スピード死刑 :約5000文字
「被告人――は、死刑に処す」
――だろうな。
男はふんと鼻で笑った。
とある法廷。重く張りつめた空気の中、裁判官の声だけが冷たく響く。
複数の殺人の罪に問われた男は、証言台の前に立ち、その宣告を受け止めていた。
死刑――確かに、重い響きだ。だが、わかりきっていたことだから驚きはしない。何人も殺し、奪い、犯してきたのだから、むしろそうならないほうが不思議なくらいだ。
もちろん命は惜しい。だが、判決が覆るはずもないだろう。国選弁護人は形ばかりの弁論を読み上げ、情状酌量の余地を並べ立てはしたが、そこに熱はなかった。まるで作業工程をなぞっているみたいに。
ま、残された時間で手記でも書いてみるか。“楽しい思い出”もいくつかあるしな。
男はぼんやりとそんなことを考え、ほくそ笑んだ。
「執行日は明日とする。以上」
「……ふぇえ?」
屁のような音が男の喉から漏れた。
今、なんて言った……? 明日? 明日死刑?
男は無意識に弁護士へ視線を投げた。老人の弁護士は重たげなまぶたを持ち上げ、ふさふさの白い眉をわずかに動かすと、口をもごもごさせた。
「費用削減のため、制度が見直されたんですわ。残念ですな」
十分な説明とは到底言い難かったが、意味は伝わった。そしてその瞬間、背筋に冷たいものが駆け抜け、男は震え上がった。
「じょ、冗談じゃない! やり直せ! やり直――」
腕を掴まれ、男は床を擦りながら引きずられていった。同情の声もなく猶予も与えられず、法廷の扉は閉ざされ、声は遠のいていった。もっとも、いくら喚こうが無駄であった。明日執行と決まった以上、もはやどんな抵抗も意味を成さない。
男は独房へ収監された。
日が落ち、狭い部屋は墓場のように静まり返り、薄暗い電灯が畳を濁った黄色に染めている。
男は畳の上に座り、ただ前を見つめていた。いや、正確には焦点が定まっておらず、片目はわずかに白目を剥いている。口は半開きで、涎が今にも畳へ落ちそうだった。
その脳はこの現実を処理しきれず、ただいくつかの単語だけを反復していた。
――死刑、死刑、明日、死刑……。
やがて精神は擦り切れ、糸のようにぷつりと切れた。男は後ろへ倒れ、そのまま意識を失った。
夢の中。
そこは、どことも知れぬ町だった。空は薄い雲に覆われたように白く、青さは一切ない。ただ空全体が蛍光灯のように明るく、白い光が均一に降り注ぎ、ビル群と行き交う人々に影を落としていた。
男は花壇の縁に腰を下ろし、雑踏の無機質な足音を浴びながら、人の流れをぼんやりと眺めていた。
その思考はなおも現実から地続きであった。
――死刑、死刑、明日、死刑……。
しばらくそうしていた。やがて、ぽっと蝋燭が灯るように、脳裏に言葉が浮かんだ。
夢……か。どうやら、ここは夢の中らしい。
だが、もうどうでもいい。あと何時間で朝が来る。あと何時間で終わる。ああ、なんてことだ。これが最後の夢か。明日は最後の朝食。最後のトイレ。最後の――あああ、生きたい。生きたい生きたい生きたい……。
生きて、もっと女を抱いて、酒を飲んで、それから……いや、今は刑務所の中だ。ちくしょう、ちくしょう。
……脱獄。時間さえあれば、脱獄だってできたはずだ。あるいは、しおらしくしていれば仮釈放だってあったかもしれねえ。それなのに、明日死刑だと? ふざけやがって。人をなんだと思ってやがるんだ。クソクソクソ……脱獄して、今目の前を通ったあの女を犯して……そうだ。今やってやればいいじゃねえか。ははは、ここならおれは自由だ……!
