ヴァルキュリアの休日
2024年の終戦記念日に。
何処までも白い景色、というのが最初の感想だった。そうか、私は死んだのだな。そういう不思議な実感が湧き上がってくる。
私がいる場所は、あまりにも平穏で違和感があった。死後は地獄に行くものだとばかり思っていたのだが。兵を率いて戦った私は、あまりにも多くの人間を殺してきたし、自らの部下も死なせてきた。まさか、ここが戦死者の館なのか。
「ああ、目覚めましたか。死後の世界へ、ようこそ」
声がしたので、そちらの方を向く。黄金の魂、としか言いようのない存在感があった。眩しくはないのだが周囲は白く輝いていて、相手の姿すら見えにくい。声から女性であるということは分かった。
「これは、これは。女神さま、という認識で良いのかな。これから私は、貴殿に生前の罪を裁かれて地獄へ送られる。そういうことだろうか」
「それが望みですか? だとしたら申し訳ありませんが、私にそんな仕事はないのです。ここに来る死者の罪は、全て清算されているのですよ。今の貴女は綺麗なゼロ、真新しい存在です」
そうか、私は裁かれないのか。それはそれで残酷な仕打ちのように思われた。何を抗議する権利も私にはないのだろうが。
「学がない私にも分かるよう、現状を説明してもらえれば、ありがたいのだが。今の私は肉体の無い、魂だけの存在なのだな。自分の身体も認識できないまま、ここで私は放置されるのだろうか」
「最初の疑問に答えていませんでしたね。女神なのかと問われれば、ええ、私はそういう存在です。そして私は、貴女を放置なんかしませんよ。ここに訪れた魂をケアすること。それが私の仕事ですから」
ケア、という言葉は良く分からなかった。きっと優しい仕事なのだろう。戦場で人を殺してきた、私の仕事の対極に位置している気がした。
「素朴な疑問なのだが、ここに来た死者は私だけなのか? ここが戦死者の館として、生前の戦場では数多くの死者が出た。それら大勢の魂で、ここはごった返ししそうなものだが」
「ああ、そこが気になりましたか。並行宇宙、という概念が説明には向いているのですけどね」
顔は見えないが、女神が笑ったことは声から分かる。ずっと話したくなるほど魅力的な声音で、海には歌声で船乗りを惑わす魔物がいると、そういう神話を思い起こした。
「貴女が先ほど指摘した通りですよ。仮に死後の世界が一つの館だとすると、そこに死者の魂が一斉に集まれば、混雑してしまうのです。魂に肉体はありませんから場所は取らないとしても、ワイワイガヤガヤと、うるさいことになりそうですよね。仲が悪い魂同士でケンカも起きそうです。そう思いませんか」
「そうだな。きっと私を嫌っている死者は大勢、いるだろう。とすると、ここでは別の仕組みが働いているのかな」
「ええ。簡単に言いますと、死者の数だけ並行宇宙というものがあると、そう思ってください。並行宇宙で分からなければ、とにかく大きな部屋や空間ですね。死者は一人ずつ、それぞれの部屋というか空間に案内されて、女神である私と対面するのです。今の貴女のようにね」
「そうか。私以外の死者は、別の神が担当しているということか?」
「と言うより、どの並行宇宙にも私は存在するのですよ。無数の私がいて、それぞれの部屋で、死者の魂は私と対面するのです。理解は難しいかと思いますが」
私は理解を諦めた。とにかく、今の私は女神と一対一で対面していると、そう分かればいいのだろう。
「先ほど貴殿は『ケア』と言ったな。貴殿は私に、何かをするということか」
「する、と言いますか、積極的に働きかける訳ではないのですよ。ただ私は貴女に寄り添って、回復を待つだけです。貴女という傷ついた魂の回復をね」
なるほど、女神とは崇高な存在のようだ。まさか私のような荒くれものを気遣うとは。
「そんなに丁重な扱いを受ける資格があるのかな、私に。人を傷つけ、殺めてきた戦士に」
「言ったはずですよ、貴女の罪は清算されていると。そうやって自分を責めるのは、貴女が傷ついている証拠です。心配ありませんよ、私が寄り添います。時間をかけて傷を癒しましょう」
光に目が慣れてきて、女神の顔を見ることができた。と同時に、私は自分の身体を認識することもできた。身体が無ければ歩くこともできないのだから、ありがたい措置ではある。私は魂だけの頼りない状態からは、どうやら脱したようだ。
女神は金髪で、美貌は人のものではない。その女神が、これも今になって見ることができた箱から何かを取り出してくる。
