03 (ウェイ)
ウェイたちのあてがわれた部屋は暗かった。日の当たる外甲板から二階層下だ。今の時間帯では、ここまで日光は直接差さず暗い。でも、同じ階層の中ではまだ明るい方だった。ウェイたちの部屋は、昇降口の近くにあり、その上の天井、一階層上からすると床、が格子になっていたので、弱いながらも明かりが届いたからだ。
暗さより気になるのは悪臭だ。カビ臭さ、腐臭、洗っていない服の臭いなどが混ざっている。初めて部屋に降りる際、強まっていく悪臭に、ウェイはまるでゴブリンの巣穴のようだと不満を表した。すると、アリは「それよりはマシだ」と応じた。確かに、ウェイは大げさに表現していた。ゴブリンの巣穴はもっと酷い。それよりましだと思うと、少し我慢できた。
大きめの引き戸を開ける。部屋の中は当然外より暗い。その奥で、うずくまっている人影がいた。
仲間の魔術師イーギエだ。彼は木桶を抱くように座り、肩に杖を立てかけていた。その輪郭しか見えないので、表情は伺えない。ただ、雰囲気から機嫌が良くないのはわかる。……いや、機嫌が良くないのはいつものことだ。
彼と話すために戻ったのだが、気が進まないウェイから言葉は出てこない。アリに任せたかったが、こういう場合はウェイが進めないといけないとわかっていた。長年のつきあいで自然と決まった役割分担だ。
「イーギエ、いらいだ」
ウェイが躊躇っている間に、パースが口火を切ってくれた。テオ氏が去った時点では、パースは依頼を持ちかけられているという状況を理解してなかった。だから、部屋へ戻る間に、周りに船員が居ないことを確認してから説明していた。そうしておいて良かった。
パースは考えなしなところがあるが、いやそうだからこそ、容易く先陣を切ってくれる。こういうやりとりだけでなく、戦闘の場面でも、パースの行動力にはいつも助けられている。
アリが開いていた扉を、横滑りさせて閉じた。確かにそうするべきだ。依頼人は秘密にしたがっていた。部屋の前の広間には誰もいなかったが、奥の厨房に料理人がいるのをウェイは知っていた。
「依頼?……海賊でも出たのか?」
扉が閉じられたことで部屋がさらに暗くなった。完全に黒い影となった塊から不機嫌そうな声が返ってきた。
なるほど、とウェイは頷く。調子が悪くとも推理力は弱っていない。
「いえ、この船の乗客の一人の巡察騎士からの依頼です。内容は後で話すということで、私達が先に下りてきました」
「ヒミツの依頼ってわけだ」
アリが付け足してくれたが、そこまで言わなくてもイーギエは理解していただろう。
「巡察騎士か……」
イーギエの呟きに、ウェイは「やっぱり知っていましたか」と思う。
ウェイは貴族たちと交流がある。だから貴族の文化に詳しいのだが、巡察騎士を知ったのは偶然だ。世話になっていた伯爵の元に、巡察騎士がやってきたのを見ただけで、実はそれがどういう存在なのかは今も良く知らない。
ウェイが見たのは白髪の紳士で、革の胴着を着ていた。一目見て、今日会ったテオ氏と同じように、旅慣れた者だとわかった。貴族というより、ウェイたち冒険者に似た匂いがした。ウェイはその紳士に興味を持ったのだが、彼は一晩もてなしを受けただけで翌朝旅立ってしまい、ほとんど話せなかった。伯爵たちは巡察騎士が去った後、露骨に悪口を言っていた。確かに服装は貴族の基準からいえば粗末だったが、失礼な言動はなかったはずなのに嫌われていた。それを不思議に思ったので、強く印象に残っている。
「それで、そいつの言い分を信じたわけか?」
かすれた声に非難の色が混じっていた。
ウェイはこれまでに何度も「他人を簡単に信じすぎる」と仲間から注意されていた。言われて初めて、今回もそうしてしまったと気付いた。が、イーギエ相手に素直に謝る気はしない。
「彼は、その証としてメダルを見せてくれました」
「金でできていた。あのかがやきはマガイモノじゃないな」
アリが彼なりの意見で補足してくれた。
「ふん。で、それはどんなデザインだった?」
正直、そこまで意識していなかった。が、ウェイは目を閉じて、先ほどの情景を思い出す。
「縁には連なる葉っぱ。中央にはツルハシとハンマーの模様が――」
話している途中で、追加の質問を挟み込まれる。
「裏は?」
「う、裏?」
しまったと思った。それは見ていない。依頼人が見せなかったせいだが、そう言ったところでイーギエはウェイの手落ちだと追求するだろう。とはいえ、正直に言うしかない。
「いいえ、見ていません。確認する前に、しまってしまいましたので」
「確認する前? 確認するつもりもなかったんじゃないのか?」
そのとおりだが、ウェイは黙って答えなかった。変に受け答えた方が、話がこじれやすいのを知っていた。
「……まあ、いい。どうせ両面確認したところで、本物かどうかわからんだろう」
これもそのとおりだったがウェイは黙り続けた。今度は悔しくて言葉が出なかった。
「じゃあ、イーギエは会ってもいないのに、さっきの男がニセモノとわかるのか?」
「いや」
アリへの答えは、不機嫌さは変わらないが、怒りは含まれていない。この不公平さはいつもウェイを苛立たせた。
「おそらく本物だろう」
「どうしてだ?」
ウェイも聞きたかったが、イーギエに答えを請いたくはなかった。だからアリが代わりに聞いてくれて助かった。
「理由は複数ある。その男が、我々を油断させて近づくのが目的だった場合、巡察騎士というあまり知られていない存在を偽装するとは考えにくい」
「でも、逆にそういう存在だからこそ説得力を持つという見方もありますね。実際、イーギエは知っていたのですから」
攻め時とばかりにウェイが突く。褒めるような言い方を混ぜると、イーギエからの反撃はないか、弱いものになりやすい。
「まあ、そうだな。が、巡察騎士とはいえ貴族だ。貴族の身分を騙るとその時点で重罪だ。近づく手段としてリスクがありすぎる」
