抜くなら抜けと示しているように受け取られる。相手の目には、ウェイがそれほど自信があるように映るだろう。

「ふん」

 船長が鼻息を吹きながら剣の位置を直した。ぎょっとした顔をしたのは束の間だった。今は、少なくとも表面上は、平静を保った顔をしていた。

「鵜呑みにはできんな。あんたは長い髭を生やしていないし、杖を持っていない」

 船長の言葉に、船員たちもざわつき始める。そうだそうだとお互いに言い合い、こちらも冷静さを取り戻そうとしている感じだ。

 一般人の思い浮かべる魔術師の姿は、白く長い髭をして、帽子とローブを身にまとい、杖を持った老人だ。確かに、ウェイの姿からはかけ離れている。だが、ウェイが魔法を使えるのは真実だ。魔法は形から入れば使えるようなものではない。ただ一点、杖の存在は魔法の行使に密接に関わる、とされている。ウェイは正規の魔術師の訓練を積んでいないので、そのあたりはよくわかっていない。たぶん魔力を引き出したり安定させたりするのに効果があるのだろう。いずれにせよ、ウェイは魔法の杖を使いこなせない。

 見かけに説得力がないなら、他の説得力を見せるしかない。

「わたしは冒険者です。荒野の支配者という名を聞いたことがある人もいるでしょう」

 船長は眉を寄せた。背後の船員たちからは、ひそひそと話し合う声が聞こえた。

「船長、『影の山』を壊滅させた連中ですぜ」

 誰か、おそらく甲板長が声を掛けてきた。影の山は公爵領を荒らしていた山賊の名で、確かに荒野の支配者が成敗に寄与した。予想以上に、海の男にも評判は届いていたようだ。

「口ではいくらでも言えるぞ」

 船長は動じた様子を見せない。

「なら、お一つお見せしましょうか?」

 また背後で一斉に後ずさる音が聞こえた。船長は表情こそほとんど変わらなかったが、目に揺らぎが生じた。

「……まあ、いいだろう。お前が実力のある冒険者とやらで、魔法が使えたとして、それがどうした。船を動かしているのは俺たちだ」

 そうだそうだと、声が上がった。ウェイは、手強い相手だと認めざるを得なかった。ただ豪胆なだけならまだしも、怖じ気づきやすい船員たちの士気を上げるのが巧いのが厄介だった。船員たちに押し寄せられると、対処のしようがないからだ。

「脅しつけて船を乗っ取るか? 無駄だな。渦越え号の船乗りたちはそんなヤワじゃねえ」

 また歓声が上がった。

「殺したければ殺せ。こっちは黙ってやられねえぜ。最後に貴様等が勝ったところで、船は動かねえ!」

 今度は失言だったらしい。船員たちの声が急にしぼんだ。大半の者は死ぬ覚悟まではできてないようだ。

 だからといって、ウェイは武力でこの船を制圧するつもりは微塵もなかった。

「戦うつもりはありません。わたしはただ、乗客を正当に扱うべきだという道理を述べているだけです」

 船長も、いつの間にか白熱していた事を自覚したようだ。ふうと息を吐くと、剣の柄を握っていない方の左手で口髭を摘まむようになでる。

「……もしかして、中の女の知り合いか?」

「いいえ。会ったこともありません」

「なら、なぜここまでこだわる?」

 今度はウェイが溜め息をつく番だった。

 困っているかもしれない女性を助ける事は、ウェイにとって当たり前の選択だった。だが、一般の人々は、身の危険を冒してもそれを試みるにはそれなりの理由が必要だと考える。いつも、このギャップを埋める説明は難しかった。当たり前の事に理由などないからだ。