「お酒でも飲みませんか。ここでは、いくら飲んでも二日酔いになりませんから。クーラーボックスに缶ビールを冷やしてあります」
「ありがたいな。酒なら何でも、頂こう」
酒の入った容器を女神が開けて、私に手渡してくる。初めて飲んだ、その酒は実に旨かった。暑い戦場で飲めたら最高だっただろうと思いかけて、まだ私は殺し合いを望んでいるのかと嫌な気持ちになった。
「苦い表情、といったところですね。何を考えているか分かりますよ。ほろ苦い記憶も想いも、すべて飲み干してください。気軽に飲めるのがビールの良いところです」
「女神さまは何もかも、お見通しか。缶、というのか? 私と貴殿の容器は、色が違うようだが別物なのかな」
「ビールはビールなのですが、別物といえば、その通りですね。私が飲んでいる赤い缶はアメリカ産で、貴女が持っている銀色の缶は日本産ですから。色んな国のものを揃えてますよ」
「貴殿のもそうだが、私の缶には文字が書いてあるな。何か意味はあるのか?」
「会社名と商品名ですね。メーカー名は、『朝の陽ざし』という意味でしょうかねぇ」
「朝の陽ざし、か。いい名前だな、戦場では朝日を見るたびに生を実感したものだ」
死後の世界で酒が飲めるとは、まるで伝説のようだ。女武神は戦死者の館で、戦士たちに酒を振る舞うと聞いたことがある。身体があれば酒も飲めるのだから、ありがたいものだ。そこまで考えた後、ふと気になって私は尋ねてみた。
「なぁ、女神殿。貴殿は私をケアすると言ったな。ケアというのは、私の世話をするということで良いのかな」
「ええ、その認識でいいですよ」
「そうか。それで気になったのだが、世話というのは何処までを含むのかな。例えば……」
「性処理についてですね。問題ありませんよ。私で良ければ、いくらでも付き合います」
「そ、そうか。いや、今すぐという意味ではないんだ。その時は、どうか宜しくお願いする」
「ええ、喜んで」
光に目が慣れて、周囲の様子が分かってきた。と言うより、おそらく女神が周囲の世界を創り上げているのだろう。私と女神は野原にいた。何処の世界にでもあるような場所だ。草が生えている地面の上を、子どもだった頃の私が駆けまわっていたのを思い出す。あのまま平和に生きていければ、どれほど良かっただろう。
「静かだ。いいものだな、平和というのは」
野原の上で、仰向けに寝ながら私は空を見る。この青空も女神が創り出したものか。空に太陽は見当たらなくて、それも当然かもしれない。女神そのものが太陽であり、光なのだと感じられた。
「傍にいるのが私だけでは、すぐに退屈するでしょう。お望みなら貴女の、戦場で亡くなった仲間の魂を呼び寄せることもできますよ。死者同士の語らいも良いものです」
「そういう気分には、なれないな。私は人付き合いが良い人間では、なかったんだ。心が通じ合った奴もいたが、戦場で死なせてしまった……。私が、守ってやりたかったよ」
仰向けに寝ながら、空を見上げて私は泣いている。女神は嫋やかに、側へと腰かけて私の涙が渇くのを待っている。贅沢な時間が流れ続けた。
「いい景色だな。そばにある屑籠が無粋だが」
「ごめんなさいね、ビール缶を捨てる場所は必要なので。邪魔なら収納することも可能ですが」
「いや、いいさ。作法というのだろう? 環境を汚さないための配慮は確かに必要だ」
起き上がって、何杯目かの缶ビールを飲み干してから、私は缶を鉄で編まれた屑籠へ捨てた。ここでは何杯の酒を飲んでも気分は悪くならず、空腹を感じることもないそうだ。酒飲みの私には最高の場所だった。こんな待遇を受ける資格が私にあるのだろうか。
「今後のことですが、どうします? 転生して、異世界で第二の人生を過ごすプランもありますよ。生前の記憶を持ち越したまま、もう一度、同じ人生をやり直すことも可能ですし。過去も未来も、別の世界への移動も思うがまま、です」
「いや、いい。私の人生は終わったんだ。許されるなら女神殿と一緒に過ごしたい」
「そうですか、問題ありませんよ。輪廻転生を望まない方々も多いですからね。それはそれとして、タブレットでオリンピックでも見ませんか。今なら配信アプリで様々な試合を視聴できますよ」
「分からない単語ばかりだが。とりあえずオリンピックというのは、何なのかな」
「平和の祭典ですよ。様々な国や人種が、スポーツという競技で交流を深めるのです」
