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歴史人物ノベル-フランス革命編  作者: Miris
カロンヌ

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第1話 笑う財務総監 - カロンヌ

 1783年11月、ヴェルサイユ宮殿の鏡に囲まれた廊下で、私は財務総監になる返事を待っていた。


 朝の光は金色の装飾に跳ね、絹の衣擦れと香水の匂いが、赤字という言葉を遠ざけているようだった。私、シャルル=アレクサンドル・ド・カロンヌは、その豪奢な廊下の真ん中で、いつもどおり笑っていた。


 笑っていなければ、誰かが不安になる。


 不安は高くつく。


 銀行家も商人も貴族も、金を貸す前に相手の顔を見る。顔が青ければ条件は渋くなる。声が震えれば利息は上がる。王国の財布を預かる者が暗い顔をしていれば、それだけでパリの金は逃げ足を速める。


 だから私は笑った。


 もちろん、楽しいからではない。


「カロンヌ殿」


 侍従が私を呼んだ。


「陛下がお会いになります」


「ありがたい。では、王国の金庫に挨拶をしてまいりましょう」


 軽く返すと、侍従は困ったように口元を動かした。笑っていいのか、真面目な顔をすべきなのか迷ったのだろう。宮廷では、相手の冗談が冗談なのか探るだけで一仕事になる。


 私は帽子を整え、扉の中へ進んだ。


 部屋の奥に、ルイ16世陛下がいた。


 若い王は、大きな体に似合わず、慎重な目をしていた。怒鳴る王ではない。命令で人を押し潰す王でもない。むしろ、自分の言葉が誰かを傷つけることを恐れているような目だった。


 王としては優しい。


 財政危機の前では、少し優しすぎる。


「カロンヌ」


「はい、陛下」


「そなたは、王国の財務を立て直せるか」


 まっすぐな問いだった。


 私は一礼しながら、頭の中で数字を並べた。アメリカの独立戦争への支援で膨らんだ借金。古い税制。特権身分の免除。地方ごとに違う徴収。支出を削れば恨まれ、税を増やせば叫ばれ、借りれば未来が重くなる。


 立て直せるか。


 正直に言えば、分からない。


 だが、ここで分からないと言う男に、誰が王国の財布を預けるのか。


 私は顔を上げた。


「立て直すために、まず王国を歩かせます」


 陛下の眉が動いた。


「歩かせる?」


「はい。倒れた者に節約を命じても、立ち上がる力がなければ意味がありません。信用を保ち、流れを戻し、必要なところには金を動かす。止血と同時に、血も巡らせます」


 壁際の者たちが、かすかに身じろぎした。


 彼らには、私の言葉が危うく聞こえただろう。節約ではなく、金を動かす。赤字を抱えた王国で、そんなことを言う財務総監は、火事場で窓を磨く男に見えるかもしれない。


 だが、火事場で真っ先に叫べば、逃げる者に踏み潰される。


 私は知っていた。


 信用とは、火そのものより早く燃え広がる。


 陛下はしばらく黙ってから、低く言った。


「任せる」


「必ず、できる限りのことを」


「できる限りでは足りぬかもしれない」


 その言葉は、王自身を刺しているように聞こえた。


 私は一瞬だけ、冗談を飲み込んだ。ここで軽く返すには、王の顔があまりにも真面目だった。


 だから、私は短く答えた。


「では、足りるところまで持っていきます」


 陛下はうなずいた。


 こうして私は、王国の財務総監になった。


 扉の外へ出ると、廊下の金飾りはさっきと同じように輝いていた。何も変わっていない。宮廷の誰も、今この瞬間に国庫の底が深くなったわけではないと知っている。


 だが、私だけは知っていた。


 金色の廊下の下には、冷たい穴がある。


 私はその穴を、笑いながら覗き込む役目を引き受けたのだ。


 ******


 同じ日の午後、王国財務局の部屋で、私は帳簿の束を前にしていた。


 ヴェルサイユの廊下と違い、ここには金色の光が少ない。窓から入る冬の明るさは薄く、机に積まれた紙の端を青白く照らしていた。蝋の匂い、古い革表紙、乾いたインク。華やかな音楽も、香水も、遠い笑い声もない。


