魔法は自然解凍で卜ける日を待っている
高校が自由登校期間に入ると同時に、私は数週間前から計画していた弾丸訪問を実行に移すことにした。『どうしても祖父の元奥さん達に会いたい』…、その意思を親族に伝えると、父とその姉妹は苦い表情を浮かべながらも、唯一知り得ていた【三番目の奥さん・歌乃さん】の住所を私に教えてくれた。恐らくは、私が反対を受けようとも自力で会いに行ってしまうと予見してしまったのだろう…。父と伯母は《住所》の他に…携えておくべき《家族の履歴》を私に伝えて、『失礼のないように』と念を押す形で私を歌乃さんの元へ送り出してくれた。
横浜駅から電車に乗り、二時間程で辿りついた歌乃さんの居る町は、伊豆半島にある…海の綺麗な観光地だった。叔母の恵さん曰く、歌乃さんはこの地で一人…弁護士資格を活かしたコラムを執筆しているとのことだった。元親族とは言え、初対面も同然…。多少の不安は当然あったが、私は確固たる信念のまま…歌乃さんの住む家を目指し、単身で河津駅へと降り立った。
-(2月なのに桜が咲いてる…。屋台も並んでるし、如何にも観光地って空気だなぁ…。)-
駅のホームから見えた景色に、私は少し心を奪われていた。早咲きで有名な河津桜が背景となり、人々が並木に沿って歩く姿は、見ているだけで高揚感が高まった。だけど…、私にはそれを楽しむ時間が無かった。電車の本数が限られていることに加え、歌乃さんにアポイントなどを一切取っていなかった私は、この後の時間に"余裕"を得られていなかった。なので私は『とにかく無駄な時間を省く』ということを意識して、この弾丸訪問を遂行させようと考えていた。
私は駅から見える景色を1,2分で堪能し終えると、気持ちを切り替え…歌乃さんの家に向かって歩き始めた。スマホのナビに従って進んでいく道は、交通量こそ多いものの…観光とは関係のない通りに思えた。そうして10分程で目的地に到着したのだが、そこにあったのは私の想像していたものとは違う、何の変哲もない…いたって普通の民家だった。
-(観光地って聞いていたから、"これぞ別荘"…みたいな家に住んでるのかと思っていたけど、田舎によくある只の平屋だ…。)-
私は《郵便受けに記されていた番地》と《教えてられた番地》を見比べ、目の前にある家が歌乃さんの住居で間違いないかを入念に確認した。玄関横には、その古めかしい外壁とは不釣り合いに思える高性能インターホンが設置されていて、私は恐る恐るそれを鳴らし…相手が対応してくれるのを深呼吸をしながら待った。
「はい…、どちら様でしょうか?」
「…っ。突然訪問してしまい申し訳ありません。私は平山と言うのですが…、祖父の平山友一についてお話したいことがあり、こちらを訪ねさせて頂きました。少しで構いません…、私にお時間を頂けないでしょうか?」
「平山…。あなたは和也君のお子さんですか?」
「はい。叔母の恵さんから、こちらの住所を教えて頂きました。」
「……分かりました。少々お待ちください。」
とても丁寧な対応を受け、私の言葉遣いも自然と硬いものになってしまった。かつて自分の家族であった私の父を『和也君』と呼ぶことに、少しだけ違和感を感じはしたが、そこに歌乃さんの温厚な性格が表れているのも事実だった。
その場で10秒程待っていると、家の中からこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。扉のすりガラスに人の影が写り、いよいよ歌乃さんと対面する時が来たんだ…と、私の心臓は緊張を促すように高鳴り始めた。鍵を開ける音が聞こえ…ゆっくりと開いた扉の先には、黒のハイネックにパンツスタイルという、とても上品そうな女性が立っていた。
「こんにちわ。……。和也君の長女…という認識で合ってるでしょうか?」
「はい、ご無沙汰しております。」
「『ご無沙汰』だなんて…。私と会った記憶は、あなたには無いはずですよ?」
「はい…。それでも初対面ではないと聞かされていたので、こちらが正しいかと。」
「ふふっ…、随分と大人びた考え方ですね。とりあえず中へお入りください。きっと遠くからいらっしゃったんでしょ?大したおもてなしは出来ませんけど、立ったまま話をさせる訳にはいきませんので…、どうぞ。」
「ありがとうございます。では…お邪魔します。」
玄関に入って見えた光景は、外からの見た目と違って…洋風の造りの綺麗な内装だった。季節的にコタツがあってもおかしくなさそうな外観なのに、私が通された部屋はソファとガラステーブルの置かれた…まるで応接間のような場所だった。
