高校生であること①
姿見が見せる我が姿態に惚れぼれした。
そこに少しもナルシズムの心持ちが無いと言えば嘘になるが、我が体躯と詰襟学生服との驚異の整合性に、ポールハンガーとのタンゴを踏まずにはいられない。
今日初めて着たわけではないが、入学式当日という特別感が、より自身を喜ばせた。かの地にて制服を採寸したあの日、この服を自分の身体に合わせたあの瞬間、奇跡が起こったのかと思った。しかし、これは奇跡などではない。俺はあの瞬間のために身体を作り上げてきたのだ。
一日五回の腕立て伏せ、できるだけ階段を使う努力、風呂場でのマッスルポーズ、理想体型のイメージトレーニング……それら全て、この制服に見合う男となるため。嗚呼、ついに俺は高校生となるのだ。五年来の夢が、今ここに叶おうとしている。
しかし、高揚する反面緊張による落ち着きもあった。上手く計画通りに動けるだろうか。予想外の事態に直面した時、如何に動けばいいか。
ふと顔を上げると、尽きぬ不安を見透かすかのように、鏡の俺が俺を見ていた。そうだな。考えても仕方がないことは考えない。
俺の考えた最強のラブコメは、今より始まった。
・ ・ ・
絶好の入学式日和、と言うには少々空を覆う雲の割合が高い。いきなりの想定外だ。入学式に快晴でないラブコメが今までにあっただろうか。先行きが不安だが、しかし太陽の有無などは些末なことだ。雨でも降らぬ限り高校生の輝かしい青春に天道はただ屈するしかない。
入学式の登校は、ラブコメの序章を飾る舞台としては定石であり、また、物語の方向性を決定する最も重要な場面である。それの意味するところはつまり、メインヒロインの登場。
この数年で培ってきた理想のメインヒロイン像をここで紹介しよう。
名前は瑞稀桜。身長148cm。体重43kg。艶やかに黒く長いポニーテールに水色のシュシュ。少し日焼けした肌。広い額は前髪で隠しきれず、どこまでも透き通った大きな目を長いまつ毛と共に瞬きする。すらっと通った鼻。子供のように小さな口は、しかしよく笑いよく食べる。人と関わることが好きで、友達が多く、自由奔放。運動神経に優れるが、成績は少し落ちこぼれ。誰にでも心を許し、人の言動ひとつひとつに傷つきやすい危うい一面も。
入学生は八十名で、そのうち女子生徒は四十名。まあそっくりそのままの人間がいるとは思わないが、きっと運命の糸の一本や二本あってもいいはずである。
例えば今から乗る電車。下卑た男に痴漢され、声も出せず怯えているところに俺が颯爽と現れ実に華麗かつ紳士的に痴漢を撃退。それほどお腹の大きくない妊婦を鋭い観察眼で見極め、スマートに席を譲り、その一連を目撃。慣れない通勤ラッシュに体調を崩していると、俺が即座に次の駅で降ろし、諸々の介抱をする。如何様にして瑞稀桜と出会うか、迷いどころである。
最寄駅に到着し、電車を待つ。ホーム全体を一瞥するが、同じ学校の制服はいない。通学に二時間もかけるくらいなら、学校の寮を選ぶのだろう。一時期は俺もそうしようとしたが、やめた。だって、寮から学校に通っているラブコメの主人公を見たことがないから。寮は、なんというかラブコメっぽくない。学校以上に展開が起こりそうだし、寮でのラブコメは先行研究が少ない。よって俺は一人暮らしを検討した。
ラブコメの主人公は、両親が異様に忙しかったり、やたら夫婦水入らずで旅行に行ったりして、家に一人でいることが多い。対して俺の両親はやたら家にいるし、旅行代は車の改良費やガーデニング代に消える。だから俺は一人暮らしを提案したのだが、親には当然却下され、寮か実家かの選択を迫られたのだった。
電車が来る。十分後に大きな駅で乗り換え、一時間半揺られたあと、私鉄に乗り換え、学校関係者以外誰も降りない駅で降りる。その間で俺はどんな劇的な出会いを果たすのか、緊張と期待で、少し身震いした。