 あるのは数字だけだ。


 そして数字は、笑ってくれない。


「こちらが通常支出でございます」


 役人が一冊を開いた。


「こちらが借入の一覧」


 もう一冊。


「こちらが、先の戦争に関わる支払い」


 三冊目。


「こちらが、まだ精査中の」


「精査中」


 私はその言葉を繰り返した。


 役人の喉が小さく動く。


 便利な言葉だ。精査中。未整理。確認待ち。どれも、机の上で礼儀正しく座っているが、椅子の下には刃物を隠している。


「数字を怖がる必要はありませんよ」


 私は笑って言った。


 役人は少しだけほっとした顔をした。


 それでいい。


 相手が安心したところで、私は紙を一枚引き寄せた。


「怖がるべきなのは、数字を知らないまま安心することです」


 役人の顔から、安心が半分消えた。


 私はペンを取った。


 収入、支出、借入、利息、償還期限。欄を作り、線を引き、紙の中に王国を押し込んでいく。帳簿は正直だ。だが、正直であることと、分かりやすいことは違う。王国の財政は、長年かけて複雑に絡み合った糸のようだった。引けば別のところが締まり、切れば隠れていた結び目が顔を出す。


 節約だけで済むなら、誰かがもうやっている。


 新しい税だけで済むなら、誰かがもう叫んでいる。


 問題は、どちらも必要で、どちらも嫌われるということだ。


「カロンヌ閣下」


 年配の役人が、慎重な声で呼んだ。


「前任者たちは、支出の削減を試みられました」


「でしょうね」


「宮廷の反発は強く」


「でしょうね」


「借入も、これ以上は」


「難しい?」


「はい」


 私は椅子の背にもたれた。


 難しい。


 またその言葉だ。


 王国財政の部屋に入ってから、何度聞いただろう。難しい。慣習がある。権利がある。身分がある。地方ごとの事情がある。教会の事情がある。高等法院が黙っていない。貴族が黙っていない。民衆が黙っていない。


 誰もが黙らない。


 それなのに、国庫の穴だけは黙って広がっていく。


「では、逆にしましょう」


 私が言うと、役人たちが顔を上げた。


「逆、でございますか」


「ええ。王国が貧しい顔をしているから、貸し手は疑う。疑うから利息は重くなる。重くなるから、さらに貧しい顔になる。実に行儀の悪い輪です」


「では、どうなさるおつもりで」


「王国に、立っている姿を見せます」


 部屋が静かになった。


 私は机の上の数字を指で叩いた。


「信用を回復する。支払いは滞らせない。必要な支出は削りすぎない。商人にも、金融家にも、宮廷にも、フランス王国はまだ倒れていないと見せる」


「それは、支出を続けるということでしょうか」


「必要な支出は、です」


「しかし、赤字が」


「赤字を隠すつもりはありません」


 私は笑みを薄くした。


「ただ、赤字の前で泣くつもりもありません」


 役人たちは黙った。


 彼らの沈黙には、疑いと安堵が混ざっていた。財務局の人間は、暗い顔の大臣に慣れている。節約を命じ、削減を迫り、結局どこかの廊下で押し戻される大臣たちだ。私が同じ道を歩かないと言えば、無謀に見える。だが、同時に少しだけ期待もしてしまう。


 私はその期待の重さを、机の紙束より先に感じた。


 期待もまた、借金に似ている。


 返せなければ、利息をつけて怒りに変わる。


 ******


 数日後、ヴェルサイユ宮殿の晩餐会で、私は笑顔のまま赤字の話をしていた。


 銀の皿には、丁寧に焼かれた肉が置かれている。白い布、磨かれた燭台、香辛料の匂い。楽士の音が遠くで流れ、婦人たちの扇が小さな風を作っていた。ここに座っていると、王国が破綻の縁にあるなど悪い冗談に聞こえる。