ウェイは、言われた内容を考えてみた。ウェイたちに近づいてくる存在として注意すべきは暗殺者だ。暗殺者は、最初から自分が逆に殺されるかもしれないという覚悟があるはずなので、身分偽装による処刑の心配などしない気がした。この点では、イーギエの見解には反対だ。しかし、イーギエが先に語ったように、こちらが巡察騎士について良く知らなければ、警戒心を高めてしまう。このリスクを考えると、暗殺者が敢えて巡察騎士と名乗ることはなさそうだ。イーギエとは、中身はいくらか異なったが、結果としてテオ氏が本物の巡察騎士だという意見には同意だ。
「それに、そのメダル。おそらく本物だ。アリが言うように金が混じっている物なら、偽造するのにコストがかかる。描かれている紋様も王族に関係するものだ。王家の紋章を勝手に使うだけで重罪だからな。職人を騙して作らせるのも難しいだろう。買収するならもっと金が掛かる」
結局、ウェイの対応に問題はなかったという事だ。それならば嫌みを言わなければ良いのにと思うが、イーギエはそういう男だ。このまま続けても苛々させられるだけなので、ウェイは話をがらりと変える。
「ともかく、依頼人がすぐにでも来るかもしれません。準備しましょう」
「じゅんびって?」
パースがぼんやりとした声で聞いた。彼にはしてもらうことがあった。
「イーギエの桶を受け取って、船員さんたちに返してください。あ、ちゃんと返す前には、洗わないといけませんよ。上に出て、海の水で洗ってください」
イーギエの抱えている桶には、イーギエの吐いたものが入っているはずだ。ただし、ここ数日まともに食事を摂っていないので、胃液ばかりだろう。多少酸っぱい臭いがするが、幸か不幸か、他の悪臭に埋もれていた。
「ん」
短く答えるとパースは動き出す。のろまに見られることが多いが、指示を与えてからの行動が遅いということはない。
「もう気分はいいのか?」
アリがイーギエに聞いた。
「良くはないが、大丈夫だ」
そこで初めてウェイは、イーギエの体調を気にしていなかった自分に気付いた。依頼人が来る前に、臭いの元を片付けなくてはという思いが先に立ってしまった。
「やくそう茶のおかげだな」
アリの言葉に、イーギエがフンと鼻を鳴らす。ウェイの中で芽生えていたイーギエに対しての申し訳ない気持ちが薄れていく。
薬草茶を作ったのはウェイだった。それには多少骨を折らされた。感謝されるために作ったわけではないが、鼻であしらわれると、カチンとくる。
何か言おうと口を開け、息を吸ってから、ウェイは踏みとどまる。依頼人に備えるのが先だ。仮の住まいとはいえ、客をもてなすのはホストの礼儀だ。
とはいえ、家具はないのでできるのは座る位置決めくらいだ。応対するウェイは、中央に座るのが良いだろう。考えるべきは向きだ。
この部屋は、入り口から見て、奥行きより横幅が広い。船の形に合わせて、奥に行くに従って幅が狭くなっている。男四人が横になる部屋としては少し狭い。
仲間はそれぞれ部屋の隅に荷物を置いていた。右奥がイーギエ、右手前がパース、左奥はアリで、ウェイは左手前だ。
ならば、ウェイは中央右で迎えるのがいいだろう。後ろの左右に、パースとイーギエが座る形になる。依頼人からすれば、背後にいる人が少ない方が良い。より安心させるにはアリも同じ側に座ってもらうべきだが、そこまで片側に集まると、さすがに窮屈だ。ならば、依頼人には、入って左側の壁際に座ってもらうのが――
「静寂の香を焚いたらどうだ?」
ウェイの考えはイーギエによって中断させられた。
静寂の香は、魔術の一つだ。魔法の香が広がった空間はその外からの音が聞こえなくなる。不便なようだが、敵の魔法の対抗手段として有効だ。眠りの魔法など、こちらの精神や肉体に直接作用する魔法は、こちらに呪文が届かないと効果を発揮しにくいからだ。反面、こちらの声も外へと漏れない。イーギエが使用するよう提案したのは、この効果を考えてのことだろう。
ウェイは何度も静寂の香の魔術を使った事があるが、いつもとは逆の、こちらの音が漏れない使い方は思いつかなかった。やはり魔術の理解の深さはイーギエに敵わない。しかし、それを素直に認めたくなかった。そして今回ちょうど良い反論があった。
「ですが、船の中では火を焚けません」
薬草茶は、この部屋で作り始めた。船の中だから、もちろん周りが木だというのは理解していた。それゆえ携帯炉の下には濡らした布を敷き、火花についてもいつも以上に飛び散らないように気を遣って火を点けた。が、それでも許される行為ではなかった。
湯が沸く前に、一人の船員が迫力ある形相で飛び込んで来て、すぐに火を消すように怒鳴ったのだ。火を使うことがそんなに怒るほど禁じられている行為とは知らず、ウェイは謝った。
その時イーギエは、「松明の囲まれた中にいるようなものだから、考えれば分かるだろう」と馬鹿にした言い方をした。今思い出しても腹立たしい。わかっていたなら、せめて船員が来る前に一言言ってくれるべきだ。
ウェイは火を消した直後、薬草茶を作るのを止めようかと考えた。そうしなかったのは、アリとパースも慣れない船に気分を悪くしていたからだ。もしイーギエの為だけだったら、絶対に作るのは中止していた。
その後ウェイは、船内で唯一火を点けることが許されている厨房が同じ階層にあると聞き出し、そこに湯をもらいに行った。鍋一杯のお湯をもらうのに、払った銀貨は三枚。ウェイはアリほど金銭感覚に鋭くなく、むしろ鈍感な方だが、かなり高いと感じた。これは船の中では、真水が貴重だからというのもある。海という大量の水に囲まれているのに、水が貴重だというのは少し滑稽だ。
とにかく、一度は火を使う者を馬鹿呼ばわりしたイーギエが、今、船の中で香を焚けと言っているのは明らかに矛盾している。だから、普段イーギエ相手には言い負かされてばかりのウェイは、好機とばかりに打って出た。
だがイーギエは、困った顔をするどころか、説明するのが面倒という顔をして言う。
「火を使ってはならないのではない。火を使っているのを知られなければいいだけだ」
