歴史創作習作・ルイ9世
故郷の日差しよりも、海上の日差しは幾分か凶暴なようだ。体中にまとわりつく汗の不快さに思わず溜息がこぼれる。これはずっと働き詰めでは目的地に辿り着く前に倒れてしまう、と言い訳をしながら日陰に逃げ込む。人気の少ないそこは風が吹き抜け、少しばかりだが暑さを忘れさせてくれた。国王陛下がいなければ、最高の休憩場所になっただろう。
「……へい、か」
その人は甲板に直接腰掛け、指輪を太陽にかざしている。白いものが混ざった金の髪を風に遊ばせながら。お付の者もそばにいない様子に、この人の警護は大丈夫なのかと思わず心配になった。いいのだろうか、国王陛下がこんな場所にいて。戸惑いながら、どこかに彼の従者はいないかと視線を巡らせる。が、やはり見つからない。どうしたものか、と困り果てているとゆっくりと陛下が手をおろしこちらを向いた。
「やあ。君も涼みに?」
「……はい」
穏やかな微笑みには、仕事をサボっていることを責める様子はなく思わず素直に頷いてしまう。彼はひとつ頷くと、また空へ視線を戻してしまう。指輪はいつの間にか指に戻されていた。
「私もだ。この暑さには敵わない」
「全くです」
「フランスは涼しいだろうね」
「ええ。少しばかり、恋しいです」
思わず本音が出た。この遠征が嫌だと言うつもりはない。むしろ参加できて光栄だと思っている。けれど、夜ごと思い出すのは故郷と残してきた家族。
「私も、フランスが恋しいよ」
同じだ、という笑い声に思わず目を見開き陛下を見つめる。故郷の畑を思い出させる、柔らかい茶色の瞳はこちらを見上げてきた。そこにあるのは、確かな望郷の念と寂しさ。俺や他の仲間と同じ。
「では、なぜ」
「マルグリットと同じことを聞くね」
左手を太陽にかざし、その薬指に光る指輪を見つめると悲しそうに目を細めた。その指輪には、王妃様の名前が彫ってあると聞いたことがある。先ほども王妃様のことを思い出しながら、指輪を見つめていたのだろうか。
「彼女にも何故、と聞かれたよ。今度こそ死ぬかもしれない、と」
帰りの船には乗れない可能性は、この遠征に参加している全員が持っている。それは身分に関係ない平等なもの。俺だって、家族に別れを告げてここにいる。
「でも、死を恐れることなど無い。この戦いで死んだ者には、神の国が約束されているのだから。そうだろう?」
「……はい」
難しいことはわからないけれど、異教徒との戦いで死ねば許されるのだと。救われるのだと。それだけが、不安と寂しさを慰められる。恐れることはないのだ、と。それでも、怖いと思うのは俺の信心が足りないからなのか。だって、目の前の国王は、何も恐れていない。我らが敬虔な国王は、主のために死ぬことをいとわない。この人は俺たちとは、違うんだ。
「勝利を諦めたわけではない。そして、我が妻と子どもたちが待つ故郷に帰ることも」
だから、力の限りを尽くそうと笑う国王陛下に自分の汚さを恥じる。俺は、何を考えた。敬虔だから、死を恐れないから、俺たち普通の兵士の気持ちなど理解できないと。この人は、勝って胸を張ってフランスに帰ることを考えているではないか。俺みたいに、死ぬことしか考えていない臆病者ではない。
「……陛下がそうおっしゃるなら、きっと成功いたします」
「そう願う。私達にできるのは、ただ戦うのみ。我らが主のために」
その言葉に頭を下げ、目を強く閉じる。自分の無礼を、許してもらいたくて。その瞬間、ふわりと優しく頭を撫でられた。顔をあげれば、立ち上がった陛下が優しく笑って俺の頭を撫でている。
「不安な時は祈りなさい。恐れがその身を支配するときは、祈りなさい。主は我ら弱き者の嘆きを聞いてくださる」
「はい……っ」
「じゃあ、私はもう行かなければ。皆に怒られてしまうからね」
くすくすと笑いながら、暗い日陰から明るい場所へと歩み出たその人の背中をぼんやりと見送る。死ぬのは、まだ怖いけれど。でもあの人のために戦うのならば、あの人が信ずるもののために戦えるのならば、それはとても幸せなことに思えた。