09 (ペイルトン・イーギエ)
ペイルトンは憤慨していた。
彼は今、ウェイとドワーフ語とエルフ語を交えた口論を終え、自室に戻っていた。言い負けたからではない。引き上げたのは、それ以上話を続けるのに嫌気が差したからだ。
ウェイは、拙い演技を直ちに止めるよう注意してきた。標的である闇夜の悪魔を警戒させてしまうという主張だった。
ウェイに何か指摘されるだけで腹が立つのに、今回は怒りが爆発した。ペイルトンがパースを利用してまで、この策を試さざるを得なかったそもそもの理由は、ウェイが戦力にならなくなったせいだった。だから、闇夜の悪魔に関する噂話をすることで本人の動揺を誘い、そこから正解に至るつもりであった。
が、実際はうまくいかなかった。
ウェイに指摘されたとおり、パースの演技がひどすぎたからだ。自然に噂話ができていれば、闇夜の悪魔は警戒しなかっただろう。
これまでもプルサスで、闇夜の悪魔の噂話がされているのを本人は幾度も聞いていたはずだ。闇夜の悪魔は自己顕示欲が強いはずだから、自分の噂話を聞いて、にやけるような反応をするのに違いないと予測していた。しかし、噂話がぎこちなければ、炙り出そうとしていると気付かれかねない。
パースだけでなく、ペイルトンの方にも問題があった。演技に集中していると、周りの様子まで気が回らないのだ。せっかく闇夜の悪魔が自身の噂話を聞いて得意顔をしていても、それを探し出せなかった。
ウェイに真っ向から否定されて腹が立ったが、こうして一人で考え直すと、引き際として間違ってなかったと思う。
パースでなく、ウェイであれば巧くいったであろうとも思う。ウェイなら自然に闇夜の悪魔についての話を始め、かつ周囲の様子も確認できていたはずだ。
当たり前だ。ウェイはパーティー内でそういう役割なのだから。
だが、闇夜の悪魔の警戒心を高めてしまった今では、ウェイであってももはや役目は果たせない。闇夜の悪魔は、自分の噂話を聞いても鉄面皮を決め込むであろう。これまで衛兵や盗賊ギルドの捜査から逃れられている相手だ。隠れようと思えばそのスキルは高いに違いない。
冷静になってくると、当初考えていた以上に失策だったと思えてくる。別に挽回する機会を作らなくてはいけない。もしくはウェイもまた同じ程度の失策をするか、だ。
それなら既にウェイは船長相手にいざこざを起こしていた。それに比べれば今回の失策はましだろう。
エルフ語とドワーフ語の言い合いを理解されている可能性は低い。もしそれぞれの言語を理解できたとしても、ウェイは「月夜に出歩くのは危険だ」という表現をしていた。月夜がすぐに闇夜に繋がったのは、パースのおかげだ。その後は、演技が下手だの、女癖が悪いだと言い合ったので、闇夜の悪魔が聞いていたとしても、自分についての会話だとは思わなかっただろう。
それ以前に、両言語を理解できるとは思えない。認めるのは癪だが、エルフ語を操れる者がエルフ以外にほとんどいないからだ。
正直なところ、ペイルトンもエルフ語についてよくわかっていない。元来エルフは閉鎖的な種族なので、エルフ語で書かれた文書はほとんどない。幾つかの単語が限定的に書かれる程度だ。エルフにも会えないので、学ぶ機会はない。
一方ドワーフは酒が入らない限り社交的とは言い難い種族だが、彼らが産み出す鉱物や工芸品を通じて交流はある。こちらも文書はあまりないが、ペイルトンは身近にガラムレッドというドワーフがいたので彼から学べた。学ぶ時間も旅の間なら十分な時間が取れた。
一方ウェイは、出会った時には既にエルフ語を扱えていた。子供の頃に直にエルフから学んだからと言っていたが、ウェイが馬鹿な子供だったら覚えていなかっただろう。
幸いに、発音こそ全く違ったが単語そのものはドワーフ語とエルフ語に多くの共通点があった。文法は単語以上に似ていた。ペイルトンがなんとか、ウェイのエルフ語を理解できているのは、このおかげだった。