むろん、火事となるへまをしないという前提に違いない。
子供の頃のウェイは、禁じられた行為に対して盲目的に従っていた。今もその傾向があるのを自覚しているが、冒険者として生活するうちに、そのたがが緩くなった。
一般人は危険とわかっている一線には近寄らない。けれども冒険者は、そのラインぎりぎりに立つ。多くの決まりが、一般人感覚で設けられているので、それを多少踏み越える罪悪感はウェイにも既にない。イーギエも同じ感覚だから、このようなことを言うのだろう。
確かに、振り返ってみれば、ウェイのミスは、船内で火をおこしたことではなく、その時扉を開いていた事だった。
この階層は上甲板ほど船員が動き回っているわけではないが、あの時は作業している者がいた。今は厨房を除いて船員はいない。扉を閉じていれば、香を炊いても船員に知られない――いや、違う。
「扉を閉じている今は船員さんたちに気付かれにくいでしょう。ですが、じきに匂いと煙が漏れて――」
「私がその扉に停滞のルーンを描く」
割り込まれてウェイは話を止める。
停滞のルーン。
正直なところ、正式に魔法について学んでいないウェイは、ルーンについて詳しくない。でも、この場面で使われるのだから、匂いと煙が漏れるを防ぐのだろうと判断する。つまり、扉を開かれない限り、静寂の香を炊いても外に悟られない。そして、冒険者たちのいる部屋の扉を無遠慮に引き開けよう思う者はほとんどいない。
「それをやったら、きこえにくいんだろ? 戸をたたかれてもわかるのか?」
アリがイーギエに聞く。同じ疑問について考えていたウェイにとってはタイミングが良かった。
「静寂の香が妨げるのは、香のある空間とない空間の橋渡しだ。扉が叩かれて揺れれば、それで香のある空間が振動する。……つまり、ノックは聞こえる」
まずいと思った。イーギエに隙があると始めた議論だが、ウェイが考えつく意見には反論が用意されていたようだった。しかし、まだ言いくるめられたわけではない。実際ウェイには次の攻め手があった。
「しかし、扉はいつか開けなくてはなりません。いくら煙が漏れなくても、いや、漏れないからこそ、扉を開けた時に一気に流れ出てしまいますよ」
人や物が消える様として「煙のように」という表現がある。だけど、煙そのものは、それが薄れてしまう広い場所がない限り消えないものだ。
イーギエがフンと鼻を鳴らした。他人を小馬鹿にするいつものやつだ。それを聞いてウェイは動揺した。今の攻めについての返事も準備されていたのでは、と思ったからだ。が、すぐに思い直す。イーギエは議論で不利になると、相手にするのがばからしいという態度をとって、実質逃げることがあるからだ。ただし、そこで安易に追及すると痛いしっぺ返しを食らうことがある。だから言い合う者としては、表面上引き分けに見えても、イーギエが黙ったところで引くべきだ、とウェイは分かっていた。そして、それで十分手応えあったと感じられるくらい、普段はイーギエにやりこめられていた。
イーギエがもぞもぞ動いた。扉を閉じてから、お互いの姿は黒い影の輪郭というくらいしか見えていない。当然表情はわからなかった。が、続くカラカラと足元で鳴った音から、イーギエが、ローブの裾に手を入れ、中から小さくて硬い何かを放り投げたのが分かった。
しゃがんで手に取ろうとしたが、さすがに見えない。手探りを始めると、イーギエが呪文を唱えるのが聞こえた。
短い呪文だ。効果が出る前に何の魔法かは分かった。明かりだ。
イーギエの杖の先にはめ込まれている十三面体の水晶が輝き出す前に、ウェイの指先がそれを捕らえた。
魔法の白っぽい明かりは暗さに慣れた目には眩しい明るさだったが、ウェイは下を向いていたため、目が眩むことはなかった。イーギエが続けて魔法語を唱えながら、杖を左右に振る。見ていないが、影の動きからわかる。明るさが抑えられ、落ち着いた光になる。
その時には、ウェイは指の感覚から、握った物がなんなのかわかっていた。表面に細かい穴がたくさんあるこの石は、術者たちの間で「煙石」と呼ばれる物だ。煙幕の魔術の触媒として使われる。
そしてウェイは、言葉での決闘に敗北したのを悟った。
煙幕の魔術を使うには、呪文と手振り、術者の魔力が必要だ。他に必要とされる重要な要素として、適切な手段を踏んで準備された品がいる。それが触媒だ。
煙石に必要な準備は、煙を吸わせる事だ。それはこれまで、一日の旅の終わりに点ける焚き火の中に放り込んでおく事で済ませていた。
この習慣から、ウェイにとって煙石は焚き火の準備の一つという認識に固まっていた。一旦広がった煙を集める効果に着目した事はなかった。
知識としては知っているはずだった。
知恵のある魔物を追っている場合や盗賊の砦を奇襲する前は、不用意な焚き火でこちらの存在が悟られてしまう。だから、周りを囲う事で焚き火の明かりを隠す。難しいのは、煙だ。明かりに比べて夜の闇に紛れやすいが、目の良い見張りや感覚の鋭い魔物は、立ち上る煙やその匂いに気付いてしまう。しかしこの時、煙石の触媒化を利用すると、煙の量がぐんと減り匂いもそれに伴い薄くなる事は、何度も実践してきた。別の機会には、早くに煙石を準備する為に、生木を焼いて煙を吸わせたこともあった。
そう。知識としては、煙を吸わせることができると知っていた。繋がらなかったのは、これまでの実行がいずれも焚き火に絡んでいたからだ。香を炊くのも似たようなものだと、今までは思いつかなかった。
いや、そう思い込んだ背景に、煙は出たてのものを使うという先入観があった。だから今も、香として漂っている煙を後から煙石が集められるのか、試した事がないからわからない。だが、イーギエが言うからには出来るのだろう。
ウェイは魔術の表面しか知らないが、イーギエは中身まで知っている。その差だ。
「わかりました。準備をします」
これ以上続けても惨めなだけだ。ウェイは潔く負けを認めた。
