校正者のざれごと――新しい風の吹く季節
私は、フリーランスの校正者をしている。
いまは、保育士試験の過去問題集の校正を担当している。いままでも何度か担当しているが、今回はいつもとちょっと違う。最近校正を始めたという若い女性スタッフと共同作業することになったのだ。彼女は元保育士。異色の経歴だ。校正については勉強を始めたばかり。でも保育に関する内容については経験豊富なので、書面上の内容しか知らない私にとっては新しい発見があるかもしれない。過去3回分の問題のうち、私が2回分、彼女は1回分をそれぞれ担当する。
厚生労働省が作成している「保育所保育指針」というのがある。保育の理念や方法等についてまとめたもので、保育士過去問の校正では必ずこれと解説を照合する作業が必要になる。彼女も前職のころからこれを持っていて、その内容には精通しているという。
「小山さん、これってどう思いますか?」
校正プロダクションの事務所で会ったとき、彼女に質問を受けた。保育所保育指針を用いた解説部分に疑問があるという。「乳児に関わるねらい及び内容」についての問題で、答えは×。解説には、「これは乳児ではなく3歳未満児についての説明なので×」とある。
「でも、この部分の解説って3歳未満児と3歳以上児の2つの区分しかないんです。その場合、乳児も3歳未満児に含まれますよね」
確かにそうだ。指針のほかのページにも、該当するような記述はないという。これは解説のほうを直す必要があるだろう。さすがに、よく読みこんでいる。
「でもこれ、どうやって指摘したらいいですか?」
疑問の出し方が難しい。相手にどう伝えたらいいか。「こんなふうに書いてみたらどうですか」とアイデアを出して話し合い、わかりやすくまとめていく。
この本の解説は明朝体で書かれているが、覚えてほしい重要語句はゴシック体で太字になっている。「第一種社会福祉事業」という言葉が太字になっていたのだが、なぜか「第」の字だけが明朝体で並字(太くしていない字)だった。明らかなミスだ。
「こういうのって、どう書いたらいいですか?」
彼女は校正記号はまだ勉強中。
「私が指摘するときはいつも『太字、ゴチに』と書くのですが……この本の編プロの人はよく『太字G』って書いていますね.Gは丸で囲んで」
すると、後ろにいた別のスタッフがおもむろに参戦してきた。
「僕なら、太字にする指示は、『ボールド』にしますね」
校正記号の書き方もいろいろあり、出版社によっても違っていることがある。ここで、いつも校正のバイブルとして使っている『校正必携(第8版)』を確認する。「ボールド」という指示の入れ方は横組みの英文の例しか載っていなかった。日本語を太字にする指示についてはとくに記載はない。太字を並字にするときは「ナミ」を使い、これは日本語も英文も同じ。そこで、ネットで校正記号について調べてみる。太字にする指示は、日本語でも波線をひくか「ボールド」「bold」と書くとされているものもある。編集者側と校正者の間で意思疎通ができればいい、という考え方もある。校正を始めたばかりの頃は、赤字の入れ方に迷うたびに校正必携を確認していたものだが、最近はあまり開いていなかった。彼女のおかげで別の校正者のやり方も知ったし、基本を再確認することもできた。
ちなみに編プロがよく使っているゴシック体の「G」と明朝体の「M」は、校正必携には「誤解されることがあるので注意」と書かれていた。ゴシック体にする指示は「ゴチ」や「ゴ」などとある。明朝体の場合は「ミン」「明」を使う。
最後の単元は『保育実習理論』。楽譜を見て、コードをつける問題がある。曲名は書いていない。事務所ではできないが、家ではゲラ(校正紙)を見ながら口ずさんでみる。
「ドドレミ ドミレソ ドドレミ ドーシソ……」
あれ? 何て曲だっけ? ドドレミ ドミレソ……。すると、私が歌うのを聞いていた夫がやって来てひと言。「それ、アルプス一万尺、でしょ」
そうそう。それだ。解説を見ると、確かにそう書いてある。初めから解説を見ればいいのだが、いちおう、受験生の気分で解説を見ずに問題を解いてみたりもする。
自分が担当した2回分が終わり、彼女の担当した1回分をざっと見せてもらう。指針以外にも児童福祉法などの条文や統計の数値など調べものが多いのだが、とても細かく確認している。真面目で几帳面な性格であることが窺える。きっと彼女は校正者向きだ。それに、前職の経験から『保育実習理論』なんてお手のものなんだろう。
「とくに難しかったところってありますか?」
すべて見終わってから、彼女に聞いてみた。すると、意外な答えが。
「私……楽譜、読めないんです」
『保育実習理論』の楽譜の問題が特に不安だという。でも、もちろん弾くことはできるそうだ。大丈夫。校正でも、楽譜の読み取りが必要な仕事なんてそうそうない。
ふだん慣れている仕事でも、こうして別の目線が入るとちょっと新鮮に感じた。停滞していた空気のなかに新しい風が吹き込んだよう。そういえば、もうすっかり春ですね。




