春の話《1》
春が来た。
春は木々を青々しく染め上げ、花を美しく飾る。
春は動物達に温もりを与え、躍動させる。
春は告げる。始まりを。
春は与える。高揚を。
ただ、その陽気とは打って変わって、こくりこくりとうたた寝を始める者がいた。
彼は街の商店街の一角に店を持ち暮らしている。恐らく歳は二十代後半、しかし、それとはうらはらに感じさせるその古風な風貌はどこか懐かしく、そして、新鮮味を覚えさせた。一言でゆうならば「不思議な人」まさにそれがぴったりだった。
この風景はそんな彼もひとりの人間である事を感じさせる面白い風景であった。
そんな彼は一体どんな夢を見ているのだろう。自分の願望か、それとも未来か、または昔の思い出か。舟をこいでいた首も徐々に落ち着いていき、やがて、深い眠りへと落ちていった。段々と、段々と。
春の芽吹きもいよいよ盛んになり、熊も目覚めて欠伸一つする頃、やっとあの山の色合いも頃合いになってきた。
今までは下書きだけであったが、今日からは色を付けられる。
私はあの山が一番綺麗に見えるであろう美術室の大窓の前を陣取った。
美術室にはまだ誰も訪れていない。というか、恐らく誰も訪れないだろう。よっぽどの物好きでなければ。
春の展覧会も無事終わり、部員達は今頃、準備期間中の恨みを晴らすべく、羽を伸ばしているだろう。先輩も如何ですか?と言われたが、今日は断った。今日刻み続ける時間の一秒ですら逃したくない。 こんな快晴で夕日が鮮やかに照らし、山が一層映える時など逃したら次はいつ訪れるだろうか。もう、ないのかもしれない。写真機で収めて後程描くことも考えたが、せめてあの山だけでも生で描きたい。時間よ待ってくれ。私からこの一瞬を奪わないでくれ。そんな願いとは裏腹に時間は過ぎていく。
「さあ、描こう。」
そう呟き、私は一式を取り出した。
パレットに絵の具を出し、そばにバケツを用意する。そして、大学の入学祝いに親から貰った筆を取り出す。
まず、パレットに三原色を出す。この三つを如何に上手く扱えるかが、画家の雲泥を決めると美術の先生に言われた。当時の私はあまり納得できなかった。第一、プロは三原色から色を作らない。時間が掛かるし、それに市販の黄緑色やオレンジは決して悪いものではないからだ。
恐らく、先生は言葉よりも裏に隠された「基礎の重要さ」を伝えたかったに違いない。今ならわかる。その気持ちが。先輩になりもう一年と過ぎてしまったせいか、教える側の気持ちがだんだん分かってきた。後輩に技術を教える時、いつも先生の言葉が何となく思い出される。そして、こんな感じか、と思うのだ。
だが、感傷に浸っている場合ではない。時間がないのだ。私は考えることを止め、作業へ戻った。
まず、塗るのは私から見て左手に見える五月の青々しい若葉を思い出されるあの黄緑色の木だ。あれは何という木なのだろう。ここからでは葉の形がよく見えない。銀杏かな、と考えた。が、真実がどうであろうか、などは私には少なくとも、今は関係ない。
私は青色を筆に少し取り、パレットの混ぜ合わせる部分で水に溶かした。そして、筆を脱色させ、今度は黄色を筆で少しとる。そして、青色と混ぜ合わせた。 青色の世界に少しだけ、刺激を与える。黄色が青色に浸食し、世界は変わる。この色の変化はいつ見ても面白い。そして、不思議だ。青色はいつこの色に変わるのだろう。あの色が変わっていく様子を見るのはいつ見ても面白い。私はいつも思う。
だが、これだけでは、まだあの色には及ばない。少し多めに加えたほうがいいな。さらに黄色を混ぜる。今度は黄色が濃くなり、青みが無くなった。ちょうど、青と黄の割合がイーブンになったようだ。綺麗な黄緑色になった。
しかし、これでは意味がない。私が欲しいのはあの若葉色なのだ。この黄緑色は自然というよりは人工という印象を受ける。なんだか機械的だ。今はいらない。
