前編
カーテンが宙を舞って、薄汚れた開いた窓からは、優しい光とともに夏の生暖かい風が送り込まれてくる。
窓の外を覗くと、一面に向日葵畑が広がっていて、さらに奥には大きな入道雲がそびえていた。夏を思わせるのはそれだけではない。アブラゼミ、クマゼミ、ミンミンゼミといった代表的な蝉達の声が響いている。
その時、一際大きく風が吹いた。その風を追って部屋の中に目をやる。まず見えたのは、木造の勉強机の上に置かれた分厚い国語辞典だ。左側には襖の閉じられた押入れがあり、床の隅には薄っすらと埃が積もっている。そして、部屋の中央辺りに目を向けた所で、俺は動きを止めた。
「チヨ、それ美味しい?」
俺が目の前の少女に向かって話しかけると、チヨ、と呼ばれた少女は微笑んで俺の方へ視線を投げた。
「うん、めちゃめちゃ美味しいよ」
ふふ、と彼女の口から息が漏れた。絹という言葉がぴったりなほど、細くなめらかな髪が、緑色の羽根の扇風機から吹く風でなびいている。美しい。反射的に思うのは、たった五文字の簡素な言葉。しかしそれは彼女を表すのに十分過ぎる言葉だった。
「トモちゃんはいつも食べるのが早いんだよ」
と手元のソーダ味のアイスに視線を落とす彼女。大きな瞳が、今はむっとしているのか少し細められていた。半分ほど食べられたアイスの傍の机には、俺のアイスの棒が無造作に置かれていた。
「しょうがないだろ、美味いんだから」
彼女の向かい側に座って、二人に挟まれた背の低い机に頬杖をついた。トンっと軽い音がして、それに反応した彼女が俺の方に顔を向けた。
「でも、私は一緒に食べたいんだもん」
ほんの少し、彼女の頬が赤くなったような気がする。色白な彼女は、少しの変化も分かりやすいのだ。
「……次からゆっくり食べる」
俯きながら答えると、彼女が吹き出す声が聞こえて、ぱっと顔を上げた。
「ふふ、トモちゃん顔真っ赤」
可笑しそうに笑う彼女。それに合わせて、髪がふわふわと揺れる。俺は眉間に皺を寄せて、さっきの彼女のようなむっとした顔を作った。
「言っておくけど、チヨも顔真っ赤だからな」
「えっ」
彼女は、目を丸くさせて俺を見つめる。さっきよりも顔は赤く染まり、耳の先も赤くなっていた。扇風機と外から吹く風で、髪は優しく踊っている。静かになった室内に、木々がざわめく音が入り込んできた。
「あ、当たり」
唐突に彼女が呟き、穏やかな沈黙は破られた。今度、えっ、と声を出すのは俺の番だった。
「マジ?やったー!」
思わず立ち上がりガッツポーズをしてしまう。しかし、すぐにその腕を下ろすことになった。
「あ……当たったのはチヨか……」
恥ずかしくなって、その場に座り込んだ。畳と服の擦れる音が俺と机の間で響いた。
「ううん、半分こしよ」
「えっ、いいの?」
「いいに決まってるじゃん」
彼女の優しさが心に沁みた。俺にとって、アイスは夏を乗り切る上で必要不可欠な物なのだ。
「そうだ!今から一緒に当たり棒交換しに行かない?」
「いいじゃん!行こ行こ!」
彼女の後ろ側にある扉を引いた時だった。小さな何かが俺達の方に飛んできた。きゃっ、という悲鳴が聞こえたあと、彼女が叫んだ。
「あっ、当たり棒返して!」
声につられて振り返る。机の上には真っ白な猫が立っていて、アイスの甘い匂いに釣られたのか、当たり棒を口に咥えていた。猫はいたずらに尻尾を振り、勉強机に飛び移ると、首元の鈴が俺達を煽るように小さく鳴った。
「こらっ、シロ!当たり棒返せよ!」
その言葉を聞いたのを最後に、彼は窓から飛び出してしまった。
早く追いかけなければ、彼はどこかに行ってしまうだろう。俺は靴を履くのも忘れたまま、窓から飛び出していた。幸いここは一階。怪我も怖さも感じることなく、外に出ることができた。
