第2話 転換
まるで水の中で目を開けた時のような視界に、思わず何度も瞬きをする。
けれどその違和感はいつまでも消えることはなく、そこで彼女はふと視界に霞む白い何かを見た。
ほんの一瞬だけ視界の上部をかすめるそれは、往復するように視界の左右を行ったり来たりする。一体なんなのだろうと、指先で捕まえてみればそれはどうやら彼女自身の髪の毛のようであった。
「……?」
視界もそうだが意識もはっきりとしない彼女。漂うように脳裏に浮かぶ疑問があるのだけど、それがなんなのかはっきりとはわからない。空いている方の指を顎に当てたりして考え込み、そこでようやく彼女は浮かんだ疑問の正体を突き止めた。
左右に揺れる白い髪。その髪は掴めば頭皮を引っ張られる感覚がし、確かに彼女の体の一部だ。
だが彼女は知っていた。
自分の髪が白色ではないことを知っていた。
ということは――
「――夢……」
自分のものではない体にぼやけた視界。はっきりとしない意識は、まさしくここが夢の中だというようである。つまり今現在彼女は夢を見ている最中で、偶然そのことを自覚したらしかった。
と、真実に至った彼女はふと周囲を見渡してみる。いままで霞んでいた視界は、自覚したせいか先程よりも鮮明に見えるようになっており、どうやらどこかの建物の中らしい。蠢くように空間を満たす人に、低い天井。恐らくここは駅であろうと、彼女は考えた。
そこで視界は変わり彼女は駅のホームを正面に捉える形になる。ちょうど、電車の到着を待つような立ち位置で、線路と彼女との間には誰かの背中があった。この夢の中ではある程度の自由が利くようで、彼女は順番に並ぶようにその誰かの後ろへと近づく。同時にトンネルの暗闇の向こうから線路を轢く音がやって来て、電車がもうじき到着するらしい。
彼女は誰かの背後に寄り、電車も急速に滑り込んでくる。
彼女は両腕を前に突き出し、そして前に立つ誰かを思い切り突き飛ばした。
直後、ホームに滑り込んでくる電車。周囲に爆音が鳴り響き、圧縮された空気が全身を押す。遅れて激しいブレーキ音と人々の悲鳴が駅構内に満ちた。
「……え、」
一歩後退する彼女。膝が震えて視界がぶれる。この夢の中では現実と変わらず振る舞える彼女だが、だからといってあんな真似をしようとは思わない。人を殺そうなどと思わない。
それに妙に周囲の反応がリアルなのだ。肌で感じる熱気や風圧。耳に届く雑音から人間の悲鳴。そして鼻腔に入り込む鉄の匂い。彼女は自身の頬に指を当て、拭うようにすると改めて指を見る。
赤い、液体がついていた。
頬だけではない、首にも、服にも足にも。飛び散ったなにかが彼女の全身を濡らしていた。擦り合わせるごとに粘性を増し、鉄臭い匂いを放つそれは、
「血だ」
人が弾けて死んだ。
彼女が殺した。
そこで夢は終わった。
「現実が始まる」
彼が目を覚ますと、映るのは見覚えのない天井。
脈付くように鈍痛のする頭を左右に振って、あたりの様子を伺うのだけど、照明の落とされた室内のどこにも見覚えはなく、ここは彼の知らない場所だった。
「――ん、?」
起き上がろうとベッドに片手を付いたところで心臓が激しく鼓動する。胸骨を押し上げる勢いの鼓動に彼は胸に手を当て抑えるように丸くなる。数十秒でなんとか収まり、軽く深呼吸をした彼は床に降り立つと改めて室内を見回した。
ベッド以外には鏡台と小さな箪笥しかなく、しかしどれも装飾に凝っていてとても安いものには見えない。床は木張りの上にカーペットが敷かれており、天井には微かな明かりを灯した照明。それもたくさんの宝石のようなものが埋め込まれており内部でキラキラと光を拡散させている。そこから視界は移動し、壁と天井の境界、四方を囲むようになにやら青いラインが張られており、時折内部を周囲より明るい青色が流れているようだった。
「……?」