人が少なすぎる。最寄駅から徐々に人が減っていき、学生寮の最寄りを過ぎたあたりから、同じ学校の生徒と数人の老人のみになった。全員が余裕を持って座席に座り、所々から新入生同士の自己紹介が小さく聞こえてくる。今この世界で、ここより平穏な空間は無いように思えた。あと二駅、電車は目的地まで快速に進む。無論、例に挙げた事件など起きるはずもなく。
なれば、なればせめて車内にいる新入生と思しき女子生徒からヒロイン候補を選定するのだ。……吟味することおよそ十分。厳密な審査の結果、四人にまで絞ることができた。
一人目。整然とした姿勢と表情に聡明さと静かな気品が滲む金髪編み込み。如何にしてその髪型を作るのか想像も及ばないが、その複雑さや綻びの無さから、彼女の丁寧な性格、プライドの高さ、生活力、部屋の家具のレイアウトまで見えた。この高校の入学生というだけで彼女の高い学力は窺い知れるが、きっと俺などよりもいっそう賢いに決まっている。男人気は避けられないだろう。彼女をヒロイン候補とする場合、相当の競争率を潜り抜けねばならない。
二人目。気怠そうに背後の窓外を眺め、長い足を窮屈そうにたたむ青みがかったツインテール。座っているので分かりにくいが、俺より二回りほど身長が高い気がする。180cmはあろうか。身体も細いのでなんだか見ていて不安になるが、どこか目で追ってしまう。金髪とは対照的に彼女の思考や性格、バックグラウンドは全く読めない。気の抜けた表情で流れる景色を見つめ、時折ゆっくり瞬きをする。目が合った。俺は慌ててそっぽを向き、最初から扉の上の停車駅の案内表を見ていたふりをする。十数秒経ってもまだ見られているような気がして、しばらく案内表の最寄駅付近を凝視していたが、気がつくと彼女はまた窓外に目をやっていた。
三人目。いかにも内気そうな茶髪の三つ編みおさげ。余りある袖から覗く小さな両手に年季の入ったメモ帳が収まり、そこに書かれた何かを熟読している様子である。小学三年から飛び級してきたのかと疑うほど背が低く、厚い前髪から覗く顔のつくりが幼い。車内に笑い声が聞こえるたび、その方に首を向け、切なそうに微笑む。要は友人を求めているのだろう。地元を発ち、未知が跋扈する異邦で一人彷徨う彼女はさながら蒲公英の種子。留まり花を咲かす居場所を求めているのだ。多分。
四人目。人の良さそうな瞳に、上品さの漂うしっとりとした佇まい。ぼさっとした茶髪のロングは、しかし柔らかで、彼女の温和さを表している。大企業の社長令嬢には違いない。やりたいことは全て叶えられ、欲しいものは全て手に入る。そんな環境で過ごしてきたからこそ、庶民を代表する俺が彼女を未知の世界へ誘うのだ。ゲームセンター、駄菓子屋、回転寿司……あらあらまあまあと新世界に驚愕する彼女との三年間も決して悪くない。
彼女らとこれから果たす出会いについて想いを馳せる。おそらく同じ教室で、俺が窓際最後列に座り、周りには彼女らが座る。そして隣には瑞稀桜……。
そう上手くいくものではないと理解しているが、俺は心に決めたことがあった。
彼女ら四人とは必ず知り合う。もう俺が入学式当日に目をつけてしまったからには、これは避けられない。そして、瑞稀桜を探し出す。なんとしても、今日。
電車を降りると予報外の雨。それも豪雨。傘は無い。
まずい。これではラブコメが成り立たないではないか。入学式などに雨が降っては、これから起こるはずのナンパ男の撃退も、曲がり角での衝突も、遠方へ越した旧知との再会もこれでは台無しだ。
というか、本当の問題は傘が無いことだ。制服をびしょ濡らして入学式に参加するわけにはいかない。どうしたことだ……。あらゆるラブコメ的展開を想定しすぎて雨のことを考慮に入れていなかった。
俺が気を揉んでいる横を、これから巡り会う人間が通り過ぎる。用意周到に傘を携帯し、一斉開花のように雨の中開く多彩の傘は俺を置いて行進していく。