-(リノベーション…なのかなぁ。無駄のない、凄く綺麗な部屋…。)-
座って待っているよう伝えられた私は、手前にあったソファに腰を下ろし、そわそわしながら一人で内装を見渡していた。しばらくすると、2人分のお茶を携えた歌乃さんが、ゆっくりとした足取りで部屋へと戻って来て、私の正面にあったソファに腰を下ろした。そしてお茶の入った湯呑を私に差し出し、
「伊豆名産の緑茶なんですよ。是非味わってみて下さい。」
…と、口を付けやすくするような一言を添えて、優しく私に微笑みかけてくれた。
「ありがとうございます。…頂きます。」
そう言って一口含んだその緑茶は、濃厚なのに苦みの少ない味わいをしていて、普段あまり緑茶を飲まない私でも…するりと飲んでしまえそうだった。2月の海風を浴びながら移動してきた私にとって、潤いと温かさを得られるこのお茶は、とてもありがたい一杯となった。
「…それで、和也君のお子さんがどうして私の元へいらっしゃったんですか?先程『祖父についての話』とはお伺いしましたけど、わざわざ孫であるあなたが…足を運ばなければいけないことだったのでしょうか?」
一服したあと、歌乃さんはとても柔らかな口調で私にそう問いかけて来た。初めての対面で、私も緊張はしていたが、その問いには正しく答えなければいけないと思い、姿勢を正し直して…ここに来た経緯を改めて説明することにした。
「一カ月程前、闘病中だった祖父が亡くなりました。祖父は過去に三人の女性と結婚したと聞いていましたが、祖父の葬儀に参列した人の中にその人達は一人も居ませんでした。……。失礼なのは重々承知です。でも私は、元奥さんである歌乃さんから、葬儀へ参列しなかった理由を直接聞いておきたかったんです。」
「都合が悪かった…、そんな言葉であなたは納得出来ないということですね?」
「はい…。私は祖父がどれだけ素敵な人かということを知っています。真摯に人を愛し、守り抜けるだけの度量を持ち合わせていました。私は祖父が家族に対して酷いことをしたとは思えないし、愛されてなかったとも思えません。それなのに、どうして過去に結婚した人達は、祖父の元を離れ…最期の姿を見てくれなかったのか…。それが気になって仕方がないんです。」
「あなたは本当にあの人のことが大好きだったんですね。」
「はい…。生まれ変わった先で、また私と出会ってくれないかと願うくらいに、私は祖父にことが大好きです。」
誤魔化しのない…歌乃さんの正直な答えが欲しい…。そう思っていた私は、自分の正直な気持ちを伝えることで、私がどれだけ真剣であるかを分かってもらおうとした。離婚した相手にここまで熱弁するのは、はたから見れば可笑しな行動に見えたかもしれないが、祖父への愛が大きかった私には"歯止め"といものが効かなかった。
多少煙たがられるのは覚悟の上だった。だけど…、私が思いの丈を語り終わったあとの歌乃さんの顔は、何故か悦に入るような笑顔を浮かべていた。
「そうですか…。だったら私が葬儀に参列しなかったのは、やはり間違いではなかったということになりそうです。」
「それは…、どういうことですか?」
「あなたは友一さんの二番目の奥さん…、つまりあなたの血の繋がった祖母について、何か聞いていますか?」
それは正に、私が先日知ったばかりの《家族の履歴》についての問いだった。
「はい…。ここへ来る前に父と叔母から教えられました。勤め先の病院で起きた医療事故…、その原因として仕立て上げられて無実の罪を着せられそうになった…と。世間のバッシングから家族を守る為に、祖母の伊吹さんは祖父と離婚したと聞かされました。」
「そうです。刑事事件として起訴こそされませんでしたが、それで全てが解決する訳ではない。伊吹さんは自らの潔白を証明する為…、弁護士である私を頼った上で戦い続けました。だけどその間も…、ヘイトというものは集まり続けます。伊吹さんは私に『家族を安全な場所に移して欲しい』と頼み、自らはそこへ戻らないことを決めました。そうして長い時間を掛けた調査の末…、私は伊吹さんの潔白を証明した。ここまでは理解しているんですね?」
「はい、父が言ってました。歌乃さんは調査と称して自宅に来る度に、自分と姉のことを気にかけてくれていたって。それで気が付けば家族になっていて、妹も生まれて五人家族になった…と。」
「ええ。五人での生活は間違いなく幸せでしたよ。だけどそれは、私が伊吹さんから掛けられた魔法のお蔭だったんです。」
「…魔法?」
