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狼殿下とお飾りの聖女  作者: さんぴん茶の缶
お飾り聖女と侯爵家の崩壊
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 荒涼とした、という表現からどんな土地を想像しますか。

 私はなんとなく、渇いた大地と舞い上がる砂塵、赤い夕陽がそれらを染め上げながら沈んでいく場面などを思い浮かべます。ほんとに、なんとなく。

 クレム侯爵家の領地キャニングは、それらに当てはまらないものだった。

 王都から馬車に揺られて約一週間。キャニングに降り立った私は、街並みを見て些か拍子抜けした気分を味わうことになった。

 栄えているわけではないが、さほど悪くない。パステルカラーに塗装された家屋が立ち並んでいる様は、童話の世界のようで中々かわいらしかった。


 ──俺の目で確かめたことはない。が、ロデリックは昔こう話していた。キャニングを一言で表すなら“荒涼”だと。せいぜい覚悟していくといい。


 出立前、意地悪な笑みを浮かべた殿下からそんな忠告をされたものだから、必要以上に身構えてしまった。

 なーんだ、と気を抜いて笑っていたのが数時間前。

 過去に戻れるなら、未来は変えられずともあの瞬間の私に教えてやりたい。せめて靴は変えろと。

 そう、街自体はまったくもって荒れ果ててなどいなかった。

 荒涼としていたのは、クレム侯爵家の屋敷とその周辺だけ。

 てらてらと黒光りする沼地に取り囲まれたそのお屋敷は、荒涼というにはあまりに粘性のある陰鬱さを纏っていた。


「うわぁ……」


 唖然と口を開いて、とんでもない規模の邸宅を見上げる。威圧感の塊みたいな大きさで、視覚的な圧がすごい。しかし建物の規模は立派なものだけど、貴族に相応しい屋敷かと言われると、首を横に振るしかないだろう。

 屋敷の周辺は草が生い茂っていて見栄えが悪いし、外壁にも蔦が這いまわっている。庭園も荒れ気味で、門から玄関までの人目につくところを最低限整えているだけのようだ。全体的に、手入れの行き届いていない印象を受ける。