立ち上がって自分の荷物を取りに行く前に、手にした煙石をイーギエへ転がす。
ウェイとイーギエの使う魔法に、被るものは少ない。元々系統が違うせいだろう。しかし、ガランの使う神聖魔法に比べれば、ウェイとイーギエの魔法は似ていた。ウェイの魔法は、エルフ流だから、方言的な差かもしれない。イーギエなら、魔法の差について詳しく知っているだろうが、この事について話した事はない。魔法に関してイーギエが優れているのは認めるが、本人に改めて確認したくはない。
二人の使う魔術が被らない一番の理由は、荒野の支配者の一行としてバランスを取るためだろう。魔術は触媒を必要とし、触媒を持ち運ぶ量は限られるので、予め使う魔術は決めておかねばならない。だから、おそらくイーギエは簡単な魔術をウェイの担当としている。
しかし、煙幕の魔術は二人とも準備している数少ない魔術だった。触媒の取り扱いが容易でかさばらず、奇襲を仕掛けるにも撤退するにも、即効性で使いやすい魔術だからだ。二人同時に使用した時の効果も大きい。
だから、ウェイにはウェイの煙石があった。イーギエの煙石は使いたくなかった。
背を向けて、自分の荷物のあるコーナーへと歩く。後ろで、杖を突く音と呻き声から、イーギエが立ち上がったのがわかった。何故だと眉を寄せてから、扉に停滞のルーンを印すという話だったのを思い出した。
今のウェイは、イーギエに近づいて欲しくなかった。いや、よく考えたら近づいて欲しい時などない。だけど、今は特に一緒に居たくなかった。
茶を沸かす時に下に敷いた布はまだ湿っていた。けれども、今は口実として利用しよう。
「これ、濡らしてきますね」
さっさと扉を引き開けて部屋を出る。後ろ手に扉を閉め、気持ちを整えるために深く息をしようとしたところで眉をひそめて、息を止める。少し吸ってしまった空気は臭かった。部屋の中がましだったということは、茶の香りが残っていたのだろう。
深呼吸は空の下でするべきだ。ウェイはすぐに急な階段を上り始める。
実際のところ、アリたちに出したきつい香りのする薬草茶は、船酔いに効くかどうかはよくわからなかった。ダママの茶は気分を落ち着かせる効果がある、という事は知っていたので試してみたのだ。そもそも、これまで船旅をしなかったのだから、それ用の準備などしていない。しかし、三人とも効いたようなので、効果があるのは間違いないだろう。パースだけなら思い込みのせいかもしれないと考えられるが、ウェイにとかくケチを付けるイーギエにも効いたのだから。
階段とはしごを複数上り外に出ると、周りの船員たちが緊張していくのを感じた。良くある事だ。冒険者は会話の中の存在としては人気があるが、実際目の前に現れるのは好まれない。
嫌がられるのはもはや気にならないが、緊張感が広がった事は気になった。ウェイが来るまで緊張していなかったという事だからだ。
ウェイは辺りを見回して、左舷の縁にいるパースを見つけた。こちらを向かず、船の外からロープをたぐり寄せている。
「パース、どうですか?」
パースが振り返り、その手が止まる。彼は一度に一つのことしかできない。
「あ、ウェイ。……ほぼできた」
パースが引き上げを再開すると程なく、ロープの先にくくりつけられた桶が現れた。ウェイが近くによって確認すると、知らないくくり方だった。
やはりパースは船員たちに手伝ってもらったのだろう。パースも最初警戒されたと思うが、その時のやりとりで船員たちの緊張を解いたのだ。彼はかつて人足として働いていたこともあり、特に労働者に馴染むのがうまかった。誰かさんと違ってトゲトゲしくない性格も、周囲を和ませる原因だろう。少なくともウェイは、パースの顔を見てほっとできた。
「ありがとうございます。ではあと一回、投げ込んでもらえますか?」
言いながらウェイは、持ってきた布切れをロープに結びつける。
パースは桶を投げ込み、引き上げる。海に浸かって戻ってきた桶の中の海水は、海へと戻す。そのあと解いて回収した布は当然ぐしょぐしょだ。ウェイはそれを絞る。
パースが船員たちに木桶を返す様も微笑ましかった。ぶっきらぼうに「かえす。どうすればいい?」と聞くパースに、近くにいた年配の船員は笑って手を振って「後はやっておくから置いておけ」と答えた。
冒険者への言い方ではなかった。やはりパースは短時間でかわいがられていたのだ。パースの才だが、船員たちが素直だと言うことでもある。
下りの階段の前まで来ると憂鬱な気分が戻ってくる。臭くて暗くて狭い通路を抜けた先には、性悪の魔法使いが待ち受けているのだ。そう考えると、ダンジョンのようだなと思えて、少し笑えた。が、もちろん今の重い気持ちは、その程度で吹き飛ぶものではなかった。
底へ着き、パースが強いノックをしてから扉を引き開けると、不機嫌そうなイーギエが立っていた。不機嫌そうなのはいつもの事だし、今は肩にもたれ掛けさせている杖の光が生む影で、いつもより不機嫌そうに見える状況だったが、そう見えるだけではなく実際に機嫌が悪かった。先にパースを通してから、やっとウェイはイーギエの苛立ちに気付いた。右手に持っている白墨から、扉にルーンを印す作業を中断させられたのが気にくわなかったのだ。パースに扉を開けさせて良かったと思う。他の仲間もそうだが、パース相手に怒っても仕方がないという認識があった。まともに怒るのはガランくらいだ。しかし扉を開けたのがウェイだったなら、きっと嫌みを言われたに違いない。
何となく振り返ってルーンを確認しようとしたウェイだったが、部屋の中央にもう一人立っているのに気付いて、そこで視線を止める。上で会った依頼人だ。もう来ていた。
「これは、お待たせしました。さあ、そちらにお座りください」
ウェイが片手で床を示したが、依頼人は断る。
「いや、いい。少し話すだけだ。立ったままで済む」
これは予想された反応だった。部屋の中央に立っていた態度は穏やかとは言い難いものだったからだ。両手を軽くベルトを握るようにしているが、これはおそらく彼なりの剣を抜く前の構えだろう。
