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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

胎蔵海馬

作者: リル。

質感も立体感も無い、奇妙な白い部屋だった。

規則的なリズムで繰り返される呼吸と、腕から伸びるケーブルの先に繋がれた電子機器が時折発する電子音だけが、ベッドに横たわった体の耳に届いていた。

本来なら投薬による治療は激痛を伴うものなのだが、そんな環境が長く続くうちに痛覚という痛覚は無くなってしまった。幼い頃は、よく発狂したものだが。

不意に、壁と完全に一致して境目のわからないドアが、音もなく横にスライドした。

入ってきたのは、足音の代わりに静かな駆動音を響かせるロボット。人間ではないが、ここでは彼――ロボットに性別があるのかどうかは不明だが――が『先生』だ。

「やあアヤ、調子はどうだい?」

いつもと同じ言葉に、病澱も同じ言葉を返した。

「最悪です」

色彩病澱、イロアヤヤオリ。名付けたのは悪趣味な親なのか、それとも他の誰かなのか、それすらも解らない名前。ついでに、どういう人間が産んだのか、どこで生まれたのか、その親はどこで何をしているのかも解らない。そもそももう生きていないのかもしれない。

ベッドの横まで移動すると、先生は注射器の形をした指で病澱の血を採る。

「…だが、ウイルスの含有量は段々減少しているよ。もしかしたら、今年中に完治するかもしれない」

「そうですか」

 淡白に返答する。とは言ってもどうでもいい訳ではなく、未来の自分が想像できないためだ。どういう反応をすればいいのか、経験がないからいまいち解らない。

 病澱の人生は、自分で知る限り薬漬けのオンパレードだった。ありとあらゆる種類の抗ウイルス剤を点滴で体にぶち込む日々。ベッドから降りることはできないし、痛覚が健在なら、さながら素敵な拷問だ。

 白死病。

 人類史史上最も猛威を振るった伝染病、黒死病をもじった安っぽいネーミングとは裏腹に、その病気は想像を絶する致死率を誇る。詳しい原理は解らないが、感染すれば髪が脱色されてしまい、色が抜け落ちることからそう名付けられたらしい。

完治例は今のところ無し。病澱はそんな難病に物心がつく前に罹ったものだから、延命はするこそすれ、助かるとは思っていなかった。そんな闘病生活が、まさか終わるとは。

「けれど、結構前から兆候があったって言ってましたよね?」

 「ああ、ちょうど半年前くらいだね。ただ、何しろアヤは前例のない存在だ。念に念を入れるのは医者として当然さ。それに第一、白死病のウイルスの減少は極端に遅い。けど着実に減少しているのは事実だから、そこは安心して」

 「はい」

 他人とのコミュニケーション頻度を鑑みれば当然だが、病澱は会話が微妙に苦手だった。疑問を提示した後は手短に返答し、いつもの通り、診察を終えた先生が退出するのを待つ。

だが今日は、平時とは様相が違うようだった。

「アヤ、今日はこの部屋から出てみたら?」

「え、」

不意に、先生がそんなことを言った。

一瞬、何を言われたのか解らなかった。

出る?この部屋から?

そんなことを考えたこともなかった病澱は、ゆっくりと目を瞬かせる。

「点滴を打ちながらなら多少運動しても問題ないしね。もう今更という気もするけど、この部屋に閉じ込められて長いだろう?」

「いいんですか?」

 「もちろんさ。ほら、立てるかい?」

 先生は病澱の体に掛かっていたタオルケットを剥がし、注射器が内に引っ込んだ手を差し伸べてくる。

 恐る恐るその手を取り、ちょうどそばにあった点滴スタンドを支えにして床に降り立つ。

 「冷たっ」

 最初に感じたのは、足裏を突き刺す床の冷たさ。思わず声を上げてしまう。

 「そういえばもう秋も終わりだったね。どうしよう?車椅子でも持ってこようか」

 「いや、いいです」

 慌てて部屋から出て行こうとする先生を病澱は止める。

 無視すべきではない刺激だと直感が告げていたが、けれどそれ以上に、今まで自分の全てだった世界からでてみたいという衝動が抑えられなかった。例えるなら、クリスマスの夜に興奮で寝つけない子供のように。

