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「お前、ちょっとロデリックの様子を見てきてくれないか」
そこに置いてある砂糖瓶取ってくれないか?みたいな気軽さで頼むことではない。
ふぅ、とわざとらしく溜息を吐いて。
私は茶菓子を口に放り込むと、視線を横に逸らした。
窓ガラスの向こうに広がるのは澄み切った青空と、はるか遠くに浮かび上がる稜線。開いた窓から時折吹き込んでくる乾いた風が、ふわりとドレスの裾を揺らす。
地上の楽園と称される、レヴァン王国の王宮植物園。その一角にある、荘厳な石造りの塔の最上階。
ここは、限りなく天に近い場所に存在する温室だった。
天窓から射し込む陽射しが色鮮やかな花々を柔らかく包み込んでいる。室内には胸いっぱいに吸い込みたくなるような、うっとりする芳香がそこかしこに漂っていた。どこからか軽快な鳥の鳴き声が聞こえてくるのも風情がある。
楽園とは、言い得て妙だ。
非常識な高さと過剰なまでの美しさで粉飾された空間を、そう呼びたくなる気持ちも分からなくはない。
今の私にとっては、拷問部屋にも等しい空間だけど。
「……お空、きれい」
現実逃避にいそしむ私の耳に、不機嫌を隠さぬ低い声が届く。
「俺の頼みを無視するとは、お前も偉くなったものだな」
「偉いですよ、そこそこ……いや、すごく?偉いです」
「俺はもっと偉い」
そうでしょうとも。
あなた以上に偉いひとなんて、この国には一人しか存在しません。
「王子様ですもんね」
けっ、と吐き捨てて。
全力で逸らしていた目を、しぶしぶ正面に戻す。
私の前には豪華な茶器が置かれたテーブル。挟んで向かい側の席でふんぞり返っているのは、炎のような赤髪の男だった。
「そうだ」
いじける私を冷やかに取り澄ましたな顔つきで睥睨して、ルドルフ殿下が尊大に頷いた。
この国の統治者である王の次に高貴な身分の男性、つまりは王子であらせられるやんごとなきお方。本来なら、私なぞ言葉を交わすことはおろか、同じ席に着くことすら許されない立場にいる人。
そう、本来であれば。
「でも──いまは私だって聖女ですよ」
心持ち胸を張って、威厳たっぷりに見えるようツンと顎を上げる。
「だから?」
「……一応、この国の宗教指導者なのでぇ」
敬意とかあってもいいんじゃないですかと、視線で訴えてみる。
もちろん、返ってきたのはあからさまな嘲笑。
「一応、な」
これ以上ないくらい馬鹿にしてる顔。腹立つなぁ、もう。
残念ながら反論できるわけないので、口をつぐむしかない。
けどですよ、聖女という立ち場は少なくとも、顎で使える便利な雑用係ではないはず。たぶん。
「それをこんなにこき使って良いと思ってるんですか?」
「当然、思っている。お前を聖女に推薦したのは、他でもないこの俺。お前は所詮、教会に籍を置いているだけの小間使いにすぎん。俺の手足となってキリキリ働き、貢献し、価値を示せ」
「……騙された。詐欺です、詐欺。聖職、それも聖女なんて今となっては閑職のようなものだから、着飾ってニコニコ笑っておくだけでいい。そう言われたから、こんな都会に下りてきたのに」
「はて。そうだったか、記憶にないが」
「んまっ!しらじらしい」
くっと唇を歪めて悪辣に笑う男に、一発ぶち込んでやりたい。しかし悔しいけれど、目の前の悪人は王子であると同時に、王国で一、二を争う武人でもある。
負ける。拳を振り上げた瞬間に、首と胴体がお別れしてしまう。
暴力的手段では勝ち目がない。あとは呪い、それくらいしかない。
「神託が下りました。殿下は今後数週間、謎の腹痛に襲われたり、クローゼットの角に小指をぶつけたり、五本同時に指を扉に挟んだりします。神が告げています」
「馬鹿も休み休みにしておけよ」
恐ろしく高圧的な目でじろりと睨まれてしまえば、亀のように首を引っ込ませざるを得ない。これ以上余計なことを言えば、本当に首と胴体が泣き別れすることになりそう。
私は素早く口を閉じると、右手を挙げて恭順の意を示した。
それでいいとばかりに頷き、殿下は口火を切った。
「では、聖女に折り入って頼みがある」
「聞きましょう」
背筋を伸ばして居住まいを正す。
殿下の顔つきからして、まじめな話をする気らしいから。
「先程も伝えたが、お前にはロデリックの様子を見てきてもらいたい」
「ロデリックって……あのクレム侯爵家の嫡男であらせられるロデリック様ですよね?」
「それ以外にいるか?」
「そのロデリック様の様子を確認してこいと、私にそう仰るんですね?」
「そうだ」
「断固拒否です」
「拒否権はない」
「嫌ですよ!」
バンッと両手でテーブルを叩いて立ち上がる。
ティーポットがぐらぐら揺れるのもお構いなしで、私は叫んだ。
クレム侯爵家といえば、この王都からそれなりに離れた湿地帯に屋敷を構えていたはず。湿地帯。よりにもよって。
沼地から人骨が出てきたり、川からワニが這い上がってくるかもしれない。田舎だもの。どんな危険に襲われるかわかったものじゃない。
そんなところに一人で行くなんてご冗談を。
そして、なにより。
「王家とクレム侯爵家の仲は、あまりよろしいものではなかったと記憶していますが」
「良くない、激烈に悪い。祖父の代から犬猿の仲だ」
「その犬猿の相手のところへ私を送り込もうと?」
「不仲だが別に敵というわけではない。それに犬猿とは言ったが、俺とロデリックは別だ」
「どういう関係なんです?」
「友人」
「ゆ、う、じ、ん?」
衝撃的だ。
あまりにも驚いたせいで、眼球がこぼれ落ちる限界まで目を見開いてしまう。
「殿下とお友達になれる人がいたなんてびっくりです。もしかして一方的な勘違いなんじゃないですか?」
「……」
「あ、嘘嘘ごめんなさい」
殿下の手が腰に吊り下げられた剣に伸びた。慌てて謝罪する。
柄に絡みついていた指がゆっくり離れていくのを確認して、安堵のため息を吐いた。
今日の殿下はご機嫌ななめらしい。普段よりも堪忍袋の緒が短くなっているようだ。
「友人なのはよーく理解しました。でも、どうして私にそんなことを頼むんですか」
「ロデリックは寄宿学校時代の同輩なんだ。卒業してからも連絡は取りあっていたんだが、ここ半年は音沙汰なしだった。どうも生きてはいるようなんだが、いきなり便りが途絶えたことが気がかりでな」
あなたとの友人関係に嫌気がさしたのでは?