複雑…且つ現実的な話から一転し、歌乃さんは唐突に幻想的な言葉を口にし始めた。私はその言葉に疑問を浮かべることしか出来なかったが、歌乃さん本人はどことなく嬉しそうにしながら、その『魔法』という言葉を使っていた。
「愛を循環させる魔法…。私は伊吹さんが家族に注いでいた愛情を、気づかぬ間に受け継いでしまっていたんです。それはこの上ない幸せの時間で、愛することと愛されること…、両方の大切さを知ることになりました。だけどあるとき、私はこの魔法が自分の為に掛けられた魔法ではないことに気づきました。だから私は伊吹さんと同じように、居なくなることでその魔法を他の人に譲ることにした…。それが私が友一さんと別れた理由です。分かってもらえました?」
歌乃さんは手振りを添えた状態で、その『魔法』について説明をしてくれたが、その説明には明らかに主語が足りておらず…、当時を知らない私では瞬時に理解することが難しかった。
「えーっと…、すみません。譲らなければいけない理由も…、誰の為の魔法なのかも…、私には分からないのですが…。」
「ふふっ…。まぁそういう反応になるでしょうね。なんせ…、自分が愛された瞬間なんて、自分自身では見えないですから、気づかないのも当然でしょう。」
「え…?」
そう言って私を見つめる歌乃さんは、ここに来て初めて見せる情愛に満ちた瞳をしていた。
「さっきは『愛を循環させる魔法』って言いましたけど、言い換えればそれは友一さんに『愛することを忘れさせない魔法』だったんですよ。つまり、友一さんに【愛する人物】が居さえすれば…、あとはそれを一点に集中させるように、余計な人物を退場させればいい。そうして私達が離婚したのが18年前…。ここまで言えば、もう分かりますよね?」
「……歌乃さんは、私が生まれたからゆーいち君と別れたってことなんですか?」
「あら、実の祖父を愛称で呼んでいるだなんて…、やはり私の勘は間違ってなかったみたいですね。……そうですよ。私は友一さんがあなたのことを愛するだろうと確信したから、この身を引くことにしました。子供も全員成人してたので、これ以上…私に出来ることはありませんでし、愛情も余る位に頂きました。私としては何の未練もない結婚生活でしたよ。」
その満足気な表情から、歌乃さんの言葉が偽りではないということは私にも理解出来た。だけど、それはあくまでも歌乃さんの見解による"身の引き際"であって、双方が合意した下で"関係を切る"に至れるものなのか…と、私は疑問を抱かざる負えなかった。
「歌乃さんを…、祖父は引き止めようとはしなかったんですか?」
「ええ。『今までありがとう』と感謝こそされましたけど、引き止めることはされませんでした。きっと友一さんも気づいていたんだと思います。愛は永遠を願うものではなく、新たな愛を生み出す為に…受け継がれるものなんだと。だから私は葬儀には行かなかった…。心の卓と書いて"悼む"と呼ぶ…。あの人の心が残る場所は、私の側なんかではなく…最期に愛した人の側であるべきなんですよ。」
歌乃さんは、一度自身の胸に当てたその手を、私に差し出すようにしながらそう語った。
『心が残る場所』…、その言葉を聞いた私は、そっと目を瞑り…遠い日の記憶を思い出そうとした。
-(そっか…。その言葉に納得しなければいけないのは、他の誰でもない…、私だ。)-
「話を聞かせて頂き…ありがとうございます。あの、図々しいお願いではあるのですが、もう一つだけ歌乃さんに聞きたいことがあります。伊吹さんが今どこにいらっしゃるのか…、歌乃さんはご存知ですか?」
「ええ、知っています。でもそれは私が弁護士として得た情報なので、例え家族であろうともその情報を洩らす訳にはいきません。伊吹さん本人にも、『家族には言わないで欲しい』と硬く口止めをされています。」
「そう…ですか…。」
-(ここで詰み…なのかな…。歌乃さんが口止めされているということは、自力で調べてもヒントすら出てこないかも…。)-
伊吹さんの実の息子である私の父…、そして伯母の睦美さんも、その後の行方については何も知らないようで、ここで情報を得られないのであれば私の計画は終わりということになりそうだった。正直…、私が何としてでも会いたかったのは【二番目の奥さん・伊吹さん】だったので、落胆の表情が顔に浮かんでしまうのは自分でもどうしようもなかった…。
「……ですが、私個人が伊吹さんと連絡を取ることは可能です。もしよろしければ、私の方から伊吹さんにアポイントを入れてみましょうか?」