 「早く行きましょう、先生」

 点滴スタンドで体重を支えながら歩き出す。もう十何年も使っていない足は棒のようだったが、好奇心に逸る病澱の体にとっては些細な問題だった。

 「ほら先生、」

 「……まったく、寝たきりだったのに元気な子だよ」

 肩をすくめた、つもりなのだろう微妙なジェスチャーを披露しつつ、先生は病澱の隣に並んで歩く。

 ドアが自動的に開く。二人は外に出た。

 目の前に広がったのは、左右に広がる細長い空間。通路か。色はやはり白だ。

 「こっちこっち」

 先生は右へと進む。手招きに、その後に続いて拙く歩く。物珍しさに周囲を観察している内に、二人は開けた空間に出た。

 通路と同じ白い床は汚れ、あちらこちらを木の根だか蔓だかが無数に這っている。木漏れ日がその間から差し込んでいて、どこか神秘的な雰囲気だ。

「先生、ここは?」

 「ロビーさ。もっとも、もう本来の使い方はできないけどね。僕だけじゃ、施設内のごく一部の機能しか維持できない」

「椅子に座っているのは……先生?何でこんなに先生が?」

 「それらは僕の代替品さ。未起動の状態で放置されて長いから、錆びてて使い物にならないのが難点だけれど」

「…人間は、いないんですね」

「ここにはね」

 先生は、来た道とはまた別の通路を歩き出した。ロビーと違って、やはり気色が悪いほどに清潔で白い。

 再び、開けた空間が現れる。

 そこは、見上げる限りのフロアが上方向にぶち抜かれた、部屋とも呼べない奇妙な空間だった。

 「先生、この病院って何階まであるんですか?」

 「五階まで。この『方舟』は、この一階から五階までを吹き抜けにしてできてるのさ。

上まで行ってみるかい?」

 見れば、円形にくり抜かれている空間の外周には昇降盤のようなものが設置されている。行こうと思えば行けるのだろうが、病澱は首を横に振り重ねて問う。

 「ここは…何を行ってるんですか?」

 「『種の保存』さ」

 「種の、保存?」

 「そう。もっとも、これを設計した人は、作らなければいけない引き出しの多さに眩暈がしただろうけどね」

 ほら、と手招きして、先生は壁の一部分を引き出して中身を病澱に見せた。

 「種?」

 冷蔵庫のごとく冷気を閉じ込めた引き出しの中には、細長い植物の種のようなものが小分けにされて入っていた。

 「そう。これはコスモスの種子。こんな感じで、この部屋には植物、動物を問わない無数の種が保存されているのさ。何とも神秘的だろう?」

 「そうなんですか」

 返事もそこそこに、病澱は試しに壁を触ってみる。と、触った箇所が四角く切り取られ、手前に引き出される。

 引き出しには、どろりとした白い液体が入っている試験管が収められていた。

 「?」

 「ああっ、アヤ、それはダメ!」

 病澱の様子を見るなり、なぜか先生が慌てて試験管をひったくった。

 「先生、どうしたんですか?」

 「ダメ!これは保護者としてダメです!」

 「何なんですか一体…」

 滅多に見ない、先生の動揺した様子に少々困惑しつつ、しかしふと疑問が差す。

 「でも、なんのために種の保存なんて?」

 種の保存。

そんなことを実行するということは、裏を返せばそうしなければならない事情があるという訳で。

 これではまるで、人間が地球を管理できなくなった時の用意のような、そんなーー

 「大人の事情さ」

 「私はもう子供じゃありません。誤魔化さないでください」

 「子供だよ。何があろうといかなる責任も背負ってはならない、子供だよ。アヤはね」

 「そんなものですか」

 「そんなものだよ」

 それは何となく、卑怯な答え方だと病澱は思った。けれど、これ以上食い下がったらそれこそ幼稚な行動である。続けて飛び出しそうになる言葉を、病澱は無理矢理飲みこんだ。

 会話をやめて、二人はまた歩き出した。

 次の部屋までの通路は、今までのパターンとは打って変わって荒廃していた。元々は他の通路と同じように白かったのであろう床を、壁を、天井を錆が自由気ままに走り回っている。ただ歩いているだけで無性に不安を掻き立てられるその雰囲気は、さながら魔界にでも繋がっている魔窟である。淡い光を吐き出す汚れた蛍光灯がぱちぱちと不規則に点滅していたが、通路の先にはその僅かな光も届かず、まるで墨汁が充満しているように黒く濁っていて、奥まで見通せない。

 「荒れてますね。予算でもケチってます?」

 「…どこで覚えたのさ、そんな表現」

 顔を(正確には目に似たカメラが二つあるだけで口はなく、表情というのは単なる病澱の想像に過ぎないが)顰めつつ、先生が呻く。

 「ほら、馬鹿なこと言ってないで早く歩きなさい」

 「十何年もベッドから動いてなかったんですよ?他に人間がいたらどうか解りませんけど、少なくとも今の私はこれが限界です……」

 「置いてっちゃうぞー?」

 「ちょ、ちょっと待ってくださいよ⁉︎こんなところに独りで置いてかないでください!」

 掛け合う様子はまるで反抗期の娘とからかい上手の父親である。だが、病澱はこんなやりとりが嫌なわけではなかった。

 たまに、想像する時がある。

 もし、先生が人間で、その上病澱の父親だったら。

 そうしたら。もしもそうだったのならこれを愛情、と呼ぶのだろうか。

 血の通っている人間である病澱と、血の通っていない機械である先生。そんな二人を、どんな繋がりを以って愛で結べばいいか、なんて解らないけれど。

 と、視界が開ける。また、別の部屋に到着する。

 ずしりと、重たい空気。

 端的に言ってしまえば、そこは『牢獄』だった。もっとも、その場所と二人が立っている場所を明確に隔絶するものはなかったが、それでもそこは確実に『牢獄』だった。

 部屋の中心に拵えられた柱ごと鎖で巻かれた、人ならざるナニカが来訪に反応して蠢く。

 それは人間のカタチをしていて、

 けれど絶対にヒトではなかった。

 ぞわり、と。その姿を見るだけで、圧倒的嫌悪感が病澱の肌を刺す。不気味、恐ろしいというレベルではない。それすら超越した、概念じみた「嫌悪感」。冷や汗が全身から噴き出る。

 拒絶しなければならない。理性ではなく本能が最大音量で警鐘を鳴らす。

 「……っ、先生、これは………っ」

 「白死病さ」

 「は…………?」

 先生は至って平静に、そう説明した。自身の動悸とその冷静さとの乖離に、病澱は自分がおかしくなったのかとしばらく錯覚した。

 と、不意に。

白死病と呼ばれたナニカが口を開く。

 「……のう、機械。儂が二度寝している間に、幾つ刻は過ぎた?」

 「三年半、くらいかな。僕が君とのかくれんぼに勝ってからは、ざっと九年くらい」

 「そうか。ちいと寝坊したかの?ここは落ち着いていて良い。律動が良い意味で崩れおるわ」

 「そいつは僥倖なことで」

 ナニカが繋がれている場所は、通路の僅かな光がちらりと差し込む程度の、ほとんど真っ黒い絵の具で塗りつぶしたような暗闇で覆われているというのに、その環境を「落ち着いて」と表現できるその精神性に、病澱の心は異常な不気味さを塗り重ねられる。

 「して。そこに連れている小娘は何じゃ。この距離では、もう既に儂に当てられているが。貴様、弄ったか?」

きろり、と目らしきモノが病澱へと向けられる。目の前の存在が意識を向けていると思うだけで、喉から締め上げられたような悲鳴が漏れた。だが、その視線を遮るように先生は一歩前へ出て、

「いいや、この子はお前の被害者の中で唯一の生存者さ」

「その割には随分と親しげなようじゃが。造られた本能の傀儡が、気色の悪い」

ナニカ、白死病と呼ばれたその存在は先生に嗤いかける。馬鹿でかい鎖で繋がれているはずなのに、態度は君が悪いほど余裕がある。

「僕は保護者で、アヤは患者。それ以上でも以下でもないよ」

「どうだかのう」

会話は成り立っているのに、内容の意味が解らないから、二人の言葉はまるで未知の言語のように脳裏を滑っていく。

たまらず病澱は先生の腕を掴んだ。

「っ、先生、あれは『駄目』です!あれは何ですか⁉︎そもそも白死病ってどういう⁉︎」

一度に聞き取ってもらえないことは百も承知だったが、急きこむように次々と飛び出してくる言葉はブレーキが効かなかった。

純粋で明確で単純な「死」のイメージ。それによる悪寒が目の前のナニカの近くにいるだけで止まらない。病澱の拙い語彙力ではうまく表現できないが、何をおいてもまず『駄目』なのだ。

しかし先生は至って平静を保ちながら、

「アヤ、落ち着いて聞いてほしい。今まで黙っていてすまなかったね」

「そんなこと今はいいです!というか何で先生が謝るんですか⁉︎」

「君に、隠していたことがあるんだ」

 かつてない深刻な空気感に、病澱は周囲に漂う重圧もいっとき忘れ、先生の顔を見る。機械に感情などないはずなのに、目の形をしただけのカメラの奥に隠されている、感情を探そうとして。