なんてことを考えるが、心の内に秘めておく。
「お前が何を思ったかは想像に難くないが、黙っていたことは褒めてやる。なめ腐った態度はいつものことだが、程々にしておいてもらわないと困るぞ。うっかり手が滑りかねんからな」
薄っすら微笑んで、殿下は剣をゆっくり撫でた。そんなふうに人を脅すから、私に友人関係を疑われるのだ。
「まあ、生憎だがその線は薄いと言っておこう。縁を切るにしたって、もう少し角が立たない方向で離れていくものだろう、普通なら」
普通という単語に強めのアクセントがついていた。含みのある物言いに、うんざりして目を泳がせる。
やはり脊髄反射で否を伝えた私の判断は間違っていないということだ。
「そんなに妙な途絶え方だったんですか?」
「ああ。最後の手紙には、近々王都を訪れる予定だからその時会おうとか書いてあったが、それきりだ」
「え、それでいきなり?」
「音通不振だ」
ふむ、と顎に手を当てる。たしかに妙だ。
嫌気がさしている相手に、わざわざ会おうだなんて言ったりしないだろうし。
「ご病気で臥せっているのでは?」
「そうだな。侯爵家に問い合わせたところ、ロデリックは実家で病気療養中との返答を受けた。あいつは昔から病弱な奴だったからな。療養というのは納得がいく」
「なら──」
「だがそれを理由に連絡が途切れることはあり得ない。流行り病で高熱に魘され死にかけたときですら、ロデリックは便りを欠かさなかった。筆まめなんだ。そんな男が半年も音通不振とはいささか妙だろう」
たしかに。
「本人がペンを取れないほど体調が悪かったとしても、使用人や家族に代筆を頼むくらいはできそうですしね」
私の言葉にフンと鼻を鳴らして、殿下は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに片手を振った。
「あいつが代筆を頼むような相手は、あの土地にいない」
力強い断定だった。またしても、含みのある物言い。
思わずぱちりと目を瞬かせるが、殿下は素知らぬふりで続ける。
「しかし。つい先日、ロデリックを名乗る輩からの手紙が届いた」
「その言い方だと、手紙を書いたのは本人じゃないって殿下は思ってるんですよね?」
「ああ」
殿下はにやりと唇を釣り上げて獰猛に笑うと、懐から取り出した便箋をこちらに滑らせた。
差出人はロデリック・クレム。宛先はルドルフ殿下になっている。
これといった特徴のない、クリーム色の封筒だ。天窓から降り注ぐ陽射しにかざせば、透かし彫りされた侯爵家の家紋が浮かび上がる。
「それはクレム侯爵家で公式に使用されている封筒だ。文通していた数年間、やつがこれを使って手紙を送ってきたことはない」
殿下は見えない敵を睨みつけるように、スッと目を細めた。
「筆跡はよく似せていた。内容も一見おかしなものではなかった。けれど俺にはわかる。それを書いたのは別人だ」
「その根拠は?」
「確たる根拠はない。だが──」
私の質問に、殿下は打って変わって穏やかなまなざしになった。どこか遠くを眺めるよう目で封筒を見ると、ちいさな声で呟く。
「わかるさ。あいつは一度だって、俺に敬語を使ったことがないからな。不敬な奴なんだ」
懐かしいものを慈しむ声音だった。
私は折り畳まれた便箋を広げて、ざっと手紙を流し読みする。
長らく返信が出来なかったことへの謝罪と、体調が悪化したため領地にこもって静養しているとの旨が丁寧に綴られていた。敬語で。
「……怪しすぎませんか」
「だから確認してこいと言ってるんだ」
「わざわざこんな手紙を偽装するくらい、隠したい事情があるんでしょうね」
「だろうな。その封筒を使ったということは、おのずと容疑者は絞られるが」
むすっとした顔で殿下が言った。
「侯爵家の誰かがロデリックの名を騙り、この俺を欺こうとふざけた手紙を送りつけてきたわけだ──俺はその侮りを許さない」
今日の殿下がやたらと短気だった理由が判明した。つまり最初からぶちギレだったんじゃないですか。
一言一言に、物凄く怒っていますという感情が重々しく乗っていて、聞いているこっちの肌がぞわぞわする。
ふ、と笑みが溢れた。苦笑だ。
面倒ごとからどうあっても逃れられないという諦めに、肩の力が抜ける。
だらしなく椅子にしなだれかかった私へと、殿下は容赦なく告げた。
「行けるな?」
「……ご命令とあらば」
「何を言う。これは個人的な頼みだ。くれぐれも頼んだぞ、聖女殿」
ああ、と重いため息が出る。
頼み事をするのなら、もう少し低姿勢でお願いします。