「…っ?」
落胆する私を見るに見兼ねたのか…、歌乃さんは悩まし気な表情をしながらも、そのような提案を私に投げかけてくれた。
「本当ですか!?」
「正直言って、あまり期待はしない方がいいとは思います。それでも…、あなた一人でここを訪れた気迫を思うと、私もじっとしていられないと言いますか…、きっとこれが私が友一さんの為に私がしてあげられる…最後の事なんじゃないかと思うんです。」
歌乃さんの言葉を聞いた私は、そこから思いがけない幸福感を得てしまい…、つい表情が緩んでしまった。
「ありがとうございます…。その…、協力してくれることも当然嬉しいんですけど、歌乃さんの口から『友一さんの為に』という言葉が聞けて…、私はとても嬉しいです。」
「ふふっ…。その笑っている顔を見ていると、初めて友一さんがあなたと面会したときのことを思い出します。生まれて間もないその手に、友一さんが恐る恐る指先で触れると…、あなたはその指をぎゅっと握りしめて、とても満足気に微笑んだんです。その瞬間に友一さんは大号泣。私はおろか…長女の睦美さんも、友一さんの涙はそのときに初めて見ました。だからつい興味本位で『いつぶりに泣いた?』…なんて聞いてしまったんです。そうしたら『最初の妻が亡くなったとき』って正直に答えたものですから、私はあなたが"愛する対象"になったんだと、直ぐに確信することが出来たんです。」
それは私が初めて知った、祖父の隠された表情だった。
「泣いた…、ゆーいち君が?」
「ええ。あなたにとっても意外でしたか?」
「はい…。泣いてくれていたなんて…、知りませんでした。」
私は驚きのあまり、"素"で想いを語ってしまっていた。
「きっと友一さんは、愛する人には涙を見せない様に生きてきたんだと思います。だけど、陰に見る涙の訳は…その愛する人の為だけだった…。別れたとは言え20年以上一緒に居ましたから、それくらいは私にも分かります。もし、伊吹さんとアポイントが取れたときは、その真相を聞いてみるのもいいかもしれませんね。最初の奥さんを…友一さんと共に看取った伊吹さんであれば、過去に流した涙の経緯について知っていると思います。」
「過去の…涙…。……。」
私は思わず黙り込み…、物思いにふけてしまった。
-(私が見たことのないゆーいち君の姿…。それは私が知りたかったことでもあるけど…、知るのが少し怖い気もする…。)-
「ところで…。」
「……え?あ、はいっ。」
「あなたのその『ゆーいち君』という呼び方は誰かを真似したものですか?そんな呼び方…、少なくとも娘達の中には居なかったはずですよ。」
恐らく歌乃さんはその呼び方をあまり良く思っていないだろう…。優しく問いかけてはくれたものの…、その顔には苦々しい笑顔が浮かんでいた。家族であろうと尊厳は大切にするべき…、そう言いたげな表情だと私には見えた。
「私以外にこの呼び方をしている人は居ないと思います。いつからかは分かりませんけど、気が付けばそう呼んでいました。」
「そうですか。きっと誰かが悪ふざけでそう呼ばせたんでしょうね…。複雑な家庭ですから、家族であろうと名前呼びになるのは仕方ないと思っていました。だけどまさか…、友一さんがそんな風に呼ばれているとは思っていませんでした。」
「伊吹さんは…、祖父のことを何と呼んでいたんでしょうか?」
「私と同じで『友一さん』と呼んでいましたよ。もしかしたら子供達の前では『お父さん』と呼んでいたかもしれませんけど、私は家庭に居た伊吹さんを知りませんから、その辺りは何とも…。」
「そうでしたね。答えづらい質問をしてしまってすみません。」
「いいえ、気にしないで。あなたと話すのはとても楽しいですから、それくらいでは何とも思いませんよ。」
そう言った後…、私と歌乃さんは僅かな談笑の時間を楽しんだが、電車の時間が差し迫っていた私はもう少しで家を出なくてはいけなかった。名残惜しさは十分にあったが、私は伊吹さんからメモ紙を一枚貰い、そこに自分の連絡先を残してこの家を後にすることにした。
「もし伊吹さんから返事が貰えたら、こちらに連絡をお願いします。2月中であれば、私は全国どこにでも向かうつもりでいますので、その旨…伊吹さんにもお伝えください。」
「本気…なんですね。」
「はい…。私は祖父を愛してくれた人に、どうしても会って確認をしたいんです。」
「…分かりました。あなたが真剣だということは、私がちゃんと伝えておきます。」
「ありがとうございます。では…、これで失礼します。またの機会があれば、そのときは父や叔母達の話を聞かせてもらえると嬉しいです。」