「それが正しいと思うからです」

 正直に答えても、船長の顔は、はっきりした答えを得た顔にはならなかった。

「女を独り占めにしたいんだろ?」

「違います!」

「じゃあ、仲間と一緒に――」

「違います!!」

 ほとんど怒鳴ると、にやけかけていた船長の顔がぴしゃりと戻る。

「ふーむ、よくわからんが、一つだけ言えることがある。女を移す気はない」

 怒りから、また腰に手を伸ばしそうになった。レイピアがない現状では、相手を警戒させるだけなので、なんとか抑える。

「では、王都に着いてから報告しなくてはならないようですね」

 話がまた戻ったが、折れてくれなければ、やり直すしかない。が、今回は船長が余裕の顔で受けた。

「ああ、したければすればいい。だが、先に教えておいてやるが、あの女は客じゃねえ。臨時雇いの女だ」

「な。……そんなわけは」

 予想外の発言にウェイは取り乱す。半身になって振り返ると、女性の乗客がいると教えてくれた船員の姿を探す。一緒に歌を歌って打ち解けた船員たちは、ウェイがそちらを向いたのに気づくと一斉に下を向いて、視線が合うのを避けた。彼らに責任を押しつけては悪いと考えたウェイは、船長に向き直る。

「そんなわけは――」

 ウェイのうろたえた言葉を聞き終える前に船長が口を挟む。

「確かに、あの女は客として乗ろうとした。が、金が足りなかったんだ。だから、足りない分は働くという話で乗せた」

 理にかなっていた。足りないお金は労働力であがなうという対応は、町の至る所で実践されている。けれども、少し足りないだけなら、強要される奉仕が釣り合わないと反論できる。

「彼女の払った金額は幾らでしたか?」

「銀貨十二枚」

 ウェイは絶句した。少なすぎたからだ。

 ウェイたちは一人あたり銀貨百五十枚払っていた。家具のない部屋の宿代としてはかなり高いが、船賃の相場は知らなかったし、急いでいる事情があったので妥協した。もしこの価格が、こちらの事情を見抜かれた上での割り増し価格だったとしても、この船の個室料金がそれを下回るとは考えにくい。銀貨十二枚では、一割すら満たない。それなら、相応の奉仕を求められても文句は言えない。

「では、不足分をわたしが払いましょう」

「ふん、その必要はない。俺はあの女が気に入った。それに、もう空き部屋はないからな」

 確かに、空き部屋はないと間接的に聞いていた。客室は六つあると考えていたが、うち一つの部屋は航海士が使っており、もう一つの部屋は便所だと船員が話していた。別に、ウェイたちと女性を除いた乗客は四名と言われていたので、各部屋に一人入れば空きはない。だが、客室が最大二名用だという予想が正しかった事も確かめている。

「事情が事情ですから、どなたかに相部屋になっていただくよう働きかけてください。協力してくれる人がいるはずです」

「はっ、誰が――」

 船長の否定的な態度は正しく事実を反映している。事情を話しても、好んで部屋を空けてくれる人はほとんどいないだろう。が、状況が変われば、多くの人が好んでこの条件を飲むのもウェイは知っていた。

 ウェイは腰に結わえ付けていた財布を外すと差し出す。

「ここに銀貨にして一千枚ほどあります。これを彼女の不足分と、部屋を空ける交渉に使ってください」

 背後でざわめきが生じた。一千枚というささやきがあちこちで聞こえた。想定していたとおりのインパクトだ。船長も目を広げて財布を見ていた。剣の柄を握る手も緩み、すぐにでも差し出された財布を掴み取るように思えたが、そうならなかった。

 船長は首を左右に振ると、また不機嫌そうな顔に戻った。

「断る」

 また船員たちがざわめいた。一千枚の銀貨は捨てるのに惜しいからだろう。あるいは、船長がそう言うと予想していなかったからかもしれない。

「足りない、と言うのですか?」

 しかし、ウェイはこれ以上の貨幣を持ち合わせていない。もとはガラムレッドの祝宴に参加するための旅だった。お金を大量に必要する予定はなかった。

「いや、違う」

 意外にも船長は否定した。

「理由は簡単だ。それは、俺があんたを気に入らんからだ」

 顔をウェイのすぐ側に近づけ、船長が睨みつける。ウェイはそれを表情を変えずに受けた。

 困った事態になった。こうなれば、さらに大きく増額するのが一番の手だが、今のウェイにはそれができない。ならば、力に訴える方法もあるが、それは好きではないし得意でもなかった。それに船長の言ったように、一旦は押し切れても、以後の船旅は、いつ身の危険が降りかかってくるかわからない状況に陥ってしまう。

