『2』
「危ないところだったのよ? アナタ、わかってるの? あのままあそこに居たら練馬猫になっちゃうところだったんだから」
「はぁ……、そうだったんですか……」
なんのことだかわかりません。
「たまたまワタシが見かけたからよかったけどねえ。本当よ?」
「そうなんですね……へへへ」
とりあえず愛想笑いで会話を凌ぐ。
――これ、人間とやってることが変わらないのでは?
そんな愛想笑いを気にする素振りもなく、意気揚々と僕の隣を歩く白黒の猫(♀)。
体は白が基調で、ふてぶてしい顔は中央から黒が広がっている。耳も黒で、やや高め。僕の予想ではシャム混じりの雑種。
ヨネノと名乗ったその猫は、ついさっき信号で待ち惚けしていた僕に声をかけてくれた、転生してから出会う初めての猫なのだけれど、
「だいたい、関町とやらが出っ張ってるのがおかしいのよ。青梅街道で切ればいいのに、そう思わない?」
「あー、そうかもしれないですね……」
困ったことに、さっきから何を言ってるのかさっぱりわからない。
ヨネノさんの「アナタ、そこに居ると危ないわよ。こっちについてきなさい」という言葉に従ってここまで来たものの、ヨネノさんの言う危険が何だったのか、執拗な練馬ディスが何なのかの答えが得られそうな気配は無い。
ここが東京23区の練馬区で、この目の前の幹線道路は青梅街道というらしいのはわかったけれど、
――ついていく猫選を間違えたかもしれない。
「あー、そろそろ帰らないと!」とか「すいません、これから約束があるんで、じゃ!」とかは通じないだろうなぁ……。
生返事をしながら、いかに自然にここを去ろうかを考えていると、
「はい、ストップ!」
ヨネノさんの声が後ろから聞こえた。
立ち止まったことに気づかず追い抜いてしまったらしい。
振り返ると、ヨネノさんは歩道橋の登り口を足で示して「登るよ」と言っている。どうしようか迷いながらも、とりあえず僕はその後ろについていった。
えっちらおっちら歩道橋を登り切ったところ、ヨネノさんは歩道橋の細い柵にぴょんと飛びあがった。そこから僕の方を見て、さぁアナタもと手招く。
――マジで?
柵の幅はブロック塀と同じくらい。乗れないことはないけれど、下はごうごうと車の行きかう幹線道路。落ちたとして、今度もあの不思議空間に行けるのだろうか?
ヨネノさんは柵の上から真剣そうな目でこちらを見ている。
僕は意を決して後ろの両足に力を込め、バネをぴょんと伸ばす。身体が浮いて、そして柵の上に爪を立てて、きゅっと身体を……。
「……はぁ……はぁ……」
心臓がばくばく鳴って、猫の心臓はここにあるぞということを嫌というほどアピールしてくる。
金属の柵に爪がかからず、つるりと前足が滑った時には瞼の裏をあの名前も知らぬ美少女の面影がよぎった。僕の猫としての短い走馬燈も脳裏を走った。
幸い、長めの尻尾と天性のバランス感覚により体勢をリカバーした僕はなんとか投身自殺を免れたのである。
「アナタ……目の前でミンチができるかと思ってちょっとビックリしたじゃない。変な遊びはやめてよね」
「遊びじゃないですよ!! 僕もミンチになるかと思いましたよ!!」
怒鳴ったおかげでようやく呼吸が落ち着いてくる。
ここは歩道橋の柵の上。並んで座る猫二匹。
「そもそも、なんでこんなところに登るんです……?」
「それはね、ここからじゃないとうまく説明できない大切なことがあるからなの」
「というと?」
「あそこの信号を見て」
ヨネノさんが指したところは青梅街道に細道が交わって五差路になっている。右手側にはホームセンターがあって、左手側には小さな地蔵堂。別段、変わったところがあるとは思えない。
「交差点、ですよね」
「そう、この交差点が大事なの……。いい、信号の奥のあそこのホームセンター。青梅街道の右手側で、細道を挟んだ向こうが……練馬区よ!!」
「はぁ……」
あ、これすごい嫌な予感がする。
「そして、青梅街道の右手側でも、細道のこっち側は我らの杉並区よ!!」
「なるほどですねー」
「この青梅街道が区切りになってるように思えるでしょう? でも気を付けて! 青梅街道の反対側でも油断はできないの! いい、左手奥に見える和食レストラン……あのあたりも練馬区なのよ!!」
「なるほどですねー」
「ここは、この歩道橋から見える景色は言わばワタシたちの38度線……、憎き練馬との最前線なの!!」
――しらんがな。
本当に、心の底からしらんがなという話だけれど、しかし……ヨネノさんがこれほどまでの悪意を向ける以上、ひょっとすると練馬区には何か秘密があるのかもしれない……。
実はここは僕がいた日本とは異なる日本で、練馬区は悪鬼羅刹が跳梁跋扈する世紀末的世界観なのかもしれない……。パンキッシュな猫たちによって汚物は消毒されてしまうのかもしれない……。
「あの、僕ちょっとまだわからないんですけど……、練馬区って何かあるんですか?」
「なにかある? なにかあるですって!? 練馬の悪行なんて数えきれないわ! いいこと、あのあたりに見えるアパートやマンションなんてどれもしれっと『善福寺』を名乗ってたりするのよ? 笑わせるじゃない、練馬風情が杉並の誇る由緒正しい善福寺騙ろうなんて100年早いわ!! 大根齧って石神井公園のメロンソーダでも飲んでなさいってのよ!!」
――残念! 練馬には何もありませんでした! どうかしてるのはこの猫の方でした!