 侯爵邸?これが?……幽霊屋敷にしか見えない。

 ここに辿りつくまでの道も整備されていなかった。歩くのも一苦労だった荒れ道を思い出して無表情になってしまう。

 もう嫌な予感がひしひしとする。すでに帰りたい。


「……ベトベトする」


 なんといっても、この湿度。地獄をマイルドに表現すると、夏のキャニングになる。

 首筋から背中までじんわり滲む汗のせいで、肌着がぴたりと張り付いて煩わしいったらない。

 額に浮かぶ汗を乱暴に拭って、私は舌打ちした。

 こんなところで静養していたら余計に病状が悪化する。万が一、本当にロデリック様が臥せっているとしたら、即刻別の土地に移すべきだと進言したい。

 溢れ出そうになる文句を喉奥に押し込めて、私は屋敷を囲っている鉄柵へと近づいた。

 傍らに立つ、おそらく門番であろう厳めしい顔つきのおじさんに声をかける。普段より少し高めの、余所行きの声音で。


「こんにちは。クレム侯爵家のお屋敷はここであっていますか?」

「ああ、そうだよ。あんたまさか、ここまで歩いてきたのかい?」

「ええ」

「大変だっただろう。馬車を使えばよかったのに」

「こんなに遠いと思ってなかったんです」


 こんなに整備されていないのも予想外だった。

 おかげで靴は泥まみれ、おろしたてのモスリンのワンピースも、裾のほうに所々汚れが飛び散っている。淡いブルーの生地だから、泥跳ねの目立つこと目立つこと。


「それは災難だったな。次からはおとなしく馬車を使うといい」


 その言葉にうんうんと頷く。この道を徒歩で行くなんて真似は二度とすまい。

 おじさんは頭頂部から爪先までじっと私を眺めた後、軽く咳払いした。


「さてと。新しく雇われた使用人ってのは、あんたのことかな?」


 私はゆっくりとまばたきをした。

 かすかに首を傾けて微笑む。無害で善良な人間に見えてるといいなぁと思いながら。

 願いは通じたようで、おじさんも愛想のよい笑みを返してくれる。眉間の皺はすっかり肌に刻まれているのか、全然薄くならなかったけど。

 少なくとも警戒はされていないようだ。


「はい。今日から住み込みで働かせいただく、アランといいます。どうぞよろしく」

「俺はトビーだ、よろしく。ああ、悪いんだが一応紹介状を確認させてくれ……はい、たしかに改めました。入っていいよ」


 驚くほど適当に紹介状に目を通すと、トビーはさっと門を開いた。

 あまりにも呆気なくて、逆にまごついてしまう。もっと厳重に検査しなくてもいいのだろうか。


「そんなに身構えなくても大丈夫。ちょーっと見てくれはあれだが、中はそれなりに綺麗なお屋敷さ。安心しな」

「……ありがとう」


 気後れして立ち尽くす私に何を勘違いしたのか、トビーが的外れな励ましを送ってくる。

 なるほど。彼は気さくな人だけど、職務にはまったく忠実ではないらしい。私にとってはありがたいことだ。

 曖昧にお礼を告げて、私は屋敷に向かって歩を進めた。



 まことに不服ではあるが、この度クレム侯爵邸で住み込みのメイドとして働くことになった。

 殿下の使いとして堂々と訪ねても、ロデリック様に会わせてもらえない可能性の方が高いからだ。

 具合が悪いから面会謝絶なんてことも大いにあり得る。それではこんなところまで出向いた意味がない。

 だからこそ聖女の身分を隠し、使用人として館に潜り込むことを決めたのだ。

 無論、殿下が。

 つまりロデリック様の置かれた状況を確認するまで、私はあくせく労働生活なのである。これから始まる毎日を想像するとうんざりした。

 肉体を酷使するタイプの労働が大嫌いな私にとって、あまり楽しい生活とは思えずひそかに涙。まあ、頭脳労働も苦手なんだけど。

 日が沈む頃に目覚め、ダラダラとベッドで時間を浪費し、ご飯を食べるためだけに布団を抜け出て、満腹になったら朝日と共に眠る生活がしたい。

 ちなみに私の設定は『下級貴族である父が事業に失敗し、一族揃って素寒貧の一文無しになったため、泣く泣く故郷を離れて出稼ぎに来た元箱入りの孝行娘』だ。

 この設定を作ったのは、当然のごとく殿下である。


『この設定……無理があるのでは?』


 至極冷静にツッコむ私の声など届いていないようで、殿下はノリノリで設定を盛っていった。盛りすぎなほどに。


『両親や弟妹達の食い扶持を稼ごうと、寝る間も惜しんで毎日必死に働いている健気な娘というのはどうだ』

『いやいやいや』

『慣れない内職にも励み、少しでも家計を助けようと必死で頑張っているわけだ』

『んなわけ』

『あとはそうだな……稼いだ賃金のほとんどを故郷に残してきた両親に仕送りしているんだろうな』

『いやあの……無理、ですよね?』


 私と正反対の人間をでっち上げないでほしい。

 事業失敗によって没落した貴族の娘という設定は良いとして、性格は私の素に近いものにすべきだろう。じゃないといざという時ボロが出る。


『働くのは嫌いで隙あらばサボるとか、そういう感じにしてもらった方がバレない気がしますよ』

『内情を探るのなら、好感が持てる人物像を練った方が活動しやすいだろう』


 それはつまり、私は人に好かれないタイプということですか?


『たまには汗水たらして働いてみろ。そして労働の尊さを再確認してくるといい』


 あの憎たらしい笑顔!

 胃がムカムカする。脛を蹴り飛ばしてやるべきだったかも。

 だいたいあの人はいつもいつも──なんてお決まりの文句を思い浮かべたあたりで我に返る。

 いけない。いつの間にかすっかりしかめっ面になっていた。この調子では先が危ぶまれる。

 “任務”を長引かせたくないし、失敗なんてしようものならネチネチ嫌味を言われるだろう。冗談じゃない。

 うまく内偵できるよう、もっと感じの良い、純朴なお嬢さんに成りきらなくては。

 一瞬たりとも気が抜けない生活がこれから始まるのだ。

 泥濘じみた未来にずぶずぶ沈む心を、顔に貼り付けた明るい笑みで隠して、私は屋敷の扉を叩いた。

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