だが、会話が長引くと、聞いたエルフ語を頭の中で一度文字に直し、それに対応するドワーフ語を探し出し、それから文意を取る、という行程が追いつかなくなり、何を話しているのかわからなくなってしまう。
逆に、ウェイがドワーフ語を理解できているのは、ガラムレッドからペイルトンが教わっていた内容を横で聞いていたかららしい。
ペイルトンは、ガラムレッドからの教えを、旅から帰った後で反芻学習していたのでマスターできた。ウェイはそこまで勉強しないだろうから、ドワーフ語に関する習得はウェイより自分が勝っているだろうとペイルトンは思っていた。が、先日のガラムレッドの酒宴で、そうではなかったと思い知らされた。
ウェイは、ドワーフたちと完璧なドワーフ語で会話できていた。だったら、ペイルトンと秘密の会話をする際にドワーフ語を使えば良かった。ペイルトンはそう腹を立てたが、ウェイに直接文句を言えなかった。そんな事をすればペイルトンがエルフ語をあまりわかってないと発覚する可能性があったからだ。幸い、アリも同じ疑問を抱いたようで代わりに聞いてくれた。その問いに対してウェイは、「ドワーフ語の方が発音が難しいから」と答えた。
ペイルトンにとっては、全く逆だった。エルフ語の発音は難しい。ドワーフ語でさえ、うまく言えない音があり自覚していたが、ウェイにはその訛りすらなかった。それでいて、ドワーフ語が難しいと言うのは、本人に意識がないとしても十分嫌味だ。
腹が立ってくると、腹が減る。
しかし、ペイルトンは去り際に、パースから「めしはいらないのか?」と大声で聞かれ、怒りに任せて「いらない」と答えてしまった。今更、のこのこ戻れない。それなら、空きっ腹を抱えている方がましだ。
そういえば、ここ数日はまともに食事を摂っていなかった。ドワーフの酒宴では食べた物を大分吐き戻してしまったが、少しくらいは栄養を取れていたであろう。しかし、その後の揺れのひどいドワーフ・トロッコの旅ではほとんど食事が喉を通らず、ハイマーに着いてからの数時間もぐったりして食事どころじゃなかった。船に乗ったら乗ったで船酔いに見舞われた。
いつものペイルトンなら、書物に没頭している時など食事も煩わしくなるくらい、空腹は気にしない性質なのだが、今の状況ではさすがに腹が減ったのを無視するのは難しい。船酔いがましになった理由はウェイの薬草茶のおかげなのだが、そもそもウェイに対して感謝する気にはなれず、今となっては逆に食欲が戻った原因として怒りの対象になった。
ペイルトンは扉が閉まっているのを確認してから、自分の袋から干し肉を出し、それを食んだ。旅慣れた者として保存食の携帯はしていた。ただし、これはガラムレッドの若手教育役就任記念祝賀会に旅立つ前に買ったもので、途中でいくらか消費していたので余り残っていなかった。火を使えれば他の保存食も食べられるが、そうすると腹が減っているのに食事をいらないと答えてしまった矛盾が仲間にばれてしまう。それは避けなくてはならない。
ハイマーで保存食を追加できなかったのは、もちろん、そこまで気が回らないほどペイルトンが消耗していたからだ。
外で揉めている音が聞こえた。扉を少し開けて確認すると、パースが、ペイルトンの分まで食事を貰おうとして断られたことで、怒りだしたようだ。自分独りわびしい気持ちになっていたペイルトンは、他人が困っている事態ににんまり笑う。もしかしたら、ペイルトンの食事はやはり本人しか貰う権利がないと、呼びに来られるのではないかと期待したが、すぐにそれはないと諦める。船のコックがそこまでルールを徹底するわけがない。パースも、断られたことで、やはりペイルトンが食事をもらうべきなのだという考えはしない。
ほどなく、少ない干し肉を食べ切ったが、やはりペイルトンの腹は膨れなかった。仕方ないので、横になり眠ることで空腹感をやり過ごすことにする。