「残念だったな、色男」

 船長が左手でウェイの出していた財布を払い落とした。落ちた袋の中で硬貨がジャラジャラと鳴った。

 高笑いをあげて背を向ける船長をよそに、ウェイは視線を下に落とす。財布を見るためではなかった。何かを見落としている実感があった。荒野の支配者の交渉役として積んだ経験が、まだこの交渉が終わっていないと告げていた。

 どこだ? どこに攻め手があった?

 ウェイは船長とのやりとりを思い返し、違和感があった点に戻ろうとしていた。ウェイが感じた違和感。それは、船長が急に剣を抜こうとしたことだった。あれはやり過ぎな反応だ。すると、あの近くに船長が触れて欲しくない何かがあるに違いない。

 しかし、今すぐにはそれがわからない。だからといって、このまま考えていれば、船長は自室に戻り、中の女性はやりかけていた新たな仕事を再開するように強要されるだろう。だから、ウェイは相手の弱みを掴めないままでも、止めなければならなかった。

「仕方ありませんね。だったら、王都に着いてから報告することにします」

「はっ、勝手にしろ! てめえのいう売春行為などねえ。あるのは、正しい仕事としてのご奉仕だからな」

 船長がガハハと下品な声で笑うと、船員たちも追従した。

 ウェイは小さく頷く。

 そう。船長が動揺したのは、売春の疑いではなかった。動揺したのは――

「ええ。売春行為の疑いはもう持っていません。ただ、港湾管理官には報告させてもらいます」

 読みどおり、船長の笑いが引きつった。彼が警戒したのは、港湾管理官という言葉だったのだ。そこまでわかると、後は推理で追い詰められる。

「なんだと? 管理官に告げ口されるいわれなどねえ!」

 怒鳴り声の裏には動揺があるに違いない。ウェイは冷静に続ける。

「密輸の疑いあり、という報告です」

 船長の腕が動いた。柄を押さえる手口は二度通じない。ウェイはさっと後ろに飛ぶと、右手を上着のポケットに入れた。左手は薬指と小指を折り曲げた掌を相手に向け、右足を下げるように半身になり、腰を落とす。

 船長は剣を抜き、反り返った剣先をこちらに向けたが、ウェイの整った態勢に警戒してか、動きを止める。

 ウェイの魔術は決して口だけではなかった。剣を振られるより先に相手へぶつけられる術はあった。が、それが有効かは別だ。戦う備えなどしていなかったウェイの右手に握られているのは、表面に多くの穴があいた石だった。煙石と呼ばれるそれは煙幕の魔術の触媒だ。斬り合いになった時には、ほとんど役に立たない。

