第11話 ヴェルサイユを去る日
1789年10月5日、わたしはプチ・トリアノンで、パリから人々が来るという知らせを聞いた。
雨の気配があった。庭の緑は湿り、空は低く、風はいつもより冷たい。わたしは最初、その知らせの輪郭を掴めなかった。女たちが歩いてくる。パンを求めている。怒っている。武器を持つ者もいる。パリからヴェルサイユへ。
パリは遠い場所ではなくなっていた。
怒りは、馬車より速く届く。
「宮殿へお戻りください」
そう言われて、わたしは頷いた。
プチ・トリアノンはわたしの息ができる場所だった。けれど、その日ばかりは逃げ場ではなかった。王妃がいるべき場所は、家族のそばだ。王のそばだ。子どもたちのそばだ。
馬車の中で、わたしは窓の外を見た。
庭はいつもどおり美しい。
それが、かえって怖かった。
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10月5日の夕方、ヴェルサイユ宮殿で、わたしたちは外の声を待つしかなかった。
雨に濡れた人々が門の向こうにいる。パンを求める声、王に会わせろという声、王妃への怒り。宮殿の中では、誰もが動いているのに、どこか動けない。命令が飛び、扉が閉められ、兵が配置される。けれど、本当に何を防げるのかは分からなかった。
ルイは対応に追われていた。
わたしは子どもたちのことを考えていた。
「パリへ行くことになるのでしょうか」
誰かが囁いた。
その言葉に、胸が沈んだ。
パリ。
そこは国の中心であり、今は怒りの中心でもある。ヴェルサイユは檻だった。けれどパリは、もっと多くの目がある場所だ。王家が民の中へ行く。それは和解の形にも見える。けれど、監視の形にもなる。
窓を叩く雨音が強くなった。
外の声は、雨に消えなかった。
むしろ、濡れた怒りはさらに重く宮殿へ貼りついていた。
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10月5日の夜、ヴェルサイユ宮殿は眠れない建物になった。
外には人々の声がある。雨に濡れた衣服、泥のついた靴、怒りと疲れと空腹の混じった叫び。宮廷のざわめきとは違う。扇の陰で囁く声ではない。隠す気のない声だ。
わたしは子どもたちの部屋へ向かった。
マリー=テレーズの顔は硬く、ルイ=シャルルはまだ事態を完全には分かっていない。小さな手がわたしの袖を握る。その感触だけで、胸の奥が鋭く痛んだ。
「母上、怖いのですか」
娘が聞いた。
わたしはすぐには答えなかった。
怖い。
もちろん怖い。
でも、母が怖いと言えば、子どもの足元が崩れる。
「怖い時ほど、姿勢を崩さないの」
そう言って、わたしは娘の髪に触れた。
それは母から教えられた言葉だった。好きではない。けれど、今はそれしか渡せるものがなかった。
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10月6日の明け方、ヴェルサイユ宮殿の中へ叫び声が入り込んだ。
それまで外にあったはずの怒りが、突然廊下の中にいた。足音、金属音、扉を叩く音。誰かが走る。誰かが叫ぶ。わたしの部屋へ向かってくる声がある。
「王妃を」
その言葉の先は、聞きたくなかった。
わたしは寝室から逃げた。
恥も作法もなかった。王妃の歩き方など忘れた。ただ子どもたちの方へ走る。足元の布が絡み、心臓が痛いほど打つ。あの子たちを守らなければならない。王妃としてではなく、母として。
間に合ったかどうか、その瞬間の記憶は断片になっている。
人の声。
扉。
血の匂い。
兵士の顔。
子どもの手。
ヴェルサイユは、もう絶対の宮殿ではなかった。人々は入ってきた。怒りは扉を越えた。王妃の寝室にまで届いた。
その時、わたしは理解した。
檻は、守ってくれる壁でもあったのだ。
そしてその壁は、もう破られていた。
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10月6日、わたしはバルコニーで群衆の前に立った。
下には人がいる。数えきれないほどの顔。怒り、好奇心、疲れ、勝利の熱。わたしを憎む者もいた。見たいだけの者もいた。何を待っているのか分からない者もいた。
子どもたちと一緒に出るよう言われた。
けれど、群衆は子どもを下げるよう求めた。
わたしは一人で立った。
足が震えなかったと言えば嘘になる。けれど、震えを見せるわけにはいかなかった。わたしは頭を下げた。深く、静かに。王妃として。母として。ひとりの女として。
下の声が揺れた。
その一瞬、わたしは生きていた。
赦されたのではない。
ただ、まだ終わっていないだけだ。
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同じ日、王家はヴェルサイユを離れてパリへ向かった。
馬車は遅く進んだ。周りには群衆がいる。パンを求めた人々、武器を持つ者、勝利に酔う者、ただ流れにいる者。その中で、わたしたちは運ばれていく。かつてわたしはウィーンからフランスへ渡された。今度は、ヴェルサイユからパリへ移される。
窓の外で、宮殿が遠ざかる。
あれほど息苦しかった場所なのに、離れるとなると胸が痛んだ。ヴェルサイユは檻だった。けれど、わたしがフランスで王妃として立ってきた場所でもあった。その檻を失うことは、自由になることではなかった。
パリへ行く。
民の中へ。
監視の中へ。
新しい鳥籠の中へ。
わたしは子どもたちを見た。ルイは黙っている。夫の横顔は疲れ、重く、遠い。
宮殿を失った王妃は、まだ王妃でいられるのだろうか。
答えは、パリの先にしかなかった。