いっそ帰ってやろうかと過ったところで、俺に向けられたと思われる声が傍らで聞こえた。
「傘、無いんですか」
そこに、瑞稀桜はいた。
外見的特徴や俺が彼女に対して受けた印象は前述の通りである。何故、前述の通りの人物が目前に屹立しているのか。幻覚としか思えず目を擦ったが、相変わらず瑞稀桜は俺と対峙していた。
俺が阿保の表情で立ち尽くしていると、彼女は困った顔をして「あ、えっと……」と言葉を詰まらせていた。
何の意図があって俺に話しかけたか知らんが、これが生涯に一度の機会であることを俺は受け止めていた。これを逃しては、これまでの、これからの人生を棒に振る。
「あ、あっうん。そう。傘、傘無いの。えへ、どうしようかと思って」
聞くに耐えないが、ひとまずは受け取ったボールは返すことができた。ようやく口を開いた俺に、彼女は安心したように笑った。
「実はわたしもで……。えっと、一年生だよね?」「あ、よかった」「雨、どうしようね」「えー、でも遅刻しちゃうからなあ」「わ、雷」「うん、ちょっと苦手」「というか音かな。なんであんな怖い音なんだろって思うよね」「ね、そうだよね」
彼女は一言話すたびに表情がころころ変わる。確かめるような、ほっとするような、不満げな、苦笑するような、びっくりするような、恥ずかしそうな、少し怒ってるような。
「ね、もう走っちゃおうか」
豪雨により霞んだ遠景を見つめながら彼女は言う。その視線の先には山偕高校の校舎がぼやけている。
「しばらく止みそうにないし、入学初日に遅刻しないためには走るしかないよ。傘を忘れたのに濡れずに行こうなんて、ワガママな話だと思わない? ほら」
彼女は駅から飛び出して、両手を広げて雨を全身で受けて、心底楽しそうに笑っている。そんな彼女の姿に見惚れる俺の腕を彼女は濡れた手で引っ張って、俺も彼女と同じ目に遭う。全身をくまなく打つ雨が気持ちいい。
我々二人は走り出した。何か合図があったわけでもないのに、校門まで続く長い上り坂を競走した。息を切らし、汗か雨かも分からぬ水が身体を伝い、水溜りを踏み、人の目に晒され、しかしどうでもよく、彼女の背中を必死に追う。肌が輪郭を失い、雨に溶け合ってしまう気がした。
坂の上に着くと、息切れした彼女が俺の到着を笑った。自覚は無かったが、酷い様相だったのだろう。
「そういえば名前、なんていうの?」
しばらく呼吸を整えてから、切れ切れに自分の名前を伝える。
「へ、えっと、ハァ、葦原、志郎」
「葦原志郎くんね。わたしは日野茜」
「よろしく」と日野茜と俺は、降りしきる豪雨の中手を交わした。想定以上の彼女の握力に、今、背後に落ちた雷の如く心臓が高鳴る。日野茜は雷鳴に少し縮こまったが、一切雷には動じない俺を見て、とびきりの笑顔を隠さない。
「タフだね、君は」
君の笑顔には敵わんがね、と危うく言いかける。
ひとしきり笑った彼女は、ようやく周りの目の存在に気づいた。
「へへ、ちょっと恥ずかしいから先に学校行ってるね」
「あ、うん」
「同じクラスだったらいいねー!」
言いながら、日野茜は校内に走り去った。彼女の姿が見えなくなると、途端に雨の音が鼓膜に届く。彼女の莫大なエネルギーに圧倒され、しばらく呆然としたが、「そこのびしょ濡れー! ぼーっとしてないで早くこっちに来なさい!」と教師らしき中年女性がタオルを持って俺に手を振っているのを見て、いそいそと校門をくぐった。
予定とは大きく逸れた展開だが、既にラブコメが始まっているのだと思うと、期待に膨らむ胸が破裂寸前である。血飛沫と期待と内臓を散らす前に落ち着きを取り戻そう。何事も始まりの、そのあとが肝要なのだ。好調の始まりを台無しにするか、華麗な跳躍の踏み台にするか。
後者を為す者だけが、ラブコメの主人公に相応しい。