 けれど結局、偶然の残念だったのか、それとも必然の幸運だったのか、そんなものは見つからなかった。


 「――人類は既に、君を遺して全滅しているんだよ」


 意味が、解らなかった。

「はい………………………………?」

 余りにも前の話題から話が繋がらなさすぎる。いやそもそも、主語が大きすぎて本質的な理解ができなかった。本気で言っていると、この状況ですら病澱は迷いかねた。

 愕然とする病澱に対して、先生は淡々と続ける。

 「原因は白死病。そこに縛られてる、男なのか女なのか、生物なのか非生物なのか、存在なのか非存在なのか曖昧なナニカのせい」

 「ちょ、ちょっ……待ってください、ちょっと待って……。っそもそも、白死病って病気のはずじゃ、」

 「そう、病気。ただし『普通じゃない』、病気だけれどね」

 普通ではない。

 異常。

 世界の、欠陥。

 「いや、もはや病気と呼ぶことさえ怪しいか。彼、或いは彼女は文字通りの疫病神、意思を持った天災。確実に何かであり、確定で何かでないナニカ。――時にアヤ、妖怪って知ってるかい?」

唐突に投げられた問いに、困惑しながらも首肯する。

 「妖怪、というのは『こう』いうものをルーツにしているのさ。幻想でも、現実でもない。いわば人為的に造られた狭間の存在。ヒトにもモノにもなりきれない、存在のなりそこない」

 果たして、先生は心なしか、嗤うような声音で言った。


 「白死病とは、人間によって意思を『持たされた』ウイルスなんだよ」

 

「持た、された……?」

 現実味のない事象の重ねがけに、まるで濃い味に舌が慣れてしまうように薄められながらも、電流のように体を走る衝撃。

否定して欲しかった。だから病澱はそう言った。けれど先生はそれを、肯定で否定する。

 「そう。かつて人間はそういう類の研究をしていてね。僕にはその意味なんてさっぱりだけれど。発端を江戸時代とする塵のような探究心の結果が――これ、さ」

 「全く、忌々しい場所であったわ。あそこの人間は全員狂っておる」

 遅々とした進行に痺れを切らしたのか、意思を持った白死病が説明を勝手に引き継いだ。

 「だから、儂は逃げた。まあ、その結果が、お前の同族の滅亡じゃ、小娘。儂はその機械の言う通り疫病そのものじゃからの。息をするだけで街が、見向くだけで国が、歩くだけで世界が滅んでおったわ」

病澱は外の世界を知らない。

 けれど知識として身につけたその世界の構成概念が容易く崩壊していく様は、白死病の患者として、息をするよりも簡単に想像できた。

 「……なんで?」

 「ん?」

 自然と、口から疑問が零れた。

 「何で?何のためにそんなことを?自分を造った人間への復讐?そのために全人類を巻き込む必要があったの⁉︎」

 「自由のためじゃ」

 当然。言外に声音でそう示す白死病。

「別に、お前らに恨みなんてありゃせんよ。殺したい、なんて思ったことなど一度も無い。小娘、自分に都合の良い憶測だけで物事を語るなよ?」   

 嘆息。

 直後、病澱は喀血した。

 喘鳴が部屋に響く。突然のことに、理解が追いつかない。ただ目を見開いて、病澱は目の前の存在を見つめる。

 「…………ヤ、しっ…り…アヤ!……」

 途切れ途切れ、先生の声が聞こえる。意識が遠のく。平方感覚が麻痺し、視界がぐらりと揺れる。耳がおかしくなっている。

けれどそのくせ、ナニカの声は嫌になるほど鮮明に聞こえた。

「『だれもわるくない』じゃよ。儂はこの性質を望んで生まれ持ったわけではない。ただ、儂が自由になるためには人間が死ぬ必要があった。たった、それだけなんじゃ。――自由になるには、痛みが伴う。覚えておけ、小娘」

なぜそんなことを自分に言うのか、病澱は解らなかった。解りたくもなかった。

 なぜそうしているのかも曖昧になりながらも病澱は白死病を呪い、それきり意識は闇に包まれた。


暗転。

 

「やあアヤ、二時間振りだね」

意識を取り戻して最初に目にしたのは先生の顔だった。その奥に見えるのは天井。病室に連れ帰られてベッドに寝かされていたらしい。

起きあがろうとして、病澱は激しく咳き込んだ。途端に口の中に鉄臭い味が充満する。

「すまない。僕のミスだ」

「せん………せ?」

先生は言うなりいきなり頭を下げた。

「アヤは『あてられた』んだ。くそっ、機械であるせいで奴がウイルスそのものだってことをすっかり忘れていた……!」

あてられた。きっと病澱のされたことを言い表すならそれが一番適切な表現なのだろう。

何せ病澱が倒れた時、そして今も体を蝕んでいる感覚は今までの人生でずっと付き合ってきた、懐かしい『症状』である。間違えるはずもない。

「大方、高濃度のウイルス……といったところでしょうか。あはっ、懐かしいですね。私には耐性があるはずなんですけど、あの至近距離では短時間が限界でしたか…」

ぽすりと枕に頭を預けながら、病澱は分析してみる。不思議と、脳は冷静に動いた。

「苦しい思いをさせたね。初めての外出が……台無しになってしまった」

「いいんですよ。先生がやった訳じゃないんです。気にしないでください」

病澱は方便ではなく、そのままの意味で言った。けれど先生はその思惑通りに言葉を受けとってはくれなかったようで、目を――正確には目の形をしたカメラを――細めた。

「本当、ごめん。体調が悪くなったら、いやもう悪かったか……とにかく何かあったら、ナースコールで呼んで」

憔悴しきった様子で先生はとぼとぼと出ていってしまった。人間だったならばきっと目を泣き腫らしていることだろう。

気に病む必要はないと思うが、もしこの立場が逆だったら、病澱は間違いなく澱の如くどろどろに病むと思うので、しょうがないのか、と納得することにした。

さて、と。

 先生が部屋から出ていったことは、図らずも病澱が脳裏で願った要望を叶えていた。

 この短時間で色々とあった。それはもう一度に受け止めきれないほどに。少し――一人で気持ちを整理したかった。

 しかし思考の初っ端、真っ白い天井をぼうっと眺めながら発した呟きに、結局は病澱の感想は尽きていた。

 「訳わかんないよ…」

 十何年か自分の中の白死病と、上手くとは言えないものの付き合いながら生きてきて。そんな現実が全てな世界で、何もしないまま生きてきて。それで急に「人類は滅亡している、君が最後の生き残りだ」なんて言われても、絶対的に、確定的に、そして絶望的に、訳が解らない。

 先生は果たして何を言いたい?