「ええ、私も楽しみにしています。」
私はソファから立ち上がって玄関へと向かって歩き出し、その姿を後ろから見送ってくれた歌乃さんに一礼をした。それに対し…歌乃さんは小さく手を振ってくれて、思わず笑顔になった私は、照れた顔を隠すようにしてそのまま歌乃さんの家を後にした。
-(ゆーいち君は嫌われてなんかいなかった…。ちゃんと愛されていたし、愛することも忘れていなかった。)-
ずっと不安で仕方がなかった悩みが一つ解消され…、私の足取りは、ここへ向かっていたときよりも幾分か軽くなったように感じた。まだまだ話し足りないという気持ちは残っていたものの、後ろ髪を引かれる程の憂いた感情は私の中に残っていなかった。
-(歌乃さん…、優しさと正義感を持ち合わせた、とても素敵な人だったなぁ…。あんな人に愛されて、ゆーいち君、とても幸せだったんだろうなぁ…。)-
帰りの電車の中でも、私はそんなことばかり考えていた。駅の売店で見かけた『地元名産』と書かれた緑茶をつい購入してしまい、自分の食べるご飯を買い損ねてしまった私は、『あったはずの幸福』を繰り返し妄想しては、お腹の減りを誤魔化し続けて帰路についていた。
それから三日後…、私が待ち望んでいた伊吹さんについての連絡が、とうとう歌乃さんから届けられた。話を聞くと、どうやら伊吹さんは住んでいる場所を特定されるのを望んでいないらしく、『自宅以外の場所を指定して良いのであれば、私と対面することを快諾する』とのことだった。私はそれに対し二つ返事で『了解』の意を伝え、折り返し…場所を指定する返事が来るのを待つことになった。
そうして更に二週間後、私は相手の指定するがままに、単身…名古屋市内へと足を踏み入れていた。
-(新幹線を使ったお蔭で、歌乃さんを訪ねたときよりも移動は楽だったな…。距離は遠いはずなのに、こっちの方が時間が掛からなかった…。)-
『全国どこにでも向かう』とは言っていたものの…、未だ学生である私は、日帰りで行ける場所であることに心底安堵していた。歌乃さん曰く、『名古屋はお互いの住居の中間地点』とのことだったので、ここよりも西に伊吹さんが住んでいるのは明白だと思えたが、私はそのことについて何も追及はしなかった。『話さえできれば良い』…、私の思いはこの一言に尽きていたので、他の事について何も口を出すことはしなかった。
そうしてやって来たのが、名古屋市内にあるこの個室完備のハイセンスカフェだった訳なのだが、私はその風貌に既に圧倒されてしまっていた。
-(凄い…。こんなカフェ初めて来た…。)-
店内に入った私は、その広さと雰囲気に若干腰が引けてしまった。ダウンライトの落ち着いた空間に、上質感溢れる椅子やテーブルが並んでいて、如何にも大人の空間と言った感じがした。
入店して迷う間もなく、私は店員さんから声を掛けられたのだが、緊張しながらも…事前に伝えられていた通り『平山』と名乗ると、店員さんは『お待ちしておりました』と答えて私を奥の個室へと案内してくれた。
-(やっとこの時が来た…。)-
個室の前に辿り着いた私は、気持ちを落ち着かせる為に小さく深呼吸をした。通路と個室はカーテンで仕切られていて、人の姿は見えなくても、その気配はカーテン越しでも感じることが出来た。店員さんが『こちらへどうぞ』と声を掛けてくれたお蔭で、個室の中にいる伊吹さんにも私の存在は気づいてもらえたことだろう…。私はゆっくりと手を伸ばしていき、『失礼します』と声を掛けながら、そのカーテンをゆっくりと開いていった。
「…っ!?」
「こんにちわ、初めまして。」
「はい…、こんにちわ…。……。」
-(…二人?)-
困惑した私は、思わずその場で立ち尽くしてしまった。伊吹さん一人が居ると思っていたその個室の中には、男性と女性が寄り添うようにして座っていた。
「うーん…、もしかして緊張してる?歌乃さんから聞いていたあなたの雰囲気と、少しだけ様子が違うみたいだけど…。」
「僕が居るせいかもね…。話が終わるまで僕は席を外しておくから、二人だけでゆっくり話すといいよ。」
「あ…、そのっ…。」
「気にしないで大丈夫よ。この人普段から一人歩きが趣味だから…、1,2時間放っておいても怒りはしないわ。」
「そういうことだから、君は遠慮せず…、今ある時間を有効に使ってください。折角の機会ですし、僕としては早く二人が打ち解けられればいいなと思っていますよ。」