依頼人の後ろではアリが緩く腕を組んでいた。これも剣を抜く前の構えだ。依頼人の警戒状態は当然と言えた。アリに加えて、扉にはイーギエがルーン文字を印しているのだ。普通の者なら部屋から出ていてもおかしくない。
この状況を理解した上で、ウェイは笑顔を浮かべた。笑顔は無用な争いを避ける有用な手段だ。
「では私は、準備をさせていただきます」
自分の荷物置き場にもう香炉は用意していた。ウェイは、依頼人の右側に濡らしてきた布を敷くと、香炉をそこに置き、依頼人の方を向いて座る。
依頼人の右奥にアリ、パースはウェイの左後ろにいる位置関係になる。
「今から魔法の香を炊きます」
魔法という言葉を聞いて依頼人の顔が険しくなる。それがさらに拒絶反応を示す前に、ウェイは続ける。
「この香は、そのルーンと合わせることで、この部屋の音が外に漏れるのを防ぎます」
予想どおり、依頼人の警戒が弱まった。むしろ、小さな頷きから満足しているのが伺える。
そこでウェイは少し考えた。依頼人の警戒心をまたくすぶらせないためには、すぐにでも魔術に移るべきだ。だが、煙が外に漏れない手立てが整わないことには、また船員が怒鳴り込んでくる事態になりかねない。
体を傾けて、イーギエの進捗を確かめる。おおよそ終わっているようだったが、正確にはルーンの知識のないウェイにはわからない。わかるのは、直接イーギエにあとどのくらいかかるか聞けば、嫌みが返ってくるという事だ。
二呼吸ほど待ってから、ウェイは香炉に置いた練り香の上に手をかざし、指の間から粉を落としながら短く呪文を唱える。パチッという音と共に火花が生ずる。
点火の呪文。
ウェイが初めて使えるようになった魔術だ。最大の後悔を生む失敗をし、別の機会では命拾いをした魔術でもあった。ウェイにとって忘れる事のできない魔術。昔は使う度に憎しみに似た想いが沸いてきたものだが、最近はそういうこともない。そう気付くと、時の経過が少し怖くなった。
「おぉ」
依頼人が小さく声を上げる。魔術としては初歩のものだが、市民にとっては驚異だ。しかし、その反応には怯えはなかった。だが、これはむしろ旅の剣士としては自然と言えよう。この程度の魔術であれば、これまでの経験で目にしたこともあっておかしくない。
光が動いた。イーギエの作業が済んだらしい。依頼人の後ろを通るようにして、ウェイの右後ろへ移動する。
次が、静寂の香の魔術だ。ウェイは目を閉じると、故郷近くの森の中にあった名もなき泉を思い浮かべる。魔術の行使には心を落ち着かせることが重要だ。その時にウェイが思い浮かべるのが、修行の地でもあったあの情景だった。あの泉はウェイにとって、まさに魔法の源泉といえた。
呪文を唱えつつ、両手で宙に印を切る。香の煙が揺らぎ、紫色を帯びたものに変わる。
依頼人が半歩下がった。これはむしろ勇敢だと言えた。普通の者なら、さらに後ろに下がり露骨に顔を歪めていただろう。
煙が部屋に満ちてくると、色も馴染んで薄れてくる。同時に、すっきりとした匂いが広がる。これは静寂の香本来の効果ではなかった。ウェイが触媒の香を作る際に、そういう香りのする物を混ぜていたからだ。
しばらくしてからウェイは香炉の上で宙をなでるように手を揺らす。煙の出を絞っているのだ。悪臭を遠ざける香りがするからといって、調子に乗って出し過ぎると煙たくなってしまう。これで良いだろうと判断すると、ウェイは改めて前の床を手で示した。
「どうぞ」
依頼人に座らないかという提案だ。依頼人は、半歩前に出たが座らなかった。
「それで終わりか?」
確かに、見た目には地味な効果かもしれない。点火の魔法の方がずっと簡単なのだが、そちらの方が派手だ。ウェイがどう説明したものかと考えていると、先にイーギエが口を開く。
「ふん。耳を澄ませてみろ。乗組員の声や帆がはためく音が聞こえなくなっただろう?」
依頼人が小首を傾げる。
「確かに……。だがまだ音が聞こえるな」
イーギエが鼻で笑った後、壁を叩く音がした。
「それは船に当たる波の音だ。その香は見ればわかるとおり、大気を伝わる音を妨げる。壁や床を伝わってくる音は別だ。ただし、そのルーンを記した扉は香とは別の原理で音が伝わりにくくなっている」
「それでは、聞き耳を完全に遮断したわけじゃないのだな?」
鋭い指摘だ。魔法ということでなんとなく煙に巻かれる存在ではないようだ。
「ああ、そうだ。外からでも壁や床に直接耳を当てれば中の様子は聴けるだろう。だが、それでも何もしないよりはずっと聞こえにくいはずだ」
ウェイは、穏やかな表情こそ変えなかったが内心は冷や冷やしていた。イーギエの態度が偉そうな事と、魔術が結局秘密の会話を守り切れないと正直に打ち明けてしまった事に対してだ。ウェイは魔法の効果がどれくらいあるか、わからなかった。しかしイーギエは予測できるからこそ、偉そうに説明してしまった。
だが、依頼人は意外にも不快そうな顔をしていなかった。言われたことを噛みしめるように理解、確認しているらしい。
これならば、とウェイは再度座るように手振りで促した。しかし、依頼人は今度も応じなかった。
「いや、私はこのままでいい。話も短いものだからな」
「そっちが短いつもりでも、こっちは聞きたいことがあるかもしれない」
またイーギエの発言は失礼な口調だった。いかにも、当たり前のことがわからないのか、と相手を馬鹿にしている。しかし、依頼人は「ふむ」と呟き、考え始める。少なくとも気分を害した様子はない。それどころか、ついに依頼人はウェイの前へと座り込んだ。腰の剣の角度を直し、あぐらをかく。
どうも、信じがたいことだが、イーギエはこの依頼人と相性が良いらしい。それとも依頼人の度量が広いか、だ。
ウェイはアリを見て首を少し傾げる。次は、アリが座る番だという指摘だ。背後に剣を抜く準備をした者が立ちっぱなしでは、依頼人に失礼だ。アリも、依頼人が座ったことで脅威が減ったと判断したらしい。同じく床に座る。彼の剣は短いので、依頼人ほど調整する必要はなかった。見方を変えると、剣を抜く機会になればアリの方が有利だということだ。だからこそアリは満足して座ったのだろう。