 だからこそ、悪い冗談にしなければならない。


「カロンヌ殿は、国庫の穴にも花を飾りそうだ」


 向かいの貴族が、葡萄酒の杯を掲げながら言った。


「穴のままにしておくよりは、美しいでしょう」


 私が返すと、周囲に小さな笑いが起きた。


 笑いは便利だ。


 相手の警戒を少しほどく。こちらの言葉を、刃ではなく飾り紐に見せる。だが、飾り紐でも首にかかれば締まる。


「ですが、閣下」


 別の男が口を挟んだ。法服貴族の血を引く者だった。笑ってはいるが、目は笑っていない。


「国庫の穴を埋めるために、われわれの懐へ手を伸ばすおつもりではありますまいな」


 空気が少しだけ冷えた。


 まだ早い。


 私はそう思った。


 いずれ、その話をしなければならない。土地に税をかけるなら、特権身分も逃げられない。教会も貴族も、王国の保護を受けている以上、王国の重さを分け合うべきだ。


 だが、今ここで言えば、ただの火花になる。


 火をつける場所は選ばなければならない。


「ご安心ください」


 私は杯を軽く持ち上げた。


「まずは、皆さまの懐が王国とともに沈まぬよう、国庫のほうを泳がせます」


「泳がせる?」


「ええ。溺れた者は、周りの者までつかんで沈みますから」


 今度の笑いは、少し遅れて起きた。


 相手の男は、杯を口元へ運びながら私を見ていた。値踏みする目だ。軽薄な男か。危険な男か。自分たちに害をなす男か。


 好きに見ればいい。


 私は肉を一口切り分けた。


 香ばしい匂いが立つ。皿の上のソースは濃く、絹の袖は白く、会話は優雅だった。だが、私の頭の片隅では、財務局の冷たい数字がずっと音を立てている。


 燭台一本の蝋、銀器一式の磨き直し、衣装の刺繍、馬車の車輪、軍への支払い、利息、利息、また利息。


 王国は、美しい。


 美しすぎるほどに、高い。


 晩餐の後、廊下へ出ると、一人の若い役人が足早に近づいてきた。


「閣下、パリの金融家たちから返答が」


「早いですね」


「条件は、悪くありません」


 私は足を止めた。


 悪くない。


 それは、まだ信用が残っているということだ。王国の名、私の就任、宮廷の表情、支払いの約束。それらが束になって、ひとまず金を呼び戻している。


 ひとまず。


 私はその言葉を心の中で繰り返した。


 ひとまずは、王国を歩かせられる。


 だが、歩くことと治ることは違う。


 ******


 1784年の初め、私はパリの自邸で、夜明け前の机に向かっていた。


 窓の外はまだ暗く、街の音も薄い。机の上には、ヴェルサイユから持ち帰った書類と、金融家たちからの返答、地方の報告、そして私自身が書きつけた改革の断片が並んでいた。暖炉の火は弱く、紙の端が冷えている。


 昼の私は笑う。


 宮廷では、華やかに冗談を返す。金融家には、王国の信用を語る。役人には、まだ倒れていないと言う。貴族には、彼らの恐れを直接刺さないように言葉を選ぶ。


 だが夜明け前の紙は、私に遠慮しない。


 借りた金はいずれ返す。支出を続ければ穴は塞がらない。信用は時間を買うが、時間そのものは返済を待ってくれない。


 私は一枚の紙に、短く書いた。


 土地。


 その下に線を引く。


 王国の富は、土地にある。穀物、葡萄畑、森、領地、教会の所有地、貴族の所領。税を逃れる者が多い場所に、富も多い。ならば、いずれそこへ触れなければならない。


 触れれば、叫ばれる。


 分かっている。


 古い権利は、ただの数字ではない。家名であり、誇りであり、祖先から受け継いだ椅子だ。彼らにとって免税は財布の話ではなく、自分たちが何者であるかの証でもある。


 だからこそ、いきなり切れば、刃がこちらへ返ってくる。


 私はペンを置き、指で眉間を押さえた。


 笑っていれば軽い男に見られる。


 支出を続ければ浪費家に見られる。


 借入を進めれば先送りに見られる。


 そして、いざ改革を出せば、今度は乱暴者に見られるだろう。


 実に面白い。


 どの道を選んでも嫌われるなら、せめていちばん大きく動く道を選ぶべきだ。


 私は椅子から立ち上がり、窓の鎧戸を少し開けた。冷たい朝の空気が入ってくる。遠くで荷車の音がした。パン屋の煙が上がり始め、パリがゆっくり目を覚ます。


 この街の人々は、宮廷の晩餐など知らない。だが、税の重さは知っている。塩の値段も、パンの値段も、徴収人の靴音も知っている。


 彼らの上にだけ重さを積み続ければ、いつか床が抜ける。


 その時、ヴェルサイユの金飾りも一緒に落ちる。


 私は机へ戻った。


 紙の上には、まだ短い言葉しかない。


 土地。信用。地方。税。特権。


 どれも、今はただの断片だ。けれど、断片は組み上げれば刃になる。王国を切り開く刃にも、私の首を落とす刃にもなる。


 私は笑った。


 夜明け前の部屋には、誰もいない。だから、その笑いは宮廷用の仮面ではなかった。


 怖いから笑ったのだ。


 怖いから、前へ進む。


 赤字を隠す布より、赤字を切る刃を用意すべきです。


 いつか誰かの前で、そう言う日が来るかもしれない。


 その時、彼らは私を救国の財務総監と呼ぶだろうか。


 それとも、王国を賭け台に乗せた軽薄な男と呼ぶだろうか。


 答えはまだ、朝の暗さの中にあった。


 ただ一つだけ、はっきりしている。


 王国は歩き出した。


 私の笑顔を杖にして。


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