それは良いことだな。心から、そう思った。
「少し待ってくださいね、向こうにプールを創ります。あとはパーティーでも楽しみましょうか。私以外との交流も、貴女には必要ですよ」
あっという間に女神が地形を変えて、青い水が湛えられた施設を完成させる。これがプールというものか。その周囲には若い娘たちが現れて、わずかばかりの布で胸や腰を覆った裸身を晒していた。娘の一人が、私にブドウが載った皿を手渡してくれる。緑のブドウを一粒、口に入れてみた。
「旨い。何という品種なのかな」
「シャインマスカットですよ、最近のマイブームです。発祥地の国には転生もののラノベが多くて、私は気に入っています。さぁ、プールパーティーと行きましょう。衣服を水着に変えましょうね」
いつの間にか私と女神の衣服は、娘たちと同様の水着というのか、わずかな布に変わっていた。傷だらけの身体を見られるのかと思ったが、私の傷は残らず無くなっている。娘たちはプールで水遊びをしていて、私と女神もプール上に瞬間移動していた。
「大型のウォーターソファーですよ、暴れなければプールには落ちません。貴女は泳げますか」
「わ、分からない。泳いだことがないんだ、どうか私の近くにいてくれ女神殿」
「ええ、貴女が望むなら永久に。心配しなくても、ここで溺れ死ぬことはないですよ」
円形の大きな乗りものがプールに浮かんでいて、その上に私と女神は寝そべっている。水の上という状況が怖くて、私は女神にしがみつくような格好だ。彼女はタブレットというのか、小さな板で映像を見ている。落ち着かなくて、私は近くにあった皿からブドウを口に入れた。泳いでいる娘の一人が、私と女神に缶ビールを持ってきてくれて、ありがたく頂く。
「この娘たちは、女神殿の部下なのか? ずいぶんと従順で可愛らしいが」
「天使、と言って通じますかね。部下と言えば、確かに似たようなものです。彼女たちも貴女のケアが仕事ですから、気に入った子がいたら手を出してあげてください」
「いいのか、本当に?」
「ここでは、魂のケアと身体のケアが同義なのですよ。性処理もケアの一つです。乱暴なことさえしなければ、いくらでもどうぞ」
女神はタブレットを観ながら缶ビールを飲んでいる。何とも言えなくて、私も缶ビールを飲みながら空を見上げた。すると青空に、星の川のようなものが見える。
「女神殿、あれは何かな。星に似た煌めくものが、上から下へ、また下から上へも流れているように見えるのだが」
「ああ、良く気が付きましたね。あれは魂の川です。さっき言ったシャインマスカットの発祥地には、お盆という期間があるのですよ。その期間中は死者の魂が、一時的に生前の故郷へと帰るのです」
「そうか。帰る場所があるのは、いいことだな」
「今日は発祥地での記念日ですからね。終戦記念日、と言うんですよ。今は戦争で傷ついた魂が安らぐには、良い時期じゃないでしょうか。貴女も含めてね」
女神と共に浮かぶプールの上で、私は無垢な娘たちに囲まれている。私の仲間も、私が殺した者たちも、こうやって安らぎを得ているのだろうか。そうあってほしいと願わずにいられない。生前に憎み合うことしか出来なかった者たちが、微笑み合い、赦し合う世界。それがあると知れば、私という魂は真に癒されるというものだ。
「私の人生も、戦争も終わった。女神殿、私は今、この上なく幸せだ。もう誰も傷つけずに済むのだから」
「まあまあ。貴女はこれから、私と過ごすのですよ。時には痴話喧嘩でもして、互いを傷つけ合って、その後で癒し合いましょう」
生きるというのは、何かを傷つけ破壊することだろうか。だとしたら難儀なものだ。もう私は争うことに疲れた。今はただ、ゆっくりと休みたかった。
「まだ水は怖いが、プールパーティーとは良いものだな女神殿。誰も武器を持っていない」
「いつだって休暇というのは楽しいものですよ。永遠の休日を共に過ごしましょう」
戦死者の館や女武神の伝説を聞いていた者たちも、こんな状況は予測してなかっただろう。裸同然で、身体に布をまとっての水遊びだ。水上に浮かんだ私の側には女神がいて、プールでは天使たちが気持ち良さそうに泳いでいる。夢や幻としても、素敵な光景だった。
地上の世界でも為政者が武器を捨て、誰もが穏やかに過ごす、こんな景色ばかりが続けば良い。そう思いながら軽く目を閉じ、すぐに眠気がやってくる。女神が髪を梳いてきて、その感覚をひたすら私は愉しんだ。