いつか(虹色幻想31)
暑い夏だった。
毎年毎年、夏が来るたびに嫌になる。
夏は嫌いな季節だった。
「佐伯、校門でお前を待っている女がいる」
慶治にそう声をかけてきたのは、同じクラスの春樹だった。
「女?」
慶治は怪訝な声を出して首をかしげた。
そんな女など思いあたらない。
今日は夏休み中の登校日だった。
授業はなく、ホームルームだけで終わった。
「俺も一緒に校門まで行くぞ!」
春樹は楽しそうに慶治に言った。
慶治は返事をせず、教室を出た。
校門にいる後姿を見て、慶治は足が止まった。
「綾子…」
「どうした?」
春樹は慶治の顔を覗きこむ。
校門の女が慶治の姿を認め、嬉しそうに笑った。
「慶治!」
手を振りながら傍に寄ってくる。
長い髪の笑顔の可愛い女だった。
「待っていたのよ。
一緒に帰りましょう。
あら、お友達?」
慶治は女の手を強引につかみ、引っ張った。
「ちょっと、慶治!痛いわ」
「いいから、来い!」
女は引っ張られながら、春樹にすまなそうにお辞儀をした。
「いい女じゃん。慶治やる~!」
「は~る~き~?
あんたはまた性懲りもなく!」
「げ、智子」
振り返ると腕を組み、ガンを飛ばしている智子が立っていた。
慶治はしばらく黙ったまま駅まで向かっていた。
頭の中がぐちゃぐちゃしている。
いきなり現れた女に対して、混乱していた。
「どうして、急に。
何か連絡してくれるとか、すればいいのに」
「驚いた?」
「驚くに決まっている!」
慶治は足を止め、女を見た。
軽く首をかしげている女は、慶治の姉だ。
「久しぶりだったから、お父さんどうしているか心配で。
ちょうど旦那も出張でいないから会いに来たのよ」
その言葉に慶治はため息をついた。
「それなら、家で待っていればいいだろう?
なんで学校まで来るんだよ」
「だって、会いたかったんだもの。
最近、家に行くと慶治いないから」
一生会えないわけではない。
海外に住んでいるわけでもない。
会おうと思えは、すぐに会える。
それなのに、慶治はあえて姉に会おうとはしなかった。
わざと会わないようにしていた。
それなのに。
慶治は眉をひそめた。
「綾子。もう、帰れ。親父も元気だ。心配ない」
「でも…」
その答えにイラっとし、慶治は綾子を壁に押し付けた。
「どうして、現れた?
忘れられないのに…どうして!」
慶治は綾子の肩にもたれかかり、つぶやいた。
いつか、この想いを忘れることが出来るのだろうか?
「ごめん」
綾子はそっと慶治の髪をなでた。
幼い頃に母親が亡くなった。
それ以来、綾子は姉であり、母であった。
綾子と慶治は十も年が離れている。
たった二人の姉弟。
二人はとても仲が良かった。
いつからだろうか、慶治は綾子を一人の女として見ていた。
ずっと傍にいれるものだと思っていた。
「結婚するの」
慶治が中学三年のときだった。
「俺のせい?俺が綾子を」
綾子は慶治の口を人差し指で止めた。
「それ以上は言っては駄目よ。
結婚するのは慶治のせいではないわ。
私の意志よ」
「なんで…」
慶治は綾子を振り切って自分の部屋に逃げた。
どうして?
なんで?
慶治は納得することが出来なかった。
顔を枕に押し付けても、溢れる涙を止めることは出来なかった。
「慶治。結婚しても、私があなたの姉であることに、変わりはないのよ。
ずっと家族なんだから…!」
それでも、綾子は俺を置いて行くんだ。
そうだろう?
慶治は何も言うことが出来なかった。
夏休みが終わった。
あの日、綾子は家には寄らず、帰って行った。
そうして懲りずにまた現れる。
心を乱してゆく。
「佐伯君。少し話があるの。いい?」
それはクラスメイトの梨香だった。
「梨香って可愛いよな」
「特にあの唇!」
クラスメイトが梨香を見て話していた。
梨香はもてる。
だから、話題にのるのはいつものことだった。
梨香の唇は、まるで瑞々しいオレンジのようだと慶治は思った。
まだ蒸し暑い、放課後だった。
「何?」
慶治は少し機嫌が悪かった。
梨香は綾子に似ていたから。
だから、あまり話したことがなかった。
避けていたといってもいい。
早くこの教室から逃げたかった。
「この前、佐伯君のお姉さんを見たよ。可愛い人だね」
「だから、何?」
何が言いたいのか分からない。
その状況にイライラした。
「好きなの」
「は?」
「私、佐伯君が好きなの。
だから、私を見て。
お姉さんじゃなくて、私を見てよ。
家族でしょう?
好きになっても、どうにもならないじゃない!」
「どうして?」
慶治は一歩梨香に近づいた。
「分かるよ。ずっと見ていたから。
好きだから。分かるよ」
分かる?
一体何が分かるというのだ?
「お前に、俺の何が分かる?
この気持ちの何が…!」
苦しかった。
どうにも出来ない無力感。
「分かるよ!苦しんでいることも。
でも、それは諦めるしかないじゃない!」
「うるさい!」
慶治は梨香を抱き寄せ、乱暴に唇を塞いだ。
唇からはかすかにオレンジの香りがした。