「待ってよ!トモちゃん!危ないって!」
一瞬振り返ると、窓から身を乗り出した彼女が俺を呼んでいた。前方に向き直ると、丁度シロが向日葵畑に飛び込んでいくところだった。俺も構わず、彼を追いかけて飛び込んだ。途中、葉や花弁が目に入りそうになって流石に足が竦んだ。それでも止まることはなく、彼を追いかけようと足を動かした。
「今だっ!」
突然彼との距離が縮まって、手が届く範囲になっていた。捕まえるなら今しかないと思い、彼の方へダイブする。
「捕まえた!」
手の中に、ふわふわした温かいものが触れる。一瞬、彼はなぜいきなり立ち止まったのだろう、という疑問が頭の中に浮かんだ。その問いの答えは、すぐに分かった。
彼を捕まえたのは向日葵畑の一番奥で、その先は一段低くなっており、小川が流れている。これはまずい、と思ったのと同時に、斜面を勢いよく転がり、そのまま川に突っ込んでしまった。
浅い川だったおかげで、俺もシロも溺れる事なく助かった。胸に抱きかかえたシロの口からアイスの当たり棒を取り、向日葵畑を通って家へと向かった。
少し歩くと、遠くから人影がこちらに向かってきているのが見えた。目を凝らして見てみると、チヨのようだった。
「トモちゃーん!大丈夫ー?」
走りながら彼女が尋ねてきた。彼女は急いで来てくれたのか、息が上がってしまっていた。
すぐ近くまで来ると、目の前の彼女が目を丸くした。
「わっ、びしょ濡れじゃん!どうしたの?」
「あー……川に落ちちゃって…」
抱きかかえたままのシロを撫でる。俺は背中から川に落ちたが、彼も少し濡れてしまっているようだった。チヨもまた、彼を撫でながら答えた。
「ありがとう、トモちゃん。二人共びしょ濡れだし、家に戻って着替えよっか」
彼女は顔を上げて微笑んだ。花が開くような可愛らしい表情に、頬が火照るような感覚を覚える。これなら、濡れた事も悪くないように思えた。
彼女の隣に立ってゆっくりと歩き出す。土を踏みしめる音が、俺達の周りを満たしていた。腕の中のシロも、走ったことで落ち着いたのか、今は小さく寝息を立てていた。
家に着くと、彼女は俺の部屋とは反対の方向へ駆けていった。ここは俺の家だが、何度も遊びに来ているので、間取りは知り尽くしているだろう、呼び止めはしなかった。
俺は自分の部屋に入り、部屋の一角に腰を下ろす。目を覚ましたらしいシロを撫でると、耳が横に倒れた。
「トモちゃん、タオル持ってきたよ!」
部屋の扉を少し開けて、チヨが顔を覗かせる。手には数枚のタオルが抱えられていて、俺やシロのために取ってきてくれたのだと分かる。俺は礼を言ってタオルを受け取り、代わりにシロを手渡した。俺が彼女に拭いて貰おうとしなかったのは、赤く染まった顔に気付かれたくなかったからだ。
身体を拭いて、新しい服に腕を通すと、柔軟剤のいい香りが俺を包み込んだ。もちろん彼女には部屋の外にいて貰ったから、着替え終わった事を伝え、再び部屋に入れるように扉を開いた。
チヨに濡れた身体を拭いて貰ったシロは、どことなく嬉しそうに目えた。羨ましいなと思ったけれど、そんな事は言えるはずもなく、彼女にありがとうとだけ伝えた。
「当たり棒取り返せたし、今度こそアイス交換しに行こうよ」
「うん、そうしようか」
彼女は俺に笑みを見せた。この笑顔を守る事が出来たのは、俺にとってこの上なく嬉しい事だった。
彼女がシロを床に降ろすと、彼はリビングの方へ走っていってしまった。俺は今度こそ、彼女はもう一度靴に足を通し、外に出る。さっきよりも平和な青空を見上げ、隣の彼女と一緒のタイミングで、一歩踏み出した。