……いや、どうせいいところで目が覚めちまうんだ。いつもそうだ。ああ、ずっとここにいられたら……。
「ねえ」
男が両手で顔を覆いうつむいていると、頭上から声が落ちてきた。
男はゆっくりと顔を上げた。すると、そこには一人の女が立っていた。
「へへっ、なんだ? 遊んでほしいのか?」
男は頬を緩め、視線を胸元から足元まで舐めるように這わせた。
顔はそこそこだが、若ければ十分。体は服を脱がせれば分かる。
男は指を虫の足のように蠢かせた。
「あんた――で」
「は? なんて?」
「あんたのせいで!」
「はあ? うおっ!」
突然、女の両手が男の首に絡みついた。冷たく、細いのに力が強い。肉に食い込み、喉を圧迫され、男は仰け反った。だが、荒事はむしろ本業。すぐさま女の腕を掴んで力任せに引き剥がすと、その腹に蹴りを叩き込んだ。
女はよろめき、数歩後ろへ下がった。しかし、悲鳴はおろか呻き声すら漏らさなかった。
乱れた髪の隙間からぎらりと目を光らせ、男を睨みつけていた。
「な、なんだってんだよ。お前、イカれてんのか!」
「イカれてんのはあんただろうが! あたしを殺しやがって!」
「は、は? ……あっ!」
その叫びで、男ははたと気づいた。
そうだ、こいつ。おれが犯して殺した女だ。あの夜、泣きじゃくりながら必死に命乞いをしていた。顔も声も間違いない。ただ、こんなふうに気の強い女じゃなかったはずだが……。
「ま、待てよ、へへへ……」
男は引きつった笑みを浮かべながら、ゆっくりと後ずさりした。
「どうせ、おれは死刑なんだ。仲良くやろうぜ……。ここは夢なんだしよ。そうだ、朝まで一緒に――」
「ふざけんな!」
言い終わる前に、女が再び掴みかかってきた。男は踵を返し、全力で駆け出した。
本来なら女なんかに負けるはずもないが、ここは夢の中だ。何が起こるかわからない。それに下手に刺激を受けて、もし目が覚めれば、待っているのはあの独房だ。もう一回寝つけるとも限らない。いや、眠れるはずがない。
ここは妙に現実味がある。風も感じるし、ほとんど一瞬だったが体の感触も生々しかった。人も大勢いる。あの女さえ撒けば、まだ遊べる。
男はそう考え、走り続けた。
路地へ飛び込み、細い通りを抜け、アパートの敷地を横切り、塀をよじ登り、一軒家の庭を駆け抜け、ただひたすら逃げ続けた。
背後から追いすがる罵声は次第に遠のき、やがて完全に消えた。
どうやら撒いたらしい。男は膝に手をつき、地面に視線を落としたまま荒い息を吐いた。
「おい……」
「……あ?」
視界の端に、汚れたスニーカーのつま先が映り、掠れた子供の声がした。
顔を上げると、そこには学ラン姿の中学生が立っていた。細い目に、丸っこい髪型。背も低く、どこにでもいそうな冴えない少年だ。
男は、へっと鼻を鳴らした。
「おいってなんだよ、ガキ。口の利き方も――」
「よくもいじめてくれたな……」
「は?」
「よくも、僕をいじめたな!」
「……あっ」
その声色で記憶が一気に引きずり出された。
そうだ、こいつ。中学の頃散々いじめてたやつだ。ちっこくて、殴ってもへらへら笑うだけで抵抗もしない、格好の的だった。だが、なんで今さらこんなやつが夢に出てくるんだ。
男が眉をひそめた瞬間、少年はわなわなと肩を震わせ、ポケットに手を突っ込んだ。そして何かを取り出した。その直後、チキチキチキ……と虫の鳴き声のような音が響いた。
カッターナイフだ――。
男がそれを認識した瞬間、少年は腕を振り抜いた。
「いってぇ!? ば、バカ、このクソガキ……あああああ!」
手の甲に鋭い痛みが走った。皮膚が裂け、赤い血がじくじくと滲み出し、ゆっくりと広がっていく。指を動かすだけで痛みが迸り、体が強張った。
「出てけ、お前なんか学校に来るな!」
「わけわかんね、うお!」
再び刃が閃き、男の腕をかすめた。男は傷口を押さえ、よろめきながら走り出した。
背後から軽い足音が迫ってくる。
男は血を垂らしながら走り続けた。走り、走り、喉がひりつく。肺が締めつけられた頃、男は公園の木陰へ飛び込んだ。
太い幹に背を預け、喉を押さえながら苦い唾を飲み込んだ。
いったいどうなってやがる……。なんで今さらあんなやつらが。……まさか、罪悪感か? 夢ってのは心の奥底にあるものが勝手に出てくるとか聞いたことがある。
明日死刑になるせいで、おれは自分のやってきたことを後悔しているのか?