男性は私にそう告げると、本当に席を立ってしまい…、通路に居た店員さんに何かを言い残してこの場を後にしてしまった。
-(行ってしまった…。まだ大した挨拶もしてなかったのに…。)-
去ってしまった男性のことが気になりはしたものの、その正体がわからない以上…、私は男性を強く引き止めることは出来なかった。私は若干のいたたまれなさを感じてしまったが、そのまま突っ立っている訳にもいかず、伊吹さんの正面に腰を下ろさせてもらうことにした。
「あの…、本当に良かったんですか?伊吹さんのことが心配で付き添ってくれていたんじゃ…。」
「ううん、そういうのじゃないから大丈夫。あの人が付き添ってくれたのは、あくまでも道案内の為。私一人だと思うように外を歩けないから、あの人に頼んでここまで連れて来てもらったの。」
そう語る伊吹さんだったが、私の目には体に悪い部分があるようには見えず…、この天真爛漫な振舞いが万全を語るものではないと知って、急に不安を感じてしまった。
「…どこか、体の調子が悪いんですか?」
「少し前から目が悪くて…、太陽の下だと思うように目を開けらないの。」
「すみません。そんな状態なのに、わざわざ外に出向いて貰って…。」
「場所を指定したのはこっちなんだから、あなたが謝る必要はないはずでしょ?それより…、長距離の移動で疲れたでしょ?何か飲み物と甘い食べ物でも頼んでおきなさい。勿論、お代はこちらが出すわ。今まで何もしてあげられなかった孫の為に、せてめケーキくらいは奢らせて頂戴。」
伊吹さんはテーブル端に立て掛けてあったメニュー表を手に取ると、丁寧にページを開いてから私の前にそれを差し出してくれた。まるで本当の家族に接するような…伊吹さんの素朴な振舞いに、不安を感じていたはずの私の心は直ぐに絆されてしまった。
「…ありがとうございます。では、お言葉に甘えて…。」
そう言って私がメニュー表に目を通し始めると、伊吹さんも同じようにメニュー表を手に取って、中のページを吟味し始めた。しばらくすると、伊吹さんから『決まった?』と声を掛られ、私がそれに『はい』と返事をすると、伊吹さんは直ぐに店員さんを呼び出してくれた。
「私はブレンドコーヒーと、このフルーツロールを。あなたは?」
「じゃあ、えっと…、ホットミルクティーと、……、あ、このガトーショコラでお願いします。」
頼むメニューを決めていたのにも関わらず、若干しどろもどろになってしまった私を見て、伊吹さんはクスリと笑っていた。
「じゃあ、早速お話をしていきましょうか。わざわざ歌乃さんを頼ってまで、私と話したかったんでしょ?遠慮せず聞いてきなさい。」
店員さんが注文を取り終えてこの場を去ると、伊吹さんはテーブル上に両肘を置き、若干前のめりになるような形で私にそう語り掛けてきた。元の家族に会うことは出来ないと言いながら、私に対し興味を示してくれることに違和感はあったが…、それよりも先に、私は伊吹さんに問わなければいけないことがあった。
「その前に一つ確認をしておきたいんですけど…、先程まで一緒に居た男性は、伊吹さんの家族…という認識でいいんでしょうか?」
「ええ、今の私にとって家族と呼べるのはあの人だけ。私が友一さんと離婚した理由は知ってるのよね?」
「はい。父と…歌乃さんから、その経緯は聞いています。」
その返事を聞いた伊吹さんは、何故か安堵した表情を浮かべていた。
"自分の口からは説明したくない"…、もしかしたらそういう思いが浮き出していたのかもしれない。
「平山家を離れたあと、事件のほとぼりが冷めるまではずっと一人で過ごしていたんだけど、なんやかんやあって今はあの人と一緒に居る。本当は再婚なんてするつもりなかったんだけど、歌乃さんのお蔭で助けられたこの人生…、謳歌しない事には歌乃さんの餞にならないと思ったから、少し欲を張って生きていくことに決めたの。」
そう語る伊吹さんは、笑顔というより…若干の気恥ずかしさを感じているような、そんな表情に思えた。
「そうでしたか…。父が知れば、きっと喜んでくれると思います。」
「んー…、でもそれは言わないでくれると助かるかな。」
「どうしてですか?父は伊吹さんの選択を決して蔑んだりはしていないのに…。」
伊吹さんが頑なに元の家族と関わらないようにしているのがどうしても気になってしまい、私は両者のベクトルが反発していないことを伊吹さんに訴えかけようとした。だけど伊吹さんはそれに対し首を横に振り、『理由はそこじゃない』…と、静かに訴え返してきた。
「落ちた果実は…決して元の枝には帰れないの。実は土に還り、新たな果実の糧となる…。そういうものでしょ?」