そして病澱にどうしてほしいのだ?

 解らない。

 「…私は、どうすればいいの……?」

 数年前に切ったきりで伸びっぱなしの、虚無の白色の髪をくしゃりと掴む。

 次の瞬間、何かが唐突に病澱の腑を揺さぶった。

 端的に言ってしまえば、病澱を襲ってきたのは音だった。何か狭い場所から這い出ようとして、何度も何度も壁に体をぶつけるような、そんな耳障りな音。

 ガガドスバキベコガンキンドンガラガッシャンッ‼︎という、そんな金属という物体のポテンシャルを最大まで引き出した盛大な音が純白の部屋に響き渡るとともに、天井の換気扇を突き破って落下してきたのは、

 「は?」

 「いってーな、ちくしょう誰だ誰なんだ誰ですか、俺が閉所恐怖症だって知っての狼藉かよこの野郎⁉︎」

 ちょうどビデオカメラくらいのサイズの、宙にぷかぷかと浮かぶロボットが悲鳴さながらに呻いた。

 …………、

 オーケイ。

 誰だこいつ。

 「うるさい」

 文字通りの目と鼻の先に落ちてきたそれを、とりあえず病澱は鷲掴みにしてみた。

 初めて存在に気づいた、とでも言いたげに、カメラの驚愕と怖気を乗せた視線が至近距離の病澱の双眸を射抜いて。それからレンズ内部のピント調節機構が目を見開くように駆動し、動きが止まる。

「……夢?」

「そう思ってるならハロー、だよ。あなたはだあれ?どこから来たの?先生の知り合い?だとしたら逃げてきちゃダメだよ、ああ見えて先生は意外と優しいんだから」

「……いや待て待て、おてんば娘。とりあえず、一気に喋るな。質問は一つずつだ。オーケー?」

「叩き壊すよ?」

「壊すな壊すな」

むぅ、と病澱は頬を膨らませて、それから目の前の存在を改めて観察する。

蛍光灯の逆光に強調される角張ったシルエット。羽らしきものは見当たらないのだが、どういうわけかその躯体は浮遊している。見つめると、ぱちくり、と瞼代わりのレンズカバーが瞬いた。

「いや、その、俺の体……どうなってる?」 

「うーん、なんて形容すればいいんだろ。強いて言うならガラクタかな?」

「……随分な表現だな、おい」

 ノイズが吐き出される。どうやら溜め息のつもりらしい。

「くそ、やっぱ人間じゃねぇか。いや、そもそもそうするつもりだったんだから文句は言えないけどさ」

「……人間?」

 その言葉が目の前の機械から飛び出した瞬間、病澱は時間が止まったような感覚を覚えた。

 急き込むように尋ねる。

「ねえ、人間じゃない、ってどういう意味?あなたは人間『だった』の⁉︎」

「あぁ?何言ってるんだお前。コンバートなんて今どき一般用語……」

言って、それから話があまりにも噛み合わないことに気づいたのか、音質の悪いスピーカーが噤む。

 「……ちょっと待て。おい、そもそも此処はどこだ?それと西暦は?」

 声音は、明らかに変わっていた。

 軽佻浮薄のそれから、事態の詳細は把握していないながらも何か致命的な事実を悟った、曖昧な絶望を孕んだものへと。

「ここは病院だよ。見た通りね。西暦は……あれ?そういえば、」

「……?」

思い返せば、

「私……先生から、今何年なのか……正確に言われたことないかも」

 思い返せば。

 とある周期で『誕生日だよ』と言うだけで――先生は、一回たりとも病澱がいつ生まれたか、なんて言ったことはない。

 果たして。

 今は一体、人間が滅亡してから何年経っているのだろう?

 ぞく、と。得体の知れない何かが這ったような、恐ろしい感覚が背筋に走る。

 上手く語彙にできない、形容しがたい恐怖が、腹の中にすとん、と落ちたような気がした。誤魔化しきれない、自分が正に今、絶望的な悪夢の坩堝の中にいるという感覚。

 「……ここから出よう」

 「え?いや、つってもお前病人だろ?」

 「そうだね。だけど、それ以上に嫌な予感がするの」

 人生初の直感だった。けれど確信を持って、病澱はそう呻く。

 唇に残った血を手の甲で拭い、

 「行こう。反抗期なの、私」

 一歩、踏み出す。




 先ほどとは、様相が一変していた。

 目にするもの全てが自分を飲み込もうとしているような、怪物の棲家に迷い込んだような錯覚を病澱は覚えていた。

 周囲の通路は、全てが白い。

 白が、ひたすらに怖い。

 誤魔化すように、ビデオカメラのロボットに話しかける。

 「ねえ。あなたの名前は?」

 「七瀬音楼だ。音楽の音に鐘楼の楼で『ネロ』」

 「ふうん、変わった名前だね。あ、私は色彩病澱。病気の病に、澱みの澱で『ヤオリ』」

 「お前も十分変わった名前だな」

 「そうなの?」

 首を傾げると、音楼は信じられないといった目線を向けてきた。

 「お前……友達とかいないのか?」

 ちなみに本気で心配している声音だった。

 少し気に障って、病澱は自分でも驚くほど棘が剥き出された声で返した。

 「友達どころか、親も。何せ人間がそもそも私だけだから」

 「そいつぁ悪かった。……ただちょっと待て。今、人間が……なんて?」

 「私だけ。知らない?人間はもうとっくに絶滅しているらしいよ」

 音楼は絶句した。前進が止まって、ただ空中にふよふよ浮いているだけになる。

 「……どういうことだよ」

 「文字通り。本当にただ、その言葉の意味。私が人間の最後の生き残りらしいって、それだけ。白死病で、みんな死んじゃったみたい」

 肩をすくめて、病澱は言った。そして先ほどの疑問を繰り返す。

 「さっきの質問に戻るよ。あなたは何者?人間『だった』存在なの?」

 「……ああ。そうとも言えるし、そうじゃないとも言える」

 曖昧な返答。

 なんとなく回答をはぐらかされているような気がして、病澱は懐疑的に目を眇める。

 「具体的に」

 「やなこった。こちとら、会ったばかりの人間に身の上話をする趣味はないんでね。物を聞くときはまず自分のことから語るもんだぜ?ヤオリ。お前のその奇っ怪な髪色は白死病か?」

 反射的に反論しようとして、しかしそれが正論であると言うことにはたと気づく。

 名前を聞くときは自分から。

 「……そうだよ。もっとも、もう治りかけらしいけどね。もし人類がまだ存続していたのなら、私の体でワクチンなんていくらでも作れただろうに、そんなやつが最後の生き残りなんて、本当、笑えない」

