その手を離して
「空弥!」
湊がまだ登校してこない時間帯、俺は一人で保健室にいた。
今日も相変わらずの曇天、午後からは雨が降るらしい。
雨が続く日はそろそろ終わり、もうすぐ本格的な夏になるだろう。
そんなことを考えながら外を眺めていると、保健室のドアが勢いよく開き涼香さんがやってきた。
「うお……そんなに慌ててどうしたんだ……?」
息を切らす涼香さんに俺は尋ねた。
相当必死に走ってきたらしく、息がかなり切れている。屈んで俯き、呼吸を整えながら涼香さんは言った。
「空弥……アンタに聞きたいことがある」
「……?」
「アンタ……『彼方』へ行こうなんて考えてるんじゃないでしょうね!?」
「な……何を言ってるんだよ。そんなわけないだろ?」
予想しなかった質問に俺は思わずドキッとする。
どうして急にそんなことを聞くのだろう。
「……今日、『予知夢』を見たのよ」
「は、はぁ……?」
「私の家の先祖、御神家の女性は代々巫女であること……知ってるわよね?」
「あ、あぁ」
以前聞いたことがある。
御神の家の女性は巫女であり、神に仕えていたと。
「それで……時々直感的にこういう夢を見るの。巫女としての血は私にも流れてるから……それで、今日その類の夢を見たのよ……空弥が……」
そこまで言って涼香さんは言葉をつまらせる。
言いたいことは大体分かっていた。俺が『彼方』へ行く夢を見て、ここへ急いで来たということか。
俺はあの日湊と公園で話した後、ふと思った。それはとても簡単な答えだった。
――姉ちゃんが『彼方』にいるのならば、『彼方』に行けばいい。
本来なら誰にも言わずに行こう、そう思っていた。その矢先、涼香さんは俺の下へ来た。正直心が揺らいでしまった。
俺を心配して来てくれた涼香さんの顔が、どうしようもなく不安そうに見えた。
「……大丈夫だ、涼香さん。俺は別にそんなこと思ってない……」
少なくとも今は、まだ行こうとは思わない。まだそんな覚悟を持ててないだろうから。
俺はそう思いつつも涼香さんをなだめる。
涼香さんは本気で俺のことを心配してくれている。尚更『彼方』へ行く決断が出来なくなりそうだ。
「……空弥……今はまだ……なんて思ってない?」
「え……」
俺は不意の質問に間の抜けた声を漏らす。
その質問を肯定することは出来ても否定することは出来ない。たとえ嘘を吐いたとしても見透かされてしまうだろう、そう思ったから。
「……やっぱり、そうなのね……空弥」
「え……っと」
「隠さないで」
涼香さんの口調が変わる。
中途半端な答えは許されないようなその言い方に俺は思わず言葉を失う。
「分かってるから……いや、分かっちゃうのよ……空弥の考えてることが」
涼香さんはしばらくして、小さく呟く。
「……ごめん」
口から出たのは謝罪だった。
「どうして……? どうして空弥まで……」
涼香さんは姉ちゃんの親友であり、姉ちゃんを失った一人だ。
そしてその弟である俺に対しては、まるで姉ちゃんのように暖かく接してくれた。
「姉ちゃんは……姉ちゃんは『彼方』にいる……神様が……リコがそう言っていたんだ」
俺は数日前に知ったことを、途切れ途切れになりながらも言った。
「……神様……あの子はまだ、この街にいたのね……」
涼香さんはリコのことを知っているようだ。
それ故に驚きも疑いもしなかった。
「涼香さん。きっと『彼方』に行けば姉ちゃんに会えるんだ……だから」
「馬鹿……空弥、アンタは大馬鹿よ……それでもしも戻って来れなくなったらどうするの……?」
涼香さんの声が震える。
戻って来れなくなったら、か。確かに戻って来れなくなる可能性が高いだろう。湊が帰還出来たのは奇跡に近いらしいから。
でも、もしも姉ちゃんと再会出来たなら……戻れなくてもいいかもしれない。
そう考えた時だった。
「っ……馬鹿!」
――パァン。
小気味のよい音が響いた。
頬がじんわりと痛む。涼香さんの平手打ちを受けたことを理解するのに、少しばかりの時間がかかる。
「な……何をっ……」
「どうしてそんなこと考えるのよ……!」
どうやら今の考えも伝わってしまったらしい。
そう思うと同時に、俺は気づく。
「……涼香さん? ……泣いてるのか?」
涼香さんの瞳から雫がぼろぼろと零れる。今まで見せたことのない姿に俺は戸惑う。泣き声を上げるような泣き方ではなく、ただ静かに涙を流す。その姿には心が痛んだ。
涼香さんは震える手で俺の胸倉を掴み静かに言った。