伊吹さんが語ったそのメカニズムは、私に"ある言葉"を思い出させた。
「愛を…循環させる魔法…。」
私が思わずその言葉を口にしてしまった瞬間、カーテンの向こうに店員さんが近づいてくる気配を感じた。私は慌てて口を締めたのだが、それを見ていた伊吹さんに少しだけ笑われてしまった。
「まっ、この話は置いといて…。喉を潤したら、先にあなたの要件を済ませておきましょう。下手して時間が無くなってしまうと、何のためにここまで来たのか分からなくなるでしょ?」
やって来た店員さんが個室のカーテンを開け、私達の注文していた飲み物を目の前に配膳してくれた。その丁寧な接客対応に感謝を示さなければいけない場面だというのに、私は伊吹さんに対する喜びの感情が隠せなくなり、つい"今の場面"とは関係のない笑い声を漏らしてしまった。
「……ふふっ。」
「どうかした?」
「いえ、伊吹さんのその屈託のない話し方を聞いていると、何となく嬉しくなって…。祖父の知っている伊吹さんのままのようで安心しました。」
私がそう言うと、伊吹さんは目を丸くして…その言葉に驚きを示していた。だけど直ぐに表情は柔らかくなり、私のことを優しく見つめてくれていた。
「まるで私のことを本当に知っているみたい…。でも不思議…、私もあなたと初めて会った感じがしないの。血の繋がりがそう思わせてくれてるのかな?」
「私はずっと…、こうやって伊吹さんと話せる日を待っていたので、そう感じて貰えてとても嬉しいです。」
私達は一息つくように、それぞれ届いた飲み物に程よく口をつけた。そうしている間にケーキの方もテーブルへと届けられたが、それに直ぐ手をつけることはしなかった。私は伊吹さんが言っていた通り…、自分がここへ来た目的を済ませておこうと、先に話を進めることにした。
「歌乃さんから連絡が来た時点で、私の目的は既にご存知かと思います。でも正直、私はその問いを…もうするべきではないのかとも考えています。」
「友一さんと別れた理由…、それと葬儀に参列しなかった理由が聞きたい…。それで合ってる?」
「はい。別れた理由に関しては『致し方無い事情だった』と理解しています。それでも『後々会いに来る』ことは可能だったんじゃないかと私は考えていました。ほとぼりが冷めさえすれば、元通りとは言わずとも、自身の状態を伝えるくらいは出来たんじゃないか…。そう思ってたんですけど、先程の話と…それと旦那さんの姿を見て、私は納得しないといけない気がしたんです。」
-(新しい家族…、それに『循環の魔法』…。ここまで知ってしまった私は、もう……。)-
「『しないといけない』…ってことは、まだ納得出来てないってことでなんでしょ?」
「……。」
私の諦めのつかない表情を、伊吹さんは見逃してはいなかった。
「はい…。自分の人生を謳歌することが歌乃さんへの餞となる…、それは納得出来ます。だけど…、未練や愛着は直ぐには消えないと思うんです。家族を想って別れたのなら猶更…、歌乃さんが祖父と結婚することに、伊吹さんが何も感じなかったとは思えないんです。」
-(歌乃さんと違って…、伊吹さんは愛されたままに別れたはず…。家族を守る為の別れが、結果として愛を失うことになったことに、伊吹さんが何も…--)-
「未練…かぁ。……。うんっ、ないな。」
「……え。」
あまりにも潔い返答に、私は呆気にとられて上手く言葉が出てこなくなってしまった。一瞬、自分が質問を間違えたのかとも思ったが…そんな事実はなく、伊吹さんは至って真面目に私の言葉を聞き入れてくれていた。
「私は看護師という職業柄、"人の死"に多く触れて生きて来た。それと同時に"残された人達"も多く見て来た。語る事の無かった想いは、死した後…決して伝わることなく世の中から消えていく。『あった』はずの想いが『なかった』ことと同じになってしまう…。それを不本意だと思った私は、体がいつ死んだとしても…想いが共に消えてしまわない様に、毎日全力で愛を伝え続けた。……。『未練が残る』ってさ、要するに『不完全燃焼』ってことでしょ?私は毎日燃焼させ続けていたんだから、未練なんて残っていない。喧嘩しようが不機嫌になろうが…、私は絶対に『嫌い』だとは口にしなかったし、最後に会ったそのときも、私は『愛している』と伝えていた。共に居られない未来を惜しむ気持ちはあったけど、居なくなることでしか伝えられない愛だったから、私はそっちを優先することにした。だから私に、未練という言葉は残ってないの。」