あれに近づくには何を足せばいいだろう。あの葉っぱは黄色の配分がちょっと多いみたいだ。黄色を更に足してみる。すると、どうやらあっていたようだ。あの色に近づいた。もう少しだ。もう少しであの色が手に入る。
次は何を入れようか。黄色を少しかな。更に黄色を入れる。すると、どうだろう。染み込んだ黄色はいい仕事をしてくれたようだ。似ても似つかない、あの若葉色にパレットは染まった。
「よし。」
私は呟いた。いい塩梅だろう。既に筆には若葉色が染みている。私は筆をそっとキャンパスに乗せ、キャンパスが若葉色に染まっていく様を堪能した。紙に色が浸透していく。私は一時の満足感を得た。第一歩と言うところではあるが。さて、次はどこを染めようかな。私はそう思いつつも白の絵の具を探した。
「こんなもんかな。」
私はそう言って筆を置いた。時計をふと見ると、既に二時間近く経過していた。そして、この山を染めていた夕日はもう沈み、辺りは暗くなり始めた。
今日だけでも、しかもあの短い時間で半分近く染め上げた事は我ながらよくやったと思う。しかし、そんな満足感はすぐに消え、悔しさが残った。
今日の様なロケーションがまた訪れるのはいつだろうか。明日か。明後日か。
まず、そんな早くにくるものであろうか。もしかしたら、来年になるかも知れない。今日はそれほどのチャンスだった。残りは頭の中の風景で染め上げるしかないか、それとも次の機会を待つか。どちらを選ぼうか。
とにかく、もう同じものが現れないことに、少し寂しさを覚えた。
「はぁ。」
溜め息が誰もいない教室で一つ響く。後の事を考えても、もう戻らないものは仕方がない。諦めて帰ろう。そう決め、バケツの中を見た。
バケツの中で混ざりあった色達はせめぎ合い、泥水となっていた。いくら鮮やかな色でも、三色も五色も混ざり合えば、汚くなる。これも、色の不思議の一つだなと思った。
私は排水口に流し、画材を洗った。そして、帰宅準備を整えた。
そろそろ、夕飯の時間かな。何にしよう。そんな事を考えながら教室を出ようと電気を消そうとした時、あの絵が目に入った。
絵は教室の中央に置いたままだ。どうせしばらくは誰もここには来ないし、こんなものを欲しがる人間はいないだろうと思い、そのままにしたのだった。
盗まれる事はまずない。未完成だし。ただ、私の心をよぎるのは、この絵が未完成のまま終わってしまうのではないかという不安だ。
モデル、デッサンは問題ない。我ながらと思わせてしまう程だ。しかし、絵の色が気になる。
特にあの山のちょうどてっぺんにある春という季節には不似合いな真っ赤な、真紅と言ってもいいだろう、あの大木の色が上手く作れない。
あの木はいったいなんとゆう名だろうか。ここに来て初めて見た種類の木だった。
地元住まいの先輩や後輩に聞いてみてもその詳細はわからなかった。ただ、わかったのはあの木はもう随分と昔からあるということだった。
後輩の祖父母のお爺さんが小さい頃からあの木はあったらしい。名前は『混血樹』と言い、まつわる伝承もたくさんあるとのことだった。
あまり興味がわかなかったので詳しく覚えていないが、確か平安時代の画家が木の根元で自殺したとか、戦国時代で戦に逃れた落ち武者が腹を切ったとかそんな話だったきがする。その時に流れ出た血を吸い上げ木は赤く染まったとか。
そんな伝承があるが、それは本当にあるのだろうか。血を吸い上げる事は有り得ない事ではないが、花びらにその色がつくというのはいかがなものだろう。
紫陽花は色がついた水を与えるとその色に染まると聞く。しかし、それも一時のもの。水が抜ければ、その色もなくなる。血を吸って染まったとしても、それは紫陽花と同じ結果を迎えるだろう。千年以上、その色に染まる事はない。
花々は季節によって色とりどりに咲く。春には桜。夏には向日葵。秋には椛といったように。その木の花は春には似合わない赤色をして、あの山に顕著に存在している。目障りと思う人もいるだろうが、あの花はそんな事をまるで相手にしないかのように、あの山に立っている。
「あっ、まずい。」