「アンタは……自分がどれだけ人に迷惑をかけることをしようとしているか……分かっていない」
「……」
「アンタがいなくなったら悲しむ人はいる……あなたを育ててくれたお爺さんやお婆さん……それに私だって……例外じゃない」
「爺ちゃんと婆ちゃんが……」
確かに、俺がいなくなったらきっと二人は悲しんでくれるだろう。それに俺にとって二人は、いなくなってしまった姉の分まで愛情を注いでくれた愛すべき両親でもある。そんな二人を悲しませることは出来ない。
でも、もしかしたら帰ってこれるかもしれない。姉ちゃんと一緒に。
「それとね、空弥……アンタはまだ分かっていない……アンタがいなくなって一番悲しむのは--」
その時だった。
ザッ--足音が聞こえた。
足音の先。そこには湊が立っていた。驚きを隠せない表情、その表情は次第に悲しみへと変わっていく。
「空弥さん……今の話……」
「湊……これは……」
「どうしてですか」
「え……?」
「どうして空弥さんはそんなこと考えるんですか? 最近上の空だったのは……そんなことを考えていたからですか?」
「……」
違う、とは言い切れなかった。
確かに俺の気持ちは『彼方』に向けられていた。そのことは自覚出来る。
「空弥さん、おかしいですよ……お姉さんのことが大事なのは伝わってきます……でも……今この世界にいない人間に心を囚われるなんておかしいですよ……! 少なくとも少し前までの空弥さんは違った……! お姉さんが『彼方』にいるって分かったからそんなこと考えるんですか……!? もしかしたらもう戻って来れないかもしれないのに。それに、周りの人を悲しませることになるのに……」
湊、何を言っているんだ。お前なら分かってくれるだろう。俺の話を聞いて涙を流してくれたお前なら。
「空弥さんは大馬鹿ですよ! 何も分からない未知の世界にそんな甘い考えで行こうとするなんて!」
甘い? 姉ちゃんに純粋に会いたい、もう一度あの日を取り戻したい。そう思うことは甘いのか?
「絶対にそんなのは間違ってる……」
「お前は……何も分かってない……」
「え……?」
「俺にとって姉ちゃんは何よりも大切な存在だ! そんな姉ちゃんを取り戻したいと思うことの何が間違ってるんだ!」
「っ……」
俺は気づいたら怒鳴っていた。湊は怯んでしまう。そして怯えた目でこちらを見た。
やめろ……そんな目をしないでくれ……今まで、湊はそんな目をしなかった。俺を怯えた目で見る他の奴とは違った。それじゃまるで、今までと変わらないじゃないか。俺は湊と出会って少し変われたのに、逆戻りしてしまうじゃないか。
「姉ちゃんを失ったこの気持ちはお前や涼香さんには分からない! 両親が死んでから、俺にとって一番大事な人だったんだ! そんな姉ちゃんを失った気持ちが分かるっていうのか!?」
「空弥……さん……」
「あーあ……そうだな。最初から俺は『彼方』に行けば解決してたんだ……姉ちゃんに会えればもうこんな世界--どうだっていいんだ」
何言ってんだ、俺。辞めろ。そんなことを言っちゃ駄目だ。
そう思っていても、口から出てくる言葉を止めることは出来なかった。
「……ッ!」
湊は踵を返し走り出した。そしてみるみる俺から離れていってしまう。
「湊! ……っ」
涼香さんは湊の後を追おうとする。最後に一瞬だけ俺を見て、涼香さんも俺から離れていった。
涼香さんの俺を見るその目に篭っていたのは、寂しさや悲しさだったと思う。
もしかしたら、これでいいのかもしれない。
悲しむ人は少ない方がいいんだ。傷つけることになったとしても、二人との関わりを断ち切れば二人は悲しまないでくれるだろう。これで、俺は決心出来る。
俺を引き止めるために差し出してくれた二人の手を離してしまえば、もう迷うことはないんだ。
そう思っているのに、俺は今置手紙を書いている。
何を期待しているかなんて答えるまでも無い。
置手紙にはただ一言だけ。『彼方へ行ってきます』とだけ書いた。
「爺ちゃん、婆ちゃん、ごめん」
俺は最後に、今まで俺達を親代わりとして育ててくれた二人に謝る。
そしてもう一度自分に言い聞かせる。これでいいんだ。
もうどこへ行って何をするかは決まった。
さぁ、行こう。
俺は今まで世話になった保健室を出て、少しずつ走り出す。『彼方』へ行くという、決心をして。
結構山場になってきたのかな?
やっぱり当事者と傍観者の間には見解の相違が生じるものですね。