頭を抱える僕を尻目にドヤ顔で「どう? わかったでしょ?」的な空気を醸し出すヨネノさん。
「だから、とりあえずこの境界線は覚えておくのよ。38度線を。ここから奥へ行くとまた境界線が複雑になるけれど、それはまた後日案内してあげるから」
そう言ってするっと柵を降りていく。
ついていくべきか、否か。
すこぶる無駄な情報のために命を危険にさらした僕としては非常に迷うところではあったけれど、ついつい流されるように後を追ってしまう。
「そうそう、歩道橋の場所もちゃんと覚えておいてね。横断歩道だと右折車や左折車に巻き込まれちゃうの。ワタシたちに気づかないもの」
「あー、確かにそうですね」
「家猫の連中はいけ好かないのが多いけど、ケンカしちゃダメよ。面倒なことになるから。あいつらは家畜だから、見下しておけばいいの」
「はい、そうします」
「あと、犬には気を付けてね。このあたりの危ない犬を飼ってる家は把握してるから、これも案内してあげるわ」
「ありがとうございます」
青梅街道を離れて住宅街をとことこ歩く道すがら、引き続きヨネノさんから猫知識の講義を受ける。
果たして鵜吞みにしていいものか怪しいけれど、『少しのことでも先達はあらまほしきことなり』と昔の人も言っているので、聞いておくに越したことはないだろう。
――でも、ヤバイヌハウスって言葉はどうなの? 他の猫に通じるのか?
そんなことを考えながら歩いているうちに、道の向こうにこんもりと茂った森が見えてきた。
隣のヨネノさんが少し小走りになったので、つられて僕も走り出す。
近づいてみると、木々が低い柵に囲われて綺麗に整備されているのがわかる。比較的大きな公園だ。砂利が敷かれた園内は広々とした池が真ん中にあって、すみっこにいくつかの遊具が設置されている。
公園の入り口で立ち止まったヨネノさんは勿体つけるかのように、ゆっくりと僕の方を振り向いた。
「ようこそ、我らが善福寺公園へ!」
――おおッ! ここがかの有名な善福寺公園ッ……!!
と言いたいところだけれど、僕はそんな公園の名前を今初めて聞いたところなので、しっかりとしたリアクションが取れない。「あ、お邪魔します」とか普通に答えていいものだろうか……。
「おいおいヨネさん、彼、困ってるじゃないか。どうせ変な案内して連れてきたんだろう?」
反応に困ってた僕に助け舟を出してくれたのは、入り口近くの木からするする降りてきた灰色地に黒縞の猫(♂)だった。愛嬌のある丸顔で、頭の上の耳がぺたんと折れている……、まさかスコティッシュフォールド?
「失礼ね、ドバシ君。変な案内なんてしてないわよ。それよりも、紹介するわね。猫になったばかりの彼、……あら? アナタ、名前なんて言ったかしら?」
首を捻るヨネノさん。
知らなくて当然です。そもそも聞かれてないですから。
「あの、僕はスズキって言います。今日の、本当に今さっき猫になったばかりで、ヨネノさんに連れられてきました」
「そうそう、スズキ君よ。スズキ君。すっごい平凡な名前よね」
「やあ、はじめまして。俺はドバシ。このあたりを根城にしてる野良猫だ。よろしく」
さも知ってたかのように振舞った上にさりげなく失礼なヨネノさん。
それに対して、非常に礼儀正しいドバシさん。
よかった、連れて来られた先がヨネノさんみたいなのばっかりじゃなくて……。思わず安堵の息がこぼれる。
「でも、スズキ君。今日猫になったにしてはいい動きをしてるね。自然で、スムーズだよ。君は猫に向いてるんじゃないかな」
「そうよね。自然に歩いてるわ。四つ足で歩くのは慣れるまで時間がかかったりするものよ?」
「そうなんですか? あんまり運動得意じゃなかったんですけど……」
さっき死にかけましたし……。というか、今更そんなことを言うなら歩道橋で無茶させないでくださいと言いたい。
「うん、骨格も良いし、肉付きもいいね。引き締まっていながらボリュームのある大腿四頭筋だし、広背筋もがっちりとして風情があるよ」
――あれ? ドバシさんの僕を見る目がちょっと怖いぞ?
よくよく見るとこのドバシさん、スコティッシュフォールド風のかわいい顔に反して、身体が異様にゴツイ。耳の折れた真ん丸の顔と真ん丸の目に筋骨隆々の身体がアンバランス過ぎて、顔がかわいい分余計にかわいくないという不思議な境地に達している。
そして、ドバシさんのその薄青いくりっとした宝石のような目は、嘗め回すように僕の身体を見つめている。
――いやいや、考え過ぎだ鈴木健。そういう文化が猫の世界にあるわけないし。……ないよね?
そんな僕の葛藤を知ってか知らずか、目が合ったドバシさんはニカッと気持ちのいい笑みを見せる。
「まあ、こんな公園の入り口で猫三匹が固まってると人目を引くから移動しようか。スズキ君、こっちだ」
「善福寺公園は北側を練馬区に取り囲まれているわ。ここはワタシたちのホームだけど、くれぐれも油断しちゃだめよ?」
猫に転生した初日。今まで出会った猫はこの二匹……。
――果たしてこの猫たちについて行って大丈夫なのだろうか?