アリについてはあまり意識させたくなかったので、すぐにウェイは彼から視線を外した。が、依頼人に視線を戻した時には、もう認識している顔をしていた。剣の長さの差までわかっているのかは不明だが、背中にいるアリへの警戒は変わっていない雰囲気だ。ならば、不安が大きくならないよう話を進めた方がよい。
「では、まず改めて自己紹介を。私たちは『荒野の支配者』という冒険者の一行で、私がウェイ。アリにパース。こちらが魔導師のイーギエです」
順に手で差し示していき、最後のイーギエは立場まで付け加えた。こう呼ぶことでイーギエは気分がいくらか良くなる。一般市民相手では、威圧する場合を除いて、魔法使いと意識させない方が良いのだが、この依頼人はその程度では怯えないのがわかっていた。それなら、イーギエの権威からくる信用を利用できる。
「ほう。導師様か。……しかし、荒野の支配者であるなら、それが自然か」
依頼人が感心しつつ頷く。それを受けて、右後ろでイーギエが偉そうにフンと鼻を鳴らす。
「それで……」
ウェイは依頼人に手を向けてから、わざと言葉を止める。依頼人はその意図をすぐ理解した。
「ああ。巡察騎士だ。テオと呼んでくれ」
右手で首から見える革紐を少したぐったが、先にぶら下がっているメダルは見せてこなかった。先ほど見せたから不要だと考えたのだろう。イーギエは未だ見ていないので、見せるように、また失礼な口調で、主張するかと少し冷や冷やしたが、イーギエは黙ったままだった。
「それで、ご依頼の内容は?」
「それなんだが、本当に大した事ではない。荒野の支配者に頼むべき内容ではないかもしれないが、まあ乗り合わせたのも縁だろう。この船に乗っているあるものを捕らえたいのだが、船が王都に着いてから、私が衛兵を連れてくるまでの間、そのものを見張っていて欲しい、とそれだけだ」
見張り、それだけなら確かに簡単な依頼だ。だが、港に着けば、人も物もバラバラに動き出す。
「その対象が船を降りた時、取り押さえればいいのですか? それとも追跡すればいいですか?」
「尾行で良い」
ならば、取り押さえる場合より危険は少ない。ウェイがアリに目を向けると、アリが頷くのが見えた。杖の光が十分届かないため表情はよく見えないが、たぶんにんまり笑っているだろう。アリは追跡の技術に長けている。彼にとっては楽な仕事だ。
「で、ほうびはいくらだ?」
次に口を開いたのはアリだった。突然出た価格交渉に、ウェイは思わず顔をしかめた。不作法だし、人によっては気分を害するおそれがあった。
「銀貨一千枚」
「ってことは、一人あたり……」
アリが言葉を止めたのは計算しているからではなく、計算して欲しいからだろう。アリは算術が得意ではない。パースに至ってはできない。
「二百枚です」
と答えてから、ウェイは違和感に気付いた。これくらいの割り算ならアリでもできたはずだからだ。実際、アリは予想と違っていたからか、首を傾げる。
何か思い違いがあると考え、すぐに答えがわかったが、それを口に出す前にイーギエが鼻で笑いながら言う。
「千割る四は二百五十だ」
そう、四人だ。ウェイはこれまでの習慣から、依頼料を五で割ってしまっていた。だが、個人的にはそれで間違っているとは思わない。荒野の支配者として依頼を受けたなら、この場にいなくともガランも分け前を貰うべきだと思うからだ。荒野の支配者の高い評判は、ガランの存在抜きでは得られなかった。しかし、一方で、今回の依頼料を後でガランに渡しても、銅貨一枚たりとも受け取らないだろうと思う。ドワーフの基準ではおそらくそれは施しやお情けに相当する。下手をすれば、決闘に発展しかねない侮辱に取られる。ガランは、ウェイの気質を知っているから、侮辱とは受け取らないだろうが、染み付いたドワーフ気質から、気分を害するのは間違いない。
イーギエが馬鹿にしたのは、そこまでウェイの頭が回っていなかったことなのだろう。それについては、反論できない。
アリは、最初から今回の依頼に関わらないガランには分け前などない、という考え方だろう。仲間になってすぐの頃は、アリは何かと分け前を多く貰うことを主張した。例えば、今回のような依頼だったら、対象の尾行を独りですると主張し、依頼料を全て貰うと言い張っていただろう。他の者が手伝おうと申し出ても、足手まといだと一蹴した。確かに当初は、アリほど気配を消して行動できる者は他にいなかったが、アリがそう言っていたのは報酬を独り占めにしたいからだと明らかだった。
今のアリはそういう事を言わない。状況によって、仲間のうちの誰が一番活躍するかは変わってくる。その都度、取り分を変えていてはややこしくて仕方がない。それに、その場の活躍がなくとも、存在するだけで価値があることも多い。ガランが良い例だ。彼の回復魔法があるからこそ、戦闘では多少怪我を負っても問題ないという安心感があった。
結局のところ、アリが荒野の支配者の他の連中を仲間として認めてくれた、ということなのだろう。
「二百と五十か……」
アリの呟きから、彼が満足しているのがわかる。
銀貨二百枚あれば、贅沢をしない限り一ヶ月生活できる。それが簡単な見張りと追跡で済むなら、楽な仕事だ。
「相手はどんな奴だ?」
今度はイーギエが聞いた。
「それについては、今話すつもりはない。また後で話す」
テオは早々に立ち上がり掛けた。本当に少ししか話さないことに、ウェイは驚いたが、アリも同じだった。
「おいおい、まてよ。まだうけるときめたわけじゃないぜ」
テオの動きが止まると、アリへ振り向いた。その横顔は鋭い。
「そもそも掃除屋に受けない、という選択肢があるのか?」
脅しに近い口調だったが、アリには通じない。険悪になる前に、ウェイが割って入る。