私はそう言って時計を見た。そろそろ見回りの人が来る。この前、残っていたところを見られ怒られた事を思い出した。考えなければならない事はたくさんあるが、今はこっそりと学校から抜け出す事を考えよう。
私はカーテンの隙間から差し込む光に起こされた。日はまだ高くは登っていないが、その光は私を起こすのに十分だった。
さて、起きよう。今日は土曜日。大学は休みである。しかし、サークル活動の関係上校舎のほとんどは入れるようになっている。勿論、私は行くつもりだ。理由は簡単。
今日の天気は快晴。一刻でも早くと言いたいところではあるが、私の絵にはあの夕焼けが必要だ。さて、それまで何をしていようか。とりあえず、服を着替えよう。
商店街は春の活気に満ちていた。あちらこちらで聞こえる人の声。それはたわいのない話が重なり合って、とても五月蝿いもののはずなのだが、不思議と気にはならない。むしろ、心地よい気がする。なぜだろうか。
それは、これが元々私達が置かれる場であるからではないだろうか。商店街という存在は物流の場であると同時に情報交換の場でもあったとは言えないだろうか。
人々の交流の場がこう顕著に見える場所は商店街以外にはなかなかない。私はこうゆうのが好きだ。
今は近年の電子機器の発達によって、リアルに人と話す事は、まあないと言えば嘘だが、回数は確実に減っているだろう。
だからなんだ、と言われたらそれでおしまいだが、リアルの面白さをもっと感じて欲しいと思う。だから、私は最近の電子機器は持っていない。携帯も、パソコンも。友人には不便と言われたが、しょうがない。ああゆうものを持つのは何だか割にあわないのだ。
さて、学校に向かわなければ。そう決めて、近道の公園に入った時だった。私の目に珍しいものが飛び込んできた。キャンパスだ。
そのキャンパスは公園に堂々とそびえ立ち、溶け込んでいた。
そして、それには、見慣れているあの山の絵が描かれていた。
不思議だ。同じ山のはずなのにこんなに違うのか。私とはまた違ったその筆使いは私の心を踊らせた。 絵は山を写実に表しているはずなのに、どこか、なんと言ったらいいのだろう、抽象画のような面白さがあった。
よくよく見ると、山の色が所々違っている。黄色はオレンジに、黄緑色は濃い緑にといったように。
なるほど、こうゆう描き方もあるのか。おもしろい。この描き方なら時間の経過を恐れる必要もなく、自分の頭で描くから、好きな色合いに仕上げ、モデルよりも綺麗なものを作れるかもしれない。私は写実主義であるから、あまりこうゆう描き方は好まないが、この色使いは
「綺麗だ。」
「あの。」
後ろから声がした。驚いて振り返るとそこには、高校生くらいだろうか、女の子がいた、髪はショートカットで身長は女の子にしては低め。そして大きな目がなんといっても印象的だ。そんな目がこちらをじっと見つめていた。
「あ、はい。」
「何か用ですか。」
「ああ、あの、この山の絵はあの山の。」
「はい。そうです。」
「あのですね、僕もあの山の絵を描いていて。」
「そうなんですか。」
「ええ。」
気まずい時間が流れ始めた。この子は怒っているのだろうか。あまり、話題を広げようとしないこの感じ。私は空気に耐えられなくなり、逃げ出した。
「それじゃ、また。」
よほど動転していたのだろう。「また」なんていう言葉を使ってしまった。走り去りながら、自分の言葉に後悔した。
しかし、気のせいだろうか、走る私の後ろから
「ええ、また。」
と聞こえた気がした。空耳なのか、幻聴なのか。それにしてはいやに現実味がある声に聞こえたが。しかし、私のそんな疑問は彼女も同じく動転していたのだろう、という結論が解決した。
時間が過ぎ、夕暮れが街を染めていく。あれから特にやることも思いつかなかったので、私はずっと、この美術室から街を眺め、次の題材を練っていた。
次は夏に都市部で行われる展覧会だ。この展覧会は、いつもの奴とはちょっと違う。いつもは一般の客がほとんどを占めるのだが、これは、都市部の影響もあってか、絵画界では名の知れた人達も訪れる。