見渡す彼は一瞬、見逃してしまったのだが、視界の隅に誰かが立っていた。慌ててその場所を見やると、確かに暗闇に溶けかかっているが、誰かが立ってこちらを見ている。
微かに輪郭だけが浮かび上がったそれは、不気味で、彼はベッドの方へと一歩下がる。しかしそれを追うように黒い誰かも一歩足を出し、そこで照明のもとに姿を現したのは、一人の女性であった。
「おはようございます、お嬢様」
そう言って。
女性は膝を折って小さくお辞儀する。小さいながらも芯のあるよく通る声である。
「あ、お、おはよ……」
そこまで言って気がつく彼だが、この女性はお嬢様と言っていた。お嬢様というのは女性に対して使うもので、男性である彼にかけられるべき言葉ではない。つまりこの言葉は彼に向けられたものではなくて、ただの独り言か、あるいは気がついていないだけでこの部屋にはもうひとり、女性がいるのかもしれない。
彼は慌てて再度室内を見渡す。けれど元々物の少ないこの部屋の中はそう何度も見なくてもどこに何があるのかはわかって、二人以外には人影はない。不審に思って女性を見入るのだけど、その女性も彼のことを不審人物を見るように見ていた。
「あの、どうかなされましたか?」
彼の目を見て、明らかに彼にそう言う。
ということは先ほどの言葉も彼に対してであって、どうやらこの女性は彼のことを女性と勘違いしているようであった。
「あの、俺は男なんですけど…」
そう言う彼を見る女性の目は、さらに不審の色を強めていく。コイツ何言ってんだみたいな顔なのである。
「いや、俺は男で、このとおり胸はないし――」
手を当てた。
真っ平らであるべき自分自身の胸に。
けれど首元から落とすように下ろした手のひらは、しかし何か柔らかなものによって阻まれ、顔を下に向けて見てみれば二つの双丘が彼の胸にあった。
「…………」
表情の消える彼。無言で股を探る。
「ない」
彼の人生が終了した。
そうして女性としての新たな人生が始まる彼であるが、彼は名前を井上良和という。名前だけ見れば男女どちらともとれる名前であるが、彼はれっきとした男性である。
男性だった。
「――そしてここはエレゲス郊外の屋敷です。一応国の所有物となっております」
ベッドに腰掛け空を見つめる良和に女性は説明をしてくれる。正直半分も頭に入っていないが、話の区切りで微かに頷きつつもう半分ではどうしてこうなったという思いが渦巻いていた。
今現在はあれから一晩明けた朝で、あの後良和は少し一人にしてくれと言って女性に退室してもらったのだ。それから朝になるまで体中をくまなく検査したが、結果的に良和が女性になったという事実を固めるだけになった。そして朝になり茫然自失のところ再度女性がやってきて、いつまでもこうしているわけにはいかないと詳しいことを聞き始めたのだ。
女性はアルメルというらしい。
アルメルが言うには、今いるここはエレゲスという国の中で、この建物は国の所有する屋敷。アルメルは良和につけられた世話係ということだった。
要はメイドである。
「……あ、あの、アルメルさん。お、私はどうしてここに?」
思わず俺、と言いかける良和だが、外見上は女性であるし、これ以上不審がられる訳にはいかない。慌てて訂正しつつも一番初めに疑問に思ったことをアルメルに聞いてみた。
「アルメルで構いません。私はお嬢様のご質問にはお答えできません」
「……口止めされてるとか?」
「いえ、私は末端。あくまで世話係なので、詳しい事情は聞かされていないのです」
そう言われれば、彼女はあくまで国に雇われ良和の身の回りの世話をするのが仕事であって、それ以外の必要のない情報は止められているのだろう。別に良和の出自を知らなくても仕事に支障はないのだ。
「……そう……ですか」