魔術師ギルドでフロアマスターにまでなった自分が、まさかこうして空きっ腹を抱えることになるとは、と自嘲めいた考えが浮かぶが、それは意外に心地よいものだった。ウェイに対する怒りが冷えてくると、今の感覚が、かつて味わった飢え死にしかけた体験を思い起こしてくれたからだ。
あの時、荒野の支配者はそれほど名が知られておらず、実力も大したことはなかった。魔物や盗賊退治を幾つか成功させた程度で、あの依頼も辺境で交易活動を妨げているオーガーを退治するという、今でいえばありきたりものだった。だが、そのオーガーが見つからず停滞した。冬の森奥深くに分け入り、そこで迷ってしまったのだ。途中で一旦戻るチャンスはもちろんあった。だが、それでは収入がないまま、補給の為の新たな出費が発生する。マコウとアリは、それを嫌がった。ペイルトン自身は金銭面ではなく、労力の面で戻りたくなかった。補給後、また森を分け入って行くのは面倒だったのだ。
オーガーのねぐらは見つかっていた。近くにいるに違いないという見込みがさらに、パーティーの判断を曇らせた。数日なら食事なしでもいけるだろうと、捜索を継続したところで新たな障害が空からやってきた。
雪だった。
地面はたちまち白雪で覆われ、オーガーの足跡どころか帰り道すらはっきりしなくなった。雪の中歩くのは速度が低下するだけでなく、体力も消耗する。
ひどい死臭のするオーガーの岩穴で様子を見ることにしたが、直後にマコウが体調を崩した。食べるなと注意していたのに、空腹に負けてよくわからない茸を口にし、その毒に中ったのだ。
あの時、食べられる植物について、ペイルトンは全く知識がなかった。ウェイは幾らか知っていたが茸は知識になかった。
完全に釘付けにされた荒野の支配者に、飢えは容赦なく染み渡ってきた。治療術に優れるガラムレッドがマコウに寄り添い、ローブが雪に取られて歩きにくペイルトンはずっと火の番をした。狩りに出掛けられたのは、アリとウェイのみ。その二人は結局手ぶらで帰る日が続いた。
木の皮を噛んでも腹の足しにならず、雪が降り続けるのを見ながら、このまま飢えて死ぬのかと何度も考えた。しかし、ある夕暮れに、ウェイが一羽の兎を捕って帰ってきた。それを五人で分けた。一人分の量はすぐになくなり、余計に腹が減った気にさせられたが、あの時の兎はペイルトンの生涯で一番おいしい食べ物だった。
あの日以来事態は好転した。コツを掴んだウェイは、次々と獲物を捕ってくるようになった。マコウも快復し、雪も止み、なんとか移動できるようになった。その頃には、誰もオーガーの事を問題にしなかった。生き残ることこそ重要だと分かっていたからだ。
あれ以降、荒野の支配者が飢えに直面することはなかった。飲食物の確保が最優先だという基準を守り続けたし、万一に備えペイルトンは食べられる植物について調べた。だが、ウェイの狩りの腕はますます磨きが掛かり、ペイルトンのその知識が必要に迫られる事はなかった。後に、ウェイの方が植物についての知識がある、特にペイルトンができなかった茸の見分け方もウェイならできる、と分かると、それからは無理をして調べる気は失せた。
そういえば、あの雪に追い詰められた頃には、ウェイに今ほどの知識がなかった。むろん知識は生きていく上で自然に身についていくものだが、直接生活に関係しない知識は、こちらから取りに行かないと掴めないものだ。だから、ウェイも彼なりに仲間たちの為に努力しているという事だ。
この見解は茸についての知識差があると気付かされた時に思い至っていた内容だが、いつの間にか忘れていた。
まあ、あの時ウェイが捕ってきた兎の美味しさに免じて、今回の件は許してやるとするか。
ペイルトンが心の中で呟くと、それに応じるように腹が鳴った。しかし、ペイルトンはそれが特に気にならなかった。