「こちらも選ぶ権利はありますよ。さもないと、王族を殺してくれという無茶な依頼も受けなくてはいけなくなります」
「ふむ。そうだな」
多少落ち着いたようだが、テオの表情はまだ不満そうだ。
「では、一つだけ。相手は『闇夜の悪魔』だ。これでこの依頼の重要性がわかっただろう」
闇夜の悪魔。公爵領の町プルサスを騒がせている連続殺人鬼だ。
ウェイだけでなく、アリも一瞬固まっていた。この手の情報はむしろアリの方が詳しい。知っていて当然だろう。
「それじゃあ話が変わってくるな。千じゃ少なすぎる」
アリが報酬増額を訴える。
「千じゃ少ないのか?」
テオは意外そうだった。彼と目が合ったウェイは、少しためらってから頷いた。
駆け出しの頃なら多い額だが、近年の相場で考えるなら多いとはいえない。危険の少ない相手ならば相当額だと思うが、そもそもそういう仕事なら、もっと経験の浅い別の冒険者たちに任せるべきなのだろう。とはいえ、ここは海の上。別の相手を捜せるわけではない。だったら、こちらが譲歩してあげるべきなのではないか。
ウェイが少し躊躇ったのは、こういった考えがあったからだ。しかし、一行全体の収入を自分一人の判断では決められない。だから、とりあえず正直な相場についての反応を示した。
そもそも適正な価格などあってないようなものだ。昔からウェイはこの感覚がいまいち掴めない。値段交渉については、いつもアリの担当だった。しかしいつまでたってもアリの無遠慮な交渉には慣れず、心が引っかかる。
「うむむ。しかし、千以上となると……」
「おいおい、騎士様のわりにケチ臭いな」
ウェイはアリの発言をたしなめようとしたが、その前にイーギエの咳払いが割り込む。何か言いたいことがあるのだろうが、依頼人の前では言えないらしい。そこまではわかるが、あいにくその中身まではわからない。
「そもそも、その闇夜の悪魔とは何者だ?」
どうやらイーギエは噂について聞いていないらしい。そうだろうと思う。イーギエは元々噂話を気にする方ではなかったし、今は四六時中塔に閉じこもる生活をしているはずだ。世間の噂など知っているわけがない。
しかし、ウェイは答えるのをためらった。ウェイ自身詳しく知っているわけではないからだ。ただ、普通の噂ならその町に留まっているものだ。それが、荒野を越えて別の町にまで伝わってくるほどなのだから、闇夜の悪魔という存在がただ者ではないことは間違いないだろう。
答えを知っているはずのテオを見つめたが、聞いていない様子だった。しばらくあぐらをかいた膝をトントンと叩きながら考えていたが、不意に下がっていた頭を上げる。
「そうだ。報奨金があったな。闇夜の悪魔にはいくつかの賞金がかかっている。捕まえた後、君たちが見つけて引き渡してくれたことにすれば、賞金は君たちが貰えるはずだ」
「幾らだ?」
「さあ、注目していなかったので覚えていない」
ウェイも同じだった。賞金首になっているかも良く知らなかった。ただ、噂の規模からなっていてもおかしくないとは思う。
アリは両手を指折り何か数えていた。おそらく賞金の計算しているのだろう。その結果が出るまでの間、ウェイは疑問に思っていることについて聞く。
「テオさんには賞金をいかほどお渡しすればいいのでしょうか?」
テオが驚いた顔をした。その奥でアリが右手を胸の高さまでさっと上げた。その反応は予想していた。「余計なことを言うな」という事だろう。隣にいたら、つねられるか、はたかれるかしていたはずだ。
「いや、気を遣ってもらう必要はない。第一、その行為は不正として禁じられている」
テオの声は穏やかだった。理由はよくわからなかったが、ウェイの問いが良い効果を生んだようだ。そう思い、ウェイも良い気持ちになったところで後ろから鼻息を吹く音がした。
「当然だろうが、考えてもみろ。……いや、考えてもわからないのか?」
これにはウェイも頭にきて、後ろを振り向きイーギエを睨んだ。イーギエはそれを平然と受け止める。
「ならば、なぜ不正になるかわかるのか?」
「そ、それは――」ウェイは口ごもる。依頼人、すなわち巡察騎士が、賞金首の手配が掛かった犯人を捕まえても報酬が貰えない理由。ウェイはぼんやりとしかわからなかった。仕方なく、そのまま答える。「従来の捜査に身が入らなくなるからです」
「間違ってはいないが曖昧すぎるな。これが試験なら、私は正解とはしない」
「あいにく、私はあなたの弟子ではありません」
後ろで、テオが困惑しているだろう事は想像できたが、ウェイは引けなかった。
「ん? どうした? 何かあったのか?」
パースがまるで今部屋に入ってきたような質問をした。彼の頭の中では似たような状況だったのだろう。ぼーっとしていて気がついたら、ウェイがイーギエと睨み合っていたという感じだ。
「より正確に説明するなら――」イーギエがもったいを付けた調子で説明を始める。「仮定がわかりやすい。もし、衛兵でも賞金がもらえるとする。すると、きっと、重大な犯罪の犯人を知っていながら見逃す衛兵が出てくる。そのうち、その犯人がさらに世間を騒がせ、犯人の首に賞金が掛かる。その時始めて逮捕に移れば、その衛兵は賞金をせしめられるからな」
「でも、それじゃ、その間に被害に遭う人たちを犠牲にすることになります」
ウェイは驚きと怒りをもって声を上げたが、イーギエは片眉をつり上げただけだった。当然だ。イーギエは非難する相手ではない。
動揺させられた。本来治安を守るべき存在である衛兵が、市民を見殺しにして自分だけ得をしようという考えは、ウェイにはなかった。だが、ウェイはもう家を飛び出してきた頃の世間知らずではない。自らは思いつかなかったが、そういう奴もいるだろうと言われると、そうだと思える経験は積んでいた。
「お前がしようとしていたことは、それの少し進歩したパターンだ。ずる賢い衛兵が、自分では貰えないから、協力者を作り、その協力者に賞金を受け取らせ、後で自分の分け前を要求する、というやつだな」