 一抹の寂しさが、病澱の心を掠めた。今となっては他の人間がどんな存在なのかなんて解らないけれど。それでも、それを見てみる未来があってもよかったのかもしれないと。そう、思ってしまったから。

 「皮肉だな」

 「皮肉だよ」

 音楼が、再び進みだす。病澱はそれを、今度は追いかける。

 「はあ。ここまで馬鹿正直に自己紹介するとは。これじゃ引き下がれねえな」

 嘆息。

 ややあって、

 「俺はな、端的に言えば人間の『意識』だ。……コンバート、つってな。人間の意識と呼称される曖昧なモノをコンピューターでデータ化したものだ。シナプスの構造をコンピューターで読み取って……って具体的な話は置いておいて。つまるところ、俺は人間の純正品だとも言えるし、逆に七瀬音楼という人間の模造品であるとも言えるわけだ。ネットワーク経由で移行先の適当な機体を検索してる内に、こんなに時間がかかっちまったけどな」

 「…………」

 「俺という存在は俺であって俺ではない。つまるところ、要約すればそういう話だ」

 それは。

それは、途方もない永劫の苦痛なのではないかと、病澱は漠然と思った。

 自分が、自覚のないままに他人になっているのかもしれない。それは、どうしようもないほどどうしようもない恐怖なのだろう。

病澱と同じくらい、苦しんだのだろう。苦しんでいるのだろう。

そんな病澱の思考とは裏腹に、音楼は飄々と笑う。

「けど、俺が生きている時代からは、何もかもが変わったらしい。だから俺は今までとは違う、新しい生き方をするさ。だってそうだろ?そうすれば、俺が本物だろうが偽物だろうが、俺は紛い物にならない」

 「……強いね、ネロは」

 「そうか?」

 「そうだよ」

 割り切ることのできる人間は強い。

 そんなことを考えながら、口を開く。

 「ねえ、ネロ」

 「あー?」

 「私さ、友達がいないんだ」

 「……どうしたんだよ、急に」

 脈絡のない言葉に、音楼が半足――もちろん比喩上の表現だ――引く。

 無視して、続ける。

 「だから、もしネロが良いのなら。そうしたら私と、その……友達になってよ」

 そうすればきっと、七瀬音楼としてではなく、色彩病澱という人間から見たネロという存在として生きた証が、目には見えなくとも刻まれるだろうから。

 「私、ずっと友達が欲しかったんだ。……どう、かな」

 「いいよ」

 即答だった。

 予想とは随分乖離している現実に、病澱はぱちくりと目を瞬かせ、

 「軽いね」

 「そう。軽い男なのさ、俺は」

 友達にしては割と最低なことをほざいて、音楼は悪びれる様子もなく前へと向き直った。

 「悪いロボットだなあ」

 「何言ってんだ。『悪』友だろ?俺たち」

 「……私、まだ悪事なんて働いてないんだけど」

 「家出は立派な悪事だろ」

 「そっか」

 納得して、それから顔を見合わせて、二人は同時に吹き出した。




 先生との外出とは違い、通路の先にあったのはロビーではなく、薄暗い部屋だった。

 「こりゃまた、病院とは思えない場所に来たな」

 「?何これ」

 「……⁉︎……ばっ……おい今すぐそれから手を離せ!」

 「え、」

 部屋の中心の机から、病澱が湾曲している金属塊を持ち上げた瞬間だった。

 轟音。同時に手が凄まじい勢いで跳ね上げられ、焦げ臭い匂いが鼻につく。突発的に連続したいくつもの異常事象に、病澱の体が思わず硬直する。

 「おい⁉︎大丈夫か?怪我は⁉︎」

 切羽詰まった様相で、矢継ぎ早に病澱の無事を確認する音楼。

 「だ、大丈夫。少しびっくりしただけ。怪我は……解らない。どうかな、どこか血まみれになってたりしない?」

 痛みを感じない体というのはこういう時に不便だ。病澱は最大限気をつけてはいるが、いつの間にか傷を創っていて、突然出血多量で死んでしまいました。なんて事態も起こりうるわけなのだから。

 「……僥倖だったな。たぶん無事だ」

 病澱の周囲をぐるぐると飛び回り、溜め息混じりに音楼は言う。

 肩を撫で下ろしつつ、質問。

 「何これ?」

 「……銃だ。拳銃。なんでこんな物騒なものが病院にあるんだよ。危ないから安全装置かけとけ」

 「どうやるの?」

 「引き金……内角のとこのレバーの近くにツマミがあるだろ?そいつを回せ。絶対にレバーには触るなよ?」

 病澱は言われた通りにした。暴発させた当人としてはもう二度と触りたくないような代物だが、音楼曰く「武器になる」らしい。

 身の危険を感じることなどないと思うが、保険をかけるに越したことはない。病衣の内に仕舞っておく。

 落ち着いたところで、二人は周囲の環境を見回した。

「おい、ヤオリ」

 「なに?」

 「この場所……本当に病院なのか?」

 「そうだと思う、けど」

 患者として、病澱はそう答える。しかし、歯切れはどうしても悪くなる。

 部屋の雰囲気は病院とはかけ離れていた。

 多種多様な薬品が並べられる棚が四方を囲み、顕微鏡だの遠心分離機だのの機械もちらほら見える。

 一見、病院として何もおかしくない光景。

 けれど、曖昧な根拠にはなってしまうが、言うならば空気が変なのだ。

 あえて形容するなら、その雰囲気は「研究所」。

 じわじわと、思い浮かんだ疑問が恐怖へと変貌していく感覚。音楼に言わせるなら、昼間の廃墟に一人きりでいる時のような、漠然とした不安感。

 「……行こう」

 「そうだな」

 それを掻き消すように、二人は部屋を出た。




例の如く、白い通路だった。

何かに気づいたように唐突に振り返り、

「そういえばヤオリ、お前ここに一人で住んでるのか?」

「まさか。先生と一緒だよ」

「先生?」

 まるきり知らない様子の音楼に、病澱は先生の存在をかいつまんで話した。

 「ロボットの医者、ね。そりゃまた奇っ怪な存在が出てきたもんだ」

 「珍しいの?」

 「珍しいも何も、俺の生きてた時代はロボットが実用化されてなかったからな。……って、ちょっと待ってくれ」

 不意に、音楼の声音が変わった。

 「そいつは今、なんで稼働できてるんだ?」

 「え?」

 困惑する病澱と対照的に、音楼は矢継ぎ早に疑念を飛ばしてくる。

 「ロボットが稼働するには当然、電気が……ああ知らないか……っと動力源が必要だ。解るか?」

 「うん、まあ……」

半ば被せるように、急きこんで音楼は続ける。

 「ところがだ。今、そのエネルギーはどこから来てる?人間は死滅したはずなんだろう?」

 やめろ。病澱の声にならない思考が、自然とそう叫ぶ。

 唯一、この世界で信用できた拠り所が、病澱の中で音を立てて崩れていく。

 それを止めたくて。どうしても信じたくなくて、反射的に、病澱は反論していた。

 「それは……先生自身が用意したんじゃないの?」

 「その先生とやらは医療ロボットなんだろ?そんなロボットに、自らのエネルギーを作るためのプログラムなんてあると思うか?『先生』っていうのは……本当にお前の味方なのか⁉︎」