「おい」
考え込んでいたそのときだった。背後から低く冷たい声がした。男はびくっと肩を跳ねさせ、ゆっくりと振り返った。
「見つけた」
「あのときはよくも……」
「金返せ……」
そこには十数人もの人影が並んでいた。子供、女、老人――年齢も性別もばらばらだが、全員が憎しみと恨みを塗り込めたような顔で、男を睨みつけていた。
その顔を見ていると、水底に沈んでいた枯葉がふわりと浮き上がるかのように、記憶が次々と蘇ってきた。
あいつはどっかのゲーセンでカツアゲしたやつ。あの女は警察にバレてないが、昔犯したやつだ。それから、あいつは喧嘩で半殺しにしたやつ。あのおっさんは、おれがよく万引きしていたコンビニの店長。気づいていながら何も言ってこなかった腰抜けだ。あいつは殴り倒した高校の教師。たしか頬骨が折れたとか。それからあいつは――。
「死んじまえ……」
「ふぇえ?」
「お前なんか死んじまえ……」「あんたなんか……」「死ね……」
粘りつく囁きが重なり、低い波音のように押し寄せてくる。声は小さいが、鼓膜の奥を直接掻きむしるようだった。
人々はじりじりと間合いを詰めてくる。男は後ずさり、踵を返して駆け出した――が、次の瞬間、顔面に鈍い衝撃が走った。
塀だ。高く、よじ登ろうとすれば途中で引きずり降ろされるのは目に見えていた。
「死ね」「死んじまえ……」「死ねよ……」
男の体が、がくがくと震え始めた。膝が笑い、腰が抜け、足に力が入らない。男はよろめきながら木陰から出た。
その瞬間、地面に膝をついた。次に手を、額を。そして――。
「ごめんなさああい!」
絶叫が公園にこだました。枝にとまっていた鳥が一斉に飛び立ち、葉がざわりと揺れた。
怨嗟のざわめきが止んだ。
静寂の中、男はおそるおそる顔を上げた。人々は無言で男を見下ろしている。やがて、誰かが口を開いた。
「やれ」
最初の一撃は足だった。誰かの靴底が男の鼻を潰し、鈍い衝撃とともに視界が白く弾けた。次に額、後頭部、背中、脇腹――衝撃が容赦なく降り注いだ。顔を庇ってかざした手は、女のヒールに踏み抜かれ、骨ごと地面に縫いつけられた。
「ひ、あ――」
悲鳴はすぐに打ち消しされ、体の奥からせり上がった血が、喉でガバゴボと鳴るばかりだった。
踏まれ、蹴られ、殴られた。骨が軋み、肉が跳ね、鈍い音が途切れることなく耳の中で鳴り続けた。男は丸まり、ただ身を縮めるしかなかった。
どれほどの時間が経ったのか。やがて、人々は波が引くようにゆっくりと男から離れていった。
――終わったのか……。
胸の奥にかすかな安堵が芽生えた。男は地面を見つめたまま浅く息を吐いた。咳がこぼれ、血の混じった唾が落ちた。
「また明日」
誰かがぽつりと言った。
そして、その通りになった。
朝になれば、男はまた追い回された。次の日も、その次の日も。何度も、何度も何度も――。
◇ ◇ ◇
「うおっ!」
男は跳ね起きた。ベッドの上で震えながら、そっと自分の肩を抱きしめる。
ひどい夢を見た――いや、ひどいなんてもんじゃない。あれは地獄だ。……だが、終わった。ああ、解放されたんだ。よかった、本当によかった……。
「……いや、よかったわけあるか。死刑……死刑だ!」
現実を思い出した瞬間、男は弾かれたように起き上がった。しかし足に力が入らず、床へ転げ落ち、肩を強打して呻いた。
「クソがああ……あ? ベッド? なんで……」
土の中から掘り起こされた幼虫のように蠢きながら、男は周囲を見回した。白い天井と壁。ベージュ色の硬く冷たい床――独房ではない。
ほどなくして、廊下から足音が近づいてきた。
ドアが開いた。男がゆっくりと顔を上げると、白衣を着た男が現れた。どうやら医者らしい。落ち着いた手つきで男を起こし、ベッドに座らせた。
「これは驚いた。目を覚ましたんだね」
医者は穏やかな声で言った。その落ち着いた声色に男は思わず、ほっと息を漏らした。が、すぐに眉間に皺を寄せた。
「目覚め……た? まさか、おれは……」
「そう。ずいぶん長い間、昏睡状態だったんだよ」
「昏睡状態? なんで……」
「まだ詳しくはわからない。ただ、後頭部に打撲痕があった。発見時の状況から見て、おそらく倒れた際に壁に頭を――」
医者の説明を聞きながら、男は深く息を吐いた。
おれはあの夜からずっと眠っていたのか。ここ、医療刑務所に移送されてからもずっと……。どうりで長い夢だったわけだ。そうだ、夢……夢だ。よかった……あ、じゃあ、明日死刑ってのも? そうだ、そんな制度があるわけがない。
それにしても……おれはいったい何週間寝ていたんだ? いや、何か月、あるいは――。
「あっ」
男が声を上げた。医者が「ん?」と眉を上げ、言葉を止めた。
「じゃ、じゃあ、おれの死刑は……?」
男は震える声で問いかけた。医者はにっこりと微笑み、男の肩にそっと手を置いた。
「明日、執行だよ」