ウェイは、ショックを受けて下がっていた視線を、もう一度イーギエに向ける。もちろん、今回そういうつもりでウェイがテオを巻き込もうとしたのではなかった。テオ自身、そういうつもりが微塵もないと示している。なのに、今改めてこういう話をすると、まるでテオや巡察騎士が悪い連中だと非難している色が出てしまう。失礼だ。
「が、じっさい、そういう話はよく聞くぜ」
アリが同調してきた。犯罪の現場に近い彼が言うなら、そうなのだろうと思わざるを得ない。ただ、アリは衛兵たち法の番人を毛嫌いする傾向が強いので、偏見が入っている可能性も十分ある。
「あいつら、そこいらのチンピラより悪どいからな」
巡察騎士の役目の詳細は知らないが、法側の人間であることには間違いない。その人の前で言うべき言葉ではないと思ったが、意外にもテオが同意する。
「そうだな。自分たちさえ良ければそれでいい連中だ」
ウェイが再び前を見ると、アリも意外そうな顔をしていた。
「へえ。意外に話がわかるダンナのようだな」
テオはこれには反応しなかった。顔色も、ウェイが分け前をいらないのかと聞いた時とは違い、感情が掴めない無表情になっている。褒めたつもりのアリにすれば、お高く止まった印象を受けかねない態度だったが、幸いテオはこちらを向いており、アリには表情が見えなかった。
「ダンナ。賞金の話だが、いざ払うって時にゴネるとこがあったら、ちゃんと口利きをしてくれるんだろうな?」
「口利き? 証言という意味なら、そのように答えてやるぞ」
「だったら悪くない金になるな」
アリは金銭面では納得したようだ。お金にこだわる者は他にいないので、実質決まりということになる。テオもそう思ったらしく、立ち上がる。
「ちょっと待て。まだ聞いていないことがあるぞ。『闇夜の悪魔』とは何者だ?」
納得していないのはイーギエだ。確かに彼のこの質問はずっと無視され続けていた。
「それについては答えるつもりはない。君たちは、私の指示どおり、王都に着いてから行動してもらう。それまでは、余計な手だしはむしろ邪魔になる」
決定事項を伝える感じだった。ウェイは嫌な予感がした。イーギエは自分が高圧的な態度になりがちなのを棚に上げて、いやそういう性格だからこそ、逆に高圧的に出られると機嫌が悪くなる。
「……まだ依頼を受けたわけではないぞ」
「な、何? 先ほど、その男が金額面で同意したところだろうが」
「オレは依頼料としては悪くないとは言ったが、依頼をうけたとは言っていない」
イーギエの言葉を受けて、アリも支援に回る。
「そういや、手付け金ももらっていないからな。確かに、ケーヤク成立とはなってない」
ウェイは黙って状況を見守る。アリの目論見は、報酬額の引き上げだろう。その目的のためには、巡察騎士の機嫌などお構いなしだ。もちろん、怒っているイーギエにもその観点はないに違いない。対して、ウェイの懸念点はテオの機嫌にあった。この際、交渉がまとまらなくても仕方がない。もしそうなっても、テオがそれなりに納得して去ってくれれば良い。客を怒らせたまま帰らせるのだけは避けたい。
そう思っていても口を出さなかったのは、今ウェイまで加わると話がややこしくなりかねない、という予測と、やはり依頼をする上で詳しく内容を話さないテオにも責められるべき点がある、と考えているからだ。
「ここまで聞いておいて、もう関係ないでは済まないぞ」
テオが剣の柄に手を置いた。すぐさま、アリが跳ね起き、腰を落とした姿勢で、こちらも剣を握った。その動きを受けて、パースももそもそと立ち上がろうとした。ウェイは片手を挙げてそれを止める。
「確かに私たちの意見はまとまっていません。正式に受けるかどうかは仲間で話し合ってからお答えします」テオが何かを言い掛けたが、その前にウェイは言い切る。「もちろん、受けないと決まっても、先ほどのお話は他言しません」
テオが懸念している点は読みどおりだった。開けた口から何も言葉が出てこないまま、また閉じられる。
実際のところ、他言しないという約束は守られないだろう。ウェイは自分で言った手前そうするつもりだが、アリはいつか酒を飲みながら、こういう依頼があったと誰かに話すだろう。だが、少なくともこの船に乗っている間は、漏らすことはない。この約束を守れない危険があるのはパースだ。彼の場合、本人が守るつもりがあっても、時が経てば、約束をしたことすら忘れてしまうからだ。だが、おそらくそもそも話を聞いていないから、他言しないというよりできないだろう。
テオが剣の柄から手を離した。しかしアリの姿勢は変わらない。
「ふむ。いいだろう。ではまた改めて返事を聞こう」
一つしかない出入り口の扉の前に進むと、テオの動きが止まった。どうも扉に描かれたルーンのせいで、扉に触れるべきなのかどうか不安になっているようだ。ちらりとこちらを振り向いたテオに、ウェイは大丈夫だと左手を広げるように流して示す。
「待て、最後にもう一つ」
扉に手をかけたテオに、イーギエが呼びかける。答えるつもりがあるかどうかは別として、テオの動きが止まる。
「相棒はどうした?」
テオに反応はなかった。むしろ、動きが止まったままという態度が、内面の動揺を示唆していた。
「……あいつは、この船に乗れなかった」
低い声で答えると、テオは扉を開け部屋を出ていく。ウェイは、扉に近いパースに指示してすぐに扉を閉めさせる。早く閉じないと煙が漏れて、船員たちに火を焚いたことがばれてしまうからだ。
「ちっ、ヤなヤロウだったぜ」
アリが舌打ちをした。そういう結果を生んだ原因の幾らかは、アリ自身の態度にある、とウェイは思ったが言葉にはしなかった。アリの貴族嫌いは体に染み着いている。今更注意して治るものでもない。それに、対等な仲間として、そこまで意見する立場でもない。
「まあ、いい。ちょうど良い暇つぶしができた。集まってくれ」
イーギエが杖で床をコツリと叩いた。
そしてガランの就任式の打ち合わせ以来久しぶりの荒野の支配者としての話し合いが始まった。