「証拠などねえ」

「それは管理官が調べてくれます」

 二言交わしただけで、後は重苦しい沈黙が続いた。しばらくして、曲剣の先が下がる。

「勝手にしろ」

 ほとんど聞き取れないほどの声で呟くと、船長は剣を船員に向けた。

「おい、お前、それを拾って中身を数えろ」

 指し示された船員がおどおどと前に出てくる間に、さらに怒鳴る。

「何、ぼやぼやしてやがる。他の連中はとっとと働け。おい、チェイ!」

 名指しされた甲板長が、船員たちに具体的な指示を始める。船長は、前に出ると財布を拾おうとする船員のお尻を、剣の腹で張り飛ばす。

「もたもたすんじゃねえ」

 不機嫌さをぶつけられているとばっちりに、ウェイは顔をしかめたが、口は出さなかった。船員はかわいそうだが、女性を救い出す方が先だ。

「入りますよ」

 構えを解いたウェイが船長に声を掛けたが、船長は財布の中身をぶちまけ始めた船員を見下ろしたままこっちを見ない。

「本当に一千枚あるんだろうな?」

「一千と百枚はあるはずです」

 ウェイの答えに、ふんとだけ答えると、船長は足下の船員を足で小突いた。

 結局、船長室に入って良いという許可はもらっていないが、態度から口に出したくないのだろうと判断した。ウェイは扉に手を掛ける。

 扉を開けようとした時、指名した船員が百より大きく数えられないとわかり、またその男が剣で張られ、誰かと交代するよう怒鳴られる。ウェイは船長の乱暴さに嫌悪を覚えながらも、その剣の腕は確かだと認めざるを得なかった。

 剣の腹で人を叩くのは、危険で難しい行為だ。それなりに自信がなければ、試みようとしないだろう。もっとも、船長が誤って傷つけても構わないと思っている可能性は高かった。そうなると、自信についての評価は変わってくるが、実際誤って切っていないので腕そのものはやはり確かだと言える。

 まあ、今はいい。ウェイは頭を軽く左右に振ると、船長室の中の事へ集中する。

 扉を開けると、部屋の中央近くにある机の向こう側に、白っぽい服を着た女性がいるのが目に入った。彼女が腕を上げ、眩しそうにしているのがわかると、ウェイはすぐに後ろ手で扉を閉じる。ウェイには薄暗すぎて、室内の様子がわからなくなったが、女性のためなら仕方なかった。

「こんにちは。私はウェイという名の者です。お嬢さんの御機嫌はいかがですか?」

 明るく声を掛けたが、返事はなかった。無理もない。この女性は恐怖と寂しさで凍りついているのだろうから。

 しばらく時間を置くと緊張も解れるのだろうが、あいにくあまり猶予はない。船長が戻ってきた時に、女性に部屋を移る準備ができていなければ、約束はなかった事になりかねない。船長の苛立ちで事情が変わるくらい現状は不安定だ。

「そちらへ行きますね」

 これにも返事はなかったが、ウェイは摺り足で進み始める。完全な暗闇でないので目は慣れ始めていた。扉を開いた時に、机に至るまでは、邪魔になる物はないのを見ていた。机に着いてからは、それに手で触れながら向こう側へ回り込めばよい。

 その間も、ウェイは語り続ける。沈黙は恐怖を大きくするからだ。だからといって、慌てて話し続けるのも、相手を追い詰める。気軽に、知り合いと話すような雰囲気を意識する。

「お名前は?」

 少し待ったが、これにも返事はない。次の呼びかけを考えていると、弱々しい声が聞こえた。

「スー」

 スー。おそらく姓ではなく、名の方だろう。スーという名の女性は多い。姓については聞き返さなかった。ウェイ自身が姓について話すのが嫌だったからだ。そう考えてから、彼女も同じかもしれないと気付いた。かつてのウェイと同じく家出をして来た身なら、親元に返されたくないはずだ。

「スーさんですか。もう、大丈夫ですよ。今新しい部屋を用意してもらっています。これからそちらへ移りましょう」

 近づいたのと目が慣れてきたので、かなり様子がわかるようになってきた。スーの髪について、色はわからないが、肩より長いのはわかった。その直後、彼女が上着を着ていないのに今更気付いた。体の前を隠すように持っていただけだった。

「これは失礼」ウェイは慌てて背を向ける。「そのままでは出られませんから、着てください」

 もそもそと背後で動く気配がした。その間、ウェイは改めて船長への怒りがこみ上げてきた。本当に危ないところだったようだ。

 しばらくして動きが止まったようだったが、ウェイはスーからの言葉を待った。勝手に判断して振り向かないのは当然だが、着替えが終わったかと確認するのも、急かすようで悪い。