 「…………っ」

 決定的な、決壊。

 自らを守っていた最後の砦が、跡形もなく無慈悲に崩落していく。

 絞り出した、病澱の反論が途切れる。

 「なにかやばい……。おい、この病院は何かがおかしい!」

 音楼の、内に残った冷静さを必死にかき集めたような叫びだった。病澱も落ち着けと自分に言い聞かせるが、雰囲気に流されて動悸が止まらない。

 普段ならなんとも思わない周囲の白が恐ろしい。この病院の白が、そして病澱自身の白髪が恐ろしい。

 おかしいのはこの病院?それとも病澱?

 どっちがどっちで解んない同じ白おなじおなじここはだれわたしはどこわからないわからないわかんないいっしょいっしょいっしょおなじおなじおなじおなじだれとわたしわたしはだあれびょうきあれいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいおちていくおちていくおちていくおちていくおちていくおちていくおちていくおちていくあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ           


だれかたすけて


 「アヤ?」

 「え?」

 声。

 無意識的な言葉の羅列が止まる。濁流のような錯乱の渦から、病澱は引き戻される。

 そこには。

 「せん……せ?」

 父親代わりの医者が、立っていた。

 それはちょうど、地獄に一本の蜘蛛の糸が垂らされたように。

 無根拠の温かい安堵が、胸に広がっていく。

 「先生、」

 「…………」

 心なしか、少し怒っているような表情の先生。だがそれはもうどうでもよかった。どんな叱責も甘んじて受けようと、病澱は駆け寄ろうとして。

「アヤ、ごめん。今すぐ逃げて」

「ヤオリ!危ない今すぐ下がれ!」

 そんな声が一緒になって聞こえた時にはもう、致命的なほどに遅すぎた。

 「え?」


 刹那、空間が一気に爆ぜた。


 白に染まった視界を焔色が埋め尽くす。熱感が体表を奔り、大きすぎていっそ無音に聞こえる大音響が鼓膜を揺らした。

 至近距離での、文字通りの殺人的な衝撃。

 それでも病澱がぐっちゃぐちゃの肉片になっていなかったのは、音楼が咄嗟に後方へと引っ張ってくれたからだった。

 爆風の煽りをくらって体が宙に舞う。天地が三回ほどひっくり返って、それから鈍い衝撃が腹にきた。地面に叩きつけられたのだと解った。

 病澱は理解が追いつかない。しばらく呆然としているうちに、もうもうと立ち昇る黒煙が晴れた。

 通路は吹き飛んでいた。必然と、病澱にとって初めて見る光景が、目に入った。

 その表現が適切かは解らなかった。けれど、病澱の持ち得る語彙でその風景を表すのなら。

 それはまさしく、荒野だった。

 地平線上まで続くアスファルトの上に山と載る、赤茶色の砂。その上に乱立する、壊れて崩れて錆びきった、建造物の残骸。くすんだ橙に輝く太陽。

 世紀末。

 滅んだ世界。

 「おいヤオリ、死んでないよな?」

 「……残念ながら、生きてるよ」

 その世界の忘れ形見である少女とロボットは、さながら幽鬼のようにゆらりと立ち上がった。くらつく頭を一つ振って、病澱は端々が焦げた病衣の前合わせを整える。

 「……まな板、」

 と、ぼそりと音楼が呟いた。対する病澱は、

 む?と懐疑的に目を眇めて、

 む、と言葉の意味に気づき、

 むぅ、と頬を膨らませた。

 「ばか」

 「すまんつい口が。……ところでアレがお前の言う先生か?聞く話よりも随分と素敵な御仁だな」

 「違う……先生はあんなことしないよ!きっと、誰かに操られて、」

 言いながら、しかしそれが取り繕った言い訳であるということを、病澱は痛いほど理解していた。

 何せ、先生を操る人間など、もういないのだから。

 それを解ってか解らずか、音楼は病澱の言葉を無視して言う。

 「……お前は目の前の危機をどう退けるかを考えろ。何をするにも、まず生きてなくちゃ話は始まらない」

 「……対症療法しか、ないの?」

 「何もしないよりはマシだ。来るぞ」

 もうすでに、先生は言語を失っていた。

 耳障りなノイズとともに、注射器の五指が二人に向く。

 「…………っ!」

 病澱が右に跳び退ったのと同時だった。

 ガガガガがががかかガッ‼︎と、注射器の驟雨が砂地に突き刺さった。しかし射出はそこで止まらず、勢いのままに火線が病澱へと追いすがる。

 「先生、私です!病澱ですよ!」

 「馬鹿野郎!」

 音楼が病澱に飛びつき、地面に押し倒した。直後、頭上を凶器の嵐が通り過ぎる。

 三たびの弾幕が来る前に、二人は転がり込むようにして、至近距離にあったコンクリート塊の背後に隠れた。

 「邪魔しないで!」

 「説得は諦めろ。…あいつはもう、殺戮人形とそう変わらないモノになっちまってる」

 「そんなことない!話せばきっと解ってくれる!」

 「それじゃあ今、あいつはお前に反応したか?」

 ぐっ、と病澱は言葉に詰まる。

 駄目だった。

目の前の現実を否定しなければならない。だのに、どうしても否定できない。

 「先生……どうして……?」

 「解らない。……ただ、お前の話だと、あいつはもっと平和主義者だったんだろ?だったら、何かのキッカケで『ああ』なった。そう考えるのが自然だ」

 「……!ならそれが解れば、」

 先生は、元の優しい先生に戻るかもしれない。

 述語が抜けた言葉だったが、音楼はゆっくりと頷いた。一縷の希望が、病澱に差す。

 「だが兎にも角にも、あいつが大人しくならないことには話は始まらない。あいつのことを助けたいなら、戦うしかない」

 その言葉尻と同時に、二人の背後のコンクリート塊に幾本もの注射針が突き刺さった。

 それはちょうど、岩に楔を打ち込むのと同じ。

 着弾点を起点として一本の罅が走り、真っ二つに割れたコンクリート塊は、その影に隠していた病澱と音楼の姿を曝け出す。

 「嘘だろおい⁉︎」

 「っ、ネロ!」

 病澱は音楼の躯体を掴んで咄嗟に走り出す。その足元に追従する掃射。

 手近に遮蔽物となりそうな場所は見当たらない。辺りを見渡し、少なくとも平地よりは安全そうなプラント設備へと、病澱は駆け込む。

 息が荒い。十数年も動かしていなかった病澱の体は、激しい運動に悲鳴をあげる。痛みとはまた別種の痛苦に耐えながら、入り組んだパイプの影で身を縮める。

