小雨ソナタ
窓から窓へ通り過ぎた風に、雨の未練がましい残り香を感じた。
私がたった一人で暮らすようになって、初めての雨だった。春なのに、まるで梅雨のようにいつまでも長く降り止まないその雨は、街を濡らしては私に誇るようにして、水溜りの跳ねる音を響かせていた。
雨空の間には、窓を閉じる。そうすれば、私は安物の薄暗い電球の灯かりの下、部屋の大部分を占めているピアノで、手書きの見慣れた楽譜をなぞる事ができるのだ。雨の音は、都会のアパートの一室で鳴らすにはうるさすぎる音色を、掻き消してくれる。
つい一週間前には、この部屋の住人は二人だった。片付けにくくてそのままになってしまった彼のティーシャツは窓辺に突き出た釘に掛かったままで、彼との半年ほどの日々の終焉を、昨日の事のように思い出させる。憎たらしいけれどシャツを外せないのは、その光景こそが、二つここに残る彼のいた証拠の一つだからだ。
もう一つの証拠は、ピアノの上に二枚だけ。二人で作った、たった三十二小節だけの恋の歌を記した楽譜が、雨の日に奏でられる時には、私は彼とのやり取りを思い出すことができる。
彼について、もう何も思い残す事はない。お互いに求め合って一緒になり、そして嫌い合って離れたのだ。だから、私がシャツをいつまでもそのままにしているのは、滑稽な事には違いない。別れた二人の恋の歌を今でも弾いているなんて、皮肉な話でしかない。ただ、彼と違う誰かと、かつての彼としたように、共にピアノを弾けたなら、どれほど良いだろうかと思ってしまうだけなのだ。そんな事、起こりはしないのに。
ふと、未練がましいのは私だと、気付いた。