 そして、スーからためらいがちに声が掛けられる。

「次は、あなたの言いつけを聞けばいいんですか?」

 ウェイはショックを受けた。もちろんそんなつもりはない。なのに、スーがそのような考え方をするのは、それだけ心に傷を受けたという証だ。船長に怒りが沸くが、今優先すべきはスーの心に安寧をもたらすことだ。

 ウェイはスーに向き直った。やはり上着は着終えていた。一歩近づくと、ウェイは両手でスーの両手を取る。スーが反射的に手を引いたが、ウェイはそれを引き戻さず、流れに乗って引っ張られながらも引く力を弱めさせ、手を離さない。

「そんな必要はありませんよ。これからあなたは一人部屋に移ります。誰からも指図を受けなくていいんです」

 スーが手元に落としていた視線を上げた。ウェイにはまだ彼女の表情がはっきり見えなかったが、向こうは目が慣れているはずだ。ウェイは微笑みを浮かべて頷く。

「でも、私はお金が足りないんでしょ?」

 スーの両手から力が抜けた。だらりと下がりそうになるその手をウェイは支える。が、スーの投げやりな言葉はそれだけでは支えられない。

「だから、あなたが代わりに払って、私を買ったんじゃないですか?」

 扉の外での会話は、時折声が大きくかった。だから、スーに内容を聞かれていたようだ。

 さすがに取り繕う余裕もなく、ウェイは眉を寄せた。

 他人から見て、ウェイの行為は、お金に物をいわせて女性を身請けしたように見えるのはわかっていた。そう思われるのは慣れていたし、そんなつもりじゃないのはその後の行動で示せばよいと思っていたので、部屋の外では居心地が悪くはなかった。だけど、助けた相手にそう誤解されるのは辛かった。態度で示そうにも、ことごとく拒否されれば、誠意も通じない。

 いや、どう思われても、正しいことを為すだけだ。

 覚悟を決めて、表情を固めた時、ふと部屋の外の船長や船員たちの声がはっきり聞こえない事に気づいた。とすると、スーも先ほどのやりとりを詳細に聞けていないのではないか? そう考えると、直前の言葉が弱々しかったのは、不安からだけでなく、自信がなかったからかも知れない。

 ウェイは急きょ方針を変えることにした。即興劇になるが、それには慣れている。

「いえいえ、違いますよ。わたしは船長と法律について議論していたんです」

「法律?」

 スーの声には明らかに困惑が混じっていた。一般人で法律に詳しい者はあまりいない。第一歩は成功だ。

「ええ、交易船のあるべき姿についてです。交易船の認可を受ける時に、乗客を無事目的地に送り届ける努力を怠ってはならない、という決まりなのです」

 スーは喋らない。理解が追いついていないのだ。だから、ウェイもしばらく待つ。

 理解が追いつかないよう、まくしたてると不信感が募ってしまう。だからといって、じっくり考える時間まで与えては、何かがおかしいと気付かれてしまう。その間を狙わなければならない。

「この決まりがないと、乗客は老若男女を問わず、港から出てしばらくしたら、身ぐるみ剥がれて海にポイッとされますからね」

「え、ええ」

「だから、船長はあなたを乗客として次の港に届ける義務があるのです」

「で、でも、わたしはお金が足りなかったから――」

「その場合、正しい対応は乗せないことでした。だけど、乗せた以上、船長はあなたを乗客として扱わなくてはならないのです」

「で、でも……」

 スーのためらいは消えない。誰しも、困っている時は、自分が得となる話が目の前にぶら下がったら、それに飛びついてしまうものなのに、これは彼女の誠実さを表している。ウェイは自然と笑みが柔らかくなった。

「確かに、あなたは船長にお金を借りた状態でした。だから、この場合の正しい対応は、港に着いてからは働いて少しずつ返す、となります。王都に着けば、この船に関わらなくても、仕事は沢山あります。あの船長の言うことだけを聞く道理はありません」