 「無茶苦茶だぞ、おい……!」

 「まずいね。……戦うといっても、どうやってやり合えば」

 「あ?銃があるだろうが」

 「こんなもの先生に向けられないよ!」

 自分を殺しにかかってくる相手と相対するとしても、病澱はそれだけは譲れなかった。

 下手すれば、いや下手しなくても、先生は死ぬ。殺してしまう。

 「――ERROR」

 唐突にプラント設備に響いた声に、病澱は思わず身を竦ませる。先生の声。

「ERROREERRORERRORERRORERRORERROR」

 狂ったように何度も何度も同じ単語が繰り返される。

エラー。

異常。

 「何が……?」

 先生がおかしくなったのは部屋を出て行ってから。

 考える。

 それから何か、変わったこと。

 「……ネロが一緒にいることかな、」

 「いや、俺が同行してるとして、それで何で患者のお前を排除しようとしてるんだよ?あいつは医者なんだろ?」

 「そうなんだけれど」

 しかし、かと言っても一番の変化は間違いなくそれである。

 「そもそも、あいつの目的は何だ?俺を殺すことか?それともお前を連れ戻そうとしている?」

 「後者だったら文句を言いたいけどね。でもどっちにしても、今の先生は正気に思えない。まるで、何かに操られてるみたい…」

 病澱の人生の中で、先生は一度たりとも病澱を叱ったことはなかった。そんな先生がこんな行動をとるなど、明らかにおかしい。

 「というか、」

 音楼は、一瞬言い淀み、

 「あいつ……そもそも本当に『医者』なのか?」

 「え?」

 病澱は思わず腕に抱えているロボットを凝視する。

 前提が間違っている。

 頭をハンマーでぶん殴られたような衝撃だった。それに構わず、音楼は続ける。

 「ここは、病院に似て否なる場所だ。雰囲気だって変だし、設備もところどころおかしかった。何か、心当たりは?」

 そう言われても。

 つい今日部屋から初めて出た病澱には、心当たりなど――。

 いや。

 「……『方舟』って、」

 生命の保管。

 口から洩れたその言葉に、今までバラバラだった事象が、一気に線で結ばれていく。

 一つの、仮説。

 それなら、全ての辻褄が合う。

 「先生は、『管理者』――」

 「どうした?」

 「解った。解ったよ、ネロ」

 病澱は逸る気持ちを抑えて、静かに口を開く。

 「……先生のことを、私はずっと医者だと思ってたんだ。私を治療してくれていたからね。けれど違った」

 心臓がうるさかった。

 「先生が私を治療していたのは、私が『最後の人間』だったから。万が一にも死なせてはならない、貴重なサンプルだったから。先生は医者じゃない。……生命の管理者だったんだよ」

 「……どういうことだよ?」

 訳が解らない、と躯体を横に振る音楼。

 解るように、病澱は一つずつ説明していく。

 「あの場所にはね、先生が管理してる『方舟』って区画があるの。そこでは大量の種の遺伝子が保存されていて、たぶんそれは、人類が滅亡した時のための保険。それを管理しているのが先生なんだけど、その『管理する対象』というものに、私も含まれていたってことだったんだよ」

 病澱は人間の最後の生き残りである。先生からすれば、何よりも『保存』しなければならない対象だろう。

 あの病院は枯れた花から生まれ落ち、芽吹くのを待っている種子。

 そういえば、とある書に、こんな伝説があったか。

 アトラハシース、またの名をウトナピシュティム。もしくは、ジウスドラ。

 呼び方などどうでもいいが、多数ある中で病澱が用いる場合に使う名は「ノア」。

ノアの方舟。

「ってことは、あいつはお前を連れ戻そうとしているわけか。もしくは、こういう状況になったら強硬手段に出るとプログラムされてるのか。……話を聞く限りだと後者だな」

音楼の舌打ちが一つ。

「だとしたら……ああくそっ、最悪だ」

「どう、したの」

嫌な予感がした。根拠は無かったが、病澱は嫌な予感がした。ひたすらに嫌な予感がした。

「……いいか?一度しか言わないからよく聞け。あいつは今、正気じゃない状態だ。そういうプログラム、機械の本能に支配されている。そいつは力技でどうにかなるような代物じゃなくて――」

「やめて、よ、」

 その後に続くはずだった言葉を、病澱は無理矢理遮った。

聞きたくなかった。聞いたとしても、そんな現実を受け入れることはできそうになかった。

けれど音楼は、淡々と言う。

「つまりあいつはもうどうにもならない、虚無に繰られている殺人的な傀儡、なんだよ。直す手段は、人類が滅亡している以上、もう……」

「なら私が病院に戻る!そうすれば、先生だって目的を果たして元に、」

「無理だ。あいつ、今までは自分のプログラムの上に奇跡的に形成された人格があったんだろう。けど、今はもう、感情も何もないプログラムが表層に出てやがる。もう、何があろうと元には戻りゃしねえよ」

「じゃあこのまま逃げればいい!先生と戦う必要なんてもうなくなったよ!」

「断言する。今の俺たちじゃあ無理だ。背中を撃たれて終わり」

「そんな訳ない!」

「そんな訳あるんだよ」

諭すように、あくまで冷静に音楼は同じ事実を繰り返す。

先生はもう、殺すしかない。

死にたくなければ、殺せ。

「……できないよ、そんなこと…っ」

「何で、そんなにたかが機械にこだわるんだよ?」

「たかが機械なんかじゃない!先生は、先生は私の父さんなんだよ、」

理屈よりも速い感情が、病澱の口を急きたてる。しかし遅れてくる理性が、その声を減衰させていく。

そんなことを言う資格は、病澱にはない。

先生は機械。

 病澱は人間。

 二人を、どういう繋がりを以て結べばいいのか、病澱は解らない。

 けれど、それでも、親子なのだ。

 誰がどう言おうと、親子なのだ。

「だからこそ、お前が始末するべきだと、俺は思うがな」

「……どういうこと」

病澱は音楼を睨んだ。

これ以上この話題を続けるのなら、音楼であっても壊してしまいそうだった。

「あいつは、『ああ』なる前、ヤオリに向かって謝ってた。この状況はあいつにとっても不本意なんだよ。なら――娘のお前が逝かせてやるのが、もう戻ってこれないあいつへの唯一の手向けだろ」