声を落とし若干落ち込む良和だが、彼にしてみれば起きてみれば知らない場所で、しかも性別まで変わっているのだ。気が滅入るのも無理はない。
知らない場所ということについては寝ている間に移動させられたとも考えられるが、性別が変わるというのは到底信じられる話ではない。確かに手術によって胸を作り、性器も作り変えることはできるが、それでも良和は一晩かけて体中を調べた。その中で手術痕らしきものは一切、見つけることはできなかったのだ。
そうなると後は意識だけが他人の体に移植されたという可能性だが、そんなことができるとは良和自身考えられない。だが、男女間で脳だけを交換すれば、その場合精神は男、体は女。逆に精神は女で体は男ということになるのだろうか。良和も以前、脳の移植だけなら他の心臓などの移植よりは簡単だと聞いたことがあったのだ。となると手術は頭を開いて行われるわけだが、これは良和ひとりでは調べることはできない。けれど髪の毛は欠けることなく生え揃っているし、頭皮に指を這わせて探ってみても違和感を覚えることはない。どうやら直接的な干渉はなしに、精神だけが移植されたということでほぼ、間違いないようなのだ。
良和は考え込むように下を向き、その時部屋の扉が外からノックされる。
「アルメル」
ノックに続いて女性の声がアルメルを呼び、アルメルは小さくお辞儀をすると部屋から出ていった。
一人室内に残される良和であるが、考え事をするのには返って都合がいい。とはいうものの、アルメルから得られた情報から今の状況を推測するのは困難だった。
「エレゲスって、そんな国あったかな……。地名でなら似たようなところがあったけど」
良和は聞かされた国名を脳内で反芻するが、思い当たる情報はない。聞いたこともない知らない国。変わった性別。明らかに日本ではない人物名と国名。良和が何らかの事情で日本国外に連れ出されたのは確定だった。
「――あるいは」
しかし良和は首を振って浮かんだ可能性を掻き消す。
いくらなんでもありえないのだ。
「ありえないよな……」
誰に言うでもなく、自分自身にそう言い聞かせ、良和は静まらない思いのまま窓の外を見る。
「そういえば」
夜が明けてからまだ一度も良和は外の様子を見ていなかったのだ。気候や周囲の発達度合いからも探れ
ることはあるわけで、良和は窓際まで歩み寄るとガラス越しに外を見る。
そこで気がついたが、ガラスは遠目に見る分には問題ないが、近寄って見ると歪んでいて、ムラがある。厚いところと薄いところがあって外の景色が僅かにぼやけるのだ。
けれど昔に作られたものであるならそれも仕方がなく、良和は改めて外へと視線を向けると、絶句した。
「月か……、いや、あれは」
アルメルの言うとおりここは郊外らしく、視界を遮る人工物は少なかった。点々と古めかしい無人と思われる建物はあるが、問題はその先だった。
地平線の向こうから半分だけ突き出した球体。
それとは別に、西の空に浮かぶ丸い球体。これは恐らく太陽だが、異常に大きな地平線から飛び出すあれは。
「驚かれるのですね」
その時。
良和の背中に声が向けられる。
嫌に汗ばんだ良和は、ぎこちないながらもそこにいるであろうアルメルへと振り向き、その顔を見る。
「どうやら本当のようです」
「――な、なにが?」
アルメルが笑う。
良和は髪が汗で張り付くのを感じ、頬が細かく痙攣するのを覚えた。
「お嬢様が、この世界の方ではないということです」
抜かれたように思考の停止する良和だが、そんな彼を尻目にアルメルは右手を挙げるとパチン、と指を鳴らす。それが合図だったようで、突然扉が開くと暗褐色の服装に身を包んだ数人の人間が室内へと転がり込んできた。
一瞬で現実に引き戻された良和は、反射的に一歩退き、そこで首元に冷たい何かが当てられた。
「歓迎しますよ。これから我が主の元にご招待します」
アルメルはそう言うと嬉しそうに、笑った