「は、はい」

 スーはまだ理解が追いついていない感じだったが、返事は肯定的だ。しかしウェイは、今は敢えてその無理解を指摘する。

「ううん、わかってないですよ。私は今、船長にお金を借りた状態でした、と言いました。過去の話です。今はもう、あなたはあの男に借りはありません」

「え、でも、なんで……」

「私が、本来船長が取るべき義務について話したからです」

 もちろんこれだけではスーはわかっていない。ウェイは付け加える。

「義務遂行違反だと訴えれば、交易船の免許が取り上げになりますからね。そうなるくらいなら、スーさんの運賃はチャラにしますよ」

 キョトンとした雰囲気のスーに対して、ウェイはウインクしながら、おどけた調子で続ける。

「まあ、わかりやすく言うと、そうチラつかせて『脅した』となりますか?」

「まあ!」

 スーが驚いて両手を口元に当てる。その動きは妨げないで、ウェイは手を離した。

「納得していただけましたか? ならばお嬢様、出立の準備を」

 ウェイは手をさっと払い深くお辞儀する。芝居がかった動きは得意とするところだ。

「でも……ウェイさんもお金を払ってくれたように聞こえましたが?」

 だいぶ打ち解けてくれたようだ。ウェイの名を呼んでくれたし、残っていた疑問を素直にぶつけてくれた。

「はい。さすがに脅しだけでは人は動きにくいものなので、手間賃と称して幾ばくかの銀貨は与えました。それは王都に着いてから、少しずつ返していただければ良いですよ」

「しかし、見ず知らずのわたしにそこまで――」

「いえいえ、私は船長の違法行為が気になったまで。礼には及びません。お節介ついでに、王都で働く口もお世話いたしましょう。多少顔が利きますので」

 スーの雰囲気から、引くのを感じた。すぐに、働き口に警戒しているのだとわかった。少しうかつな切り出した方だった。

「例えば、料理を作ったり、運んだりする仕事はどうですか? お針子も紹介できると思います」

 具体的に安全な仕事を示すと、スーは引いた以上に食いついてきた。

「あ、あのそれでしたら、わたし、算術なら多少できます」

 ウェイは感心した。算術や識字は引く手あまたの技術だ。悪い連中に捕まらないよう見守っておくだけで、スーは自分で容易く仕事を手にする事ができるだろう。

 算術ができるという自己紹介は同時に、彼女の育った背景を示していた。話し方からして貴族ではない。おそらく商人の娘だろう。ただし大商人ではない。大商人の娘なら、親を手伝う必要もなく、算術を学ばないからだ。

「大いに結構です。王都であなたの力はきっと必要とされますよ」

「本当ですか!」

「ええ」

 警戒がとれて前向きにすらなってくれた。ウェイはここで少し距離を置くことにした。自ら歩き出してくれないと、やはり「自分は買われた」という認識が残るかもしれない。

「では、私は先に外へ出ておきます。荷物を整えたら、出てきてください。お部屋について案内しましょう」

「あ、あの!」

 急に離された不安からか、スーがウェイの背に声を掛ける。が、ウェイは半分振り返り、持っていない帽子を軽く脱ぐ仕草で答える。

「のちほど」

 ウェイの道化師めいた仕草がスーの気を解したようだ。クスリと笑い声が聞こえた。

 扉に着くと、ウェイは目を閉じてから、扉を開ける。明るさに目がくらみにくいよう、ちょっとした工夫だ。

 目を開けると、船員たちがこちらに鋭い目を向けているのが見えた。途端に、女性を一人救い出したとい達成感に、水が掛けられた。代償として、船員たちを敵に回す結果になってしまった、と認識させられたからだ。これではもう彼らからまともに情報を引き出すことはできないだろう。

 仲間たちに済まないという思いが浮かぶ。だが、女性を見捨てる選択肢は有り得なかった。仕方ない結果だった。

 ウェイがこういう性格だと知っている仲間は、きっと納得してくれるだろう。ただ、イーギエを除いてだが。

 ウェイは口元を歪めると溜め息を吐いた。


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