「!それは……っ」

一瞬、そうかもしれない、と思ってしまった自分を、病澱は呪った。

できない。そんなことできやしない。音楼が言っていることがどれだけ正しいとしても、病澱は綺麗な間違いしか受け入れられない。

唇を強く噛む。

こんな時、先生がいたなら、なんというのだろうか、なんて、そんな皮肉なことを考えた時だった。

ゆるり、と。非生物然とした動きで、目の前のパイプの間から先生が姿を現した。

「ひぃぅ!」

色々な恐怖が体の中を錯綜して、病澱は変な悲鳴を上げる。

「走れ、ヤオリ!」

音楼に手を引かれて、縦横無尽にパイプが張り巡らせられた区域を走り出す。

背後からは、注射器が金属のパイプにがすがすと容赦なく突き刺さっていく金属音。

その一本が、ついに病澱の右腕を捉えた。

「っあぐ」

痛みはなくとも不快感はある。

声を洩らすのと同時、白い柔肌を難なく貫いて、注射針はそのまま錆びたパイプに病澱を磔る。

繋がるように、先生の魔手が迫った。

「あ、」

昔は、病澱を抱き抱えていたその手。それが、自分に向けて乱暴に伸ばされるのを見て。

解ってしまった。

解りたくないのに、解ってしまった。

ああ、もうあの頃には戻れないや、と。

子供は、親離れしなくてはならない。

 ならもう、できることは一つしかない。

 不快感を無視して注射器を引き抜き、皮一枚で先生の手を躱す。

 病澱は、泣いていた。

 何故かは自分でも解らなかったが、泣いていた。

 それでも平静を取り繕って、病澱は音楼へと拳銃を投げ渡す。

 「先生の上、パイプの接合部!」

 「了解!」

 突然の注文に、しかし音楼は難なく対応した。短いアームで受け取り、流れるように構えて、撃つ。

 轟音が何度もパイプ群に反響し、直後、それ以上の大音響が地面を揺らした。頭上のパイプが崩れ、周囲のパイプも巻き込んで崩落した音だった。

 その巨大な凶器たちは、その殺傷力を真下の先生へと振りまく。

 頑丈そうな金属のボディの下半身が、金属塊の直撃で一気に潰れる。

 それを横目にしながら、病澱は崩落を避けるために、パイプを足場にして一気に駆け上がる。

 最上段で、跳躍。

 「行け、ヤオリ!」

 「うん」

投げ渡された拳銃をキャッチし、落下するパイプらと一緒になって、病澱は先生へと落下する。

 「……先生は、果たして私のことを愛していたんですかね?まぁ、今となってはもう、解りませんが、」

 くすんだ太陽光が真上から降り注いで、錆びたパイプの破片に反射する。

 対空時間は思いの外、短かった。周囲で土埃が舞い上がるなか先生の胸に着地して、病澱は束の間、殺し合いの相手と対峙する。

 「でもですよ、先生。少なくとも、私はあなたを愛していました。本当ですよ?あなたが私をどう思っていようが、私はあなたが大好きだったんです。だから、恨んでください。構いませんから」

 自由になるには、痛みが伴う。

 要は、こういうことだった。

 照準を、合わせる。

「どうか、安らか……に……っ」

もう泣くまいと決めていたのに、目からは大量の涙が溢れた。声は情けないほどみっともなく震えていて、けれどそれでも滲む視界の中で、先生と目を合わせる。

引き金を、ゆっくりと引いた。

「……さよなら――父さん」

銃声は、改めて聞いてみれば意外にもしょぼく感じた。

 けれど、それでも一つの存在を終わらせるのには十分で。

眉間に撃ち込まれた弾丸が回路をずたずたに引き裂き、決定的に先生を殺し尽くして、後頭部から抜けた。

先生は、二度死んだ。

一度目は、機械本能に乗っ取られた時。

二度目は、殺戮人形として、たった今。

だから、きっと。

病澱が二度目に殺す直前に見た、あの切ない表情は、見間違いだったのだろう。




「……なあ、本当に良かったのか?」

「んー?何が?」

「お前が病院に留まらない選択をしたことだよ。わざわざ、こんな人のいない世界で生きようとしなくても」

 廃墟だった。

 荒野を抜けた先。朽ちたビルディングとそれに巻き付く蔓、灰色と緑の荒廃都市。

 呆れるような視線を向け、わざわざ安全を手放した病澱に音楼は溜め息混じりに言った。

「ダメだよ、あの病院は先生の墓標なんだから。罰当たりなこと考えるね、ネロも」

ステップを踏むように軽やかな足取りで歩く病澱は、振り向いて音楼に注意した。

けれど、正直に言えば、それは建前。

結局のところ、まだ見ぬ世界を知りたかっただけ。

もしかしたら、人間の生き残りもいるかもしれない。だが、できればいないままでいてほしい。だってそうすれば、世界を独り占めできる。何の意味もないが、そうだったならきっと楽しい。

病澱が求めるのは楽しさだ。

白く乾いていた人生を潤す、楽しさ。

もう、無邪気な子供ではないけれど。それでも、手を伸ばすのは、遅くない。

「ねえネロ、私、海が見たいな」

「海か。まだ残ってるか?いやそもそも、ここはどこだよ。日本か?いや外国だって可能性も……」

「つまり解らないってことね。まあ安心しなよ。常に左の壁に沿って歩けばゴールには辿り着くって本に書いてあったから」

「それ迷路の攻略法な」

的確なツッコミ。なるほど、強敵だ。

「しょうがない。ひたすら真っ直ぐ歩けばたぶん、行けるよね?」

「知らねえよ」

「わお辛辣」

病澱は苦笑する。

そういえば、他人とこんなに話したことはなかった。でも、悪い気はしない。楽しい。

「でもまあ、いいんじゃねえか?お前自身が考え、決めたことなら」

「そっか。なら行こう、ネロ。目指すは今日中の到達!」

「絶対無理な。それより野宿場所を探せ。夜になったら死ぬぞ?」

「うっそぉ⁉︎」

前途は多難。

けれどきっと、後悔だけはしないと病澱は思う。

病と澱ばかりの人生を、色鮮やかに彩って生きていく。そんな人生が、楽しくない訳がないのだから。


退院直前の女の子でしか得られない栄養素がある。

どうもリルです。

まあ夜中にこれを一人で書いている時点で、ひどく寒々しい響きなのですが。それはさておき。

物語はバッドエンドともハッピーエンドともつかない終わり方になっております。捉え方は人それぞれ。

しかし不動の事実は、病澱は可愛いということ。

それだけは譲りません。

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