玄人たちが、新米の出来を見に来るのだ。もしこの展覧会で気に入られれば、プロの道に一歩近づくと言われている。確か、私の五個上の先輩にこのおかげで、絵画の道に進んだという人がいたらしい。
「プロ」か。好きなことで生きていけるとゆうのは、どんな気持ちなんだろう。私もそこに立ってみたい。そこから見える景色は、何色なんだ。きっと、この夕焼けにも負けないいい色をしているんだろうな。
私はもともと、この学校の文学部へ入るつもりじゃあなかった。本当は美大へ行きたかった。しかし、現実とゆうのは、ひどいもので、でも、あれだけ必死でやったのに、それを認めてもらえなかったことがどんなことより悔しかった。あれだけ、自信があったものが、こうも簡単にポッキリと折られるとは。しかし、だからといって、道がなくなったわけではない。だから、この大学へ来たのだ。この美術部へ来たのだ。そして、あと勝負は2回しか残っていない。これに賭けよう。そう思い、バケツを持って、水道へ向かった。
なみなみに水を入れ、教室へ戻ったとき、私の目に信じられない光景が入ってきた。
女の子が一人、私の絵の前に座っていた。そして、あの女の子は、間違いなく公園で出会った子であった。黒髪のロングヘア。透き通ったガラスのような雰囲気。間違いなかった。なぜここに。何のために。
すると、少女も私の存在に気づいたようだ。こっちを振り向き。ニコリと笑った。その笑顔は独特の雰囲気の彼女には不似合いだった。が、それは決して不釣り合いではなかった。私の心の中で、キュッと音が鳴る。
「この絵は―。」
「私が書きました。」
彼女はキョトンとした顔をした。それはそうだ。
「やっぱり、そうですよね。」
彼女は私の絵を眺め、まだ、赤く染まっていないあの木の部分を軽く指先で触った。
「ここ、やっぱり染めてないんですね。」
「はい。」
「なんででしょうね。あの木の赤色は普通に染めちゃいけない気がするんですよね。」
「・・・。」
私は何も言えなかった。別に返答に困ったわけではない。夕日に照らされた教室の中にいる彼女。この絵を壊せなかったのだ。言葉を掛けてしまったら、いけないような気がしたのだ。
「あの木、なんであんなに赤いんですかね。」
「・・・。」
「私と探しに行きませんか。」
「えっ。」
私は予想だにしない言葉につい声を漏らした。
「あの山がなんで、あんな色に染まってしまったのか。私とその答、見つけに行きませんか。」
これが、始まりだった。絵を書く事に一生懸命だった私が、何かもう一歩踏み出せた瞬間だった。
私はハッとした。いけない。つい眠ってしまったようだ。時計は寝ぼけ眼で見ると15時を指していた。 私はふと今だに見えるあの山を窓から見た。山はあい変わらず色とりどりに染まり、私を楽しませてくれていたが、あの真っ赤な血のような赤い木はもうない。そうか、あれからもう十年近く経ったのだなあ。しみじみと感じてしまう。
年をとってしまったな、そう思いながら、私は店の整理を始めようと思い立ち上がった。
ここには、いろんなものが置いてある。いわゆる雑貨屋とゆうやつだ。私は絵かきの道を断念し、ここで小さな店をやっている。
別に断念といっても、未練があるわけじゃない。私の中でちゃんと考えて決めたことだ。後悔も今はない。今は絵以外の生きがいもあるし。
さてと、店先の掃除でもしようかな。そう思い、箒を手に取りドアへ向かった時だった。
「チリンチリン。」
ドアが開く音がした。そしてそこに現れたのは一人の女子高生。よほど、急いでいたのだろうか、この季節にはまだ早いが汗をかき、そして息を切らしていた。
ああ、またか、と私は思った。先週にもおんなじ光景を見た。そして、こうゆうのだ
「事件です。陽介さん。」
さあ、仕事だ。
ありがとうございました。
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