そう語る伊吹さんには一切の迷いがなく、信念を貫き通して生きてきた誇りが…その『言葉』と『表情』から伝わってきた。
-(形として残ることのない"愛"を、決して『無い』ものにはさせない。伊吹さんの生き様はその一言に尽きている…。一体何が…伊吹さんをそこまで突き動かしてしまうんだろう…。)-
「どうして…、そんな頑なに、愛を優先させたんですか?」
自分の利益を顧みないその生き方に、私はそう問わずにはいられなかった。伊吹さんはその質問に対し、一瞬だけ天を仰ぐようにしてみせたが、直ぐに私へと向き直ると…勇まし気な表情で私の顔を覗き込んだ。
「…残されたから。」
「残された?」
「友一さんの亡くなった奥様…、朱里さんの想いを。『自分を愛してくれた人に、人を愛する喜びを忘れないでいて欲しい…』、朦朧とした意識の中で…、彼女は私にそう言い残した。それを聞いた瞬間、私は思ったの…。」
伊吹さんは自身の胸に手を添えると、当時の記憶を思い出すかのように、ゆっくり深呼吸をしながら瞳を閉じた。
「『あぁ、この人は底知れない幸せを感じながら生きていたんだ』…って。独り占めしてしまうことが惜しいと思えるほどに、朱里さんへ向けられた友一さんの愛は幸せなものだった。そして朱里さん自身も…、友一さんを愛しているときが何よりも幸せだった。だから朱里さんはどうしてもこの愛を途絶えさせたくなくて…、最後の力を振り絞って、私にその言葉を残した。」
そう語り終えた伊吹さんの表情を見て、私の心はざわつきを抑えられなかった。
「でもっ、伊吹さんには……、その片棒を担ぐ義理も責任もなかったはずでしょ?」
無自覚な焦りのせいで、私は咄嗟にそんな言葉を吐いてしまっていた。私自身には何の罪も無いはずなのに…、伊吹さんの選択は、私に"罪悪感に似た感情"を覚えさせていた。
「言ったでしょ?亡くなった人の想いは…伝えないと何も残らないの。『愛する喜びを忘れないで欲しい』と願った朱里さんの想いは、私が伝えないと『ない』ことと同じになってしまう…。そんなの…、残酷過ぎるじゃない…。朱里さんが命がけで残したかった愛を『なかった』ことになんて…、私には出来なかった…。」
「……。」
伊吹さんの『当時の心情』を知ってしまった私は、喉から言葉が出せなくなってしまった。死に際に残した一言で、人の人生が大きく変わってしまうという…事の重大さに、心が押しつぶされそうになっていた。
-(この人は優しすぎた。伊吹さんしか頼る人が居なかったとはいえ、これ以上は……。)-
喉の奥には、未だに発することの出来ない言葉が詰まっていた。どうにかしてその言葉を吐き出さなければと、私はゆっくり息を吸い込んだ。そうして気持ちを伝えようとしたその瞬間…、私の耳に…この前と同じあの言葉が聞こえてきた。
「これはきっと魔法だったのよ。継承することで幸せを感じることが出来る…、そんな素敵な魔法。あなたと私が出会えたのも、その魔法のお蔭だと思わない?友一さんが愛する喜びを忘れないでいたから、あなたのお父さんも"同じ喜び"を知ることが出来たんだろうし、その結果として生まれて来たあなたも…友一さんの愛情を一心に受けることが出来た。そうしてあなたは友一さんを大好きになった。……ね、愛が伝わるって、とても素敵でしょ?」
そう言って伊吹さんは私の頭を優しく撫でで、この出会いに幸せを感じていることを表現してくれた。その瞬間…、私の中にあった『愛されていた記憶』が一気に呼び起こされ、気が付けば私は目から大粒の涙を流してしまっていた。
「ちょっと!?大丈夫?」
「はい…、大丈夫です。でも、すみません…、嬉しくて涙が止まらないんです…。伊吹さんが私の祖母で本当に良かったって…。伊吹さんがちゃんと想いを受け取ってくれたお蔭で、私はっ……。」
「大袈裟ね。自分で言っておいてなんだけど…、私に涙を流す程の価値なんてないはずよ?私なんて結局は中継役に過ぎないんだから。」
「いいえ…、そんなことはありません。今なら分かる気がするんです…。生まれたばかりの私を見て…、祖父が涙を流した理由が…。受け継がれた愛の末に…、この出会いに恵まれたことを…、私はとても嬉しく思うんです。」
「そう…。そう言って貰えると、私の生きてきた人生…、本当に有意義で幸せだったんだと感じられるわ。……さっ、甘い物でも食べて元気だしなさい。あまり長々と泣かれてしまうと、嬉し涙とは言え悪いことした気分になってしまうわ…。」
「はいっ…、ありがとうございます…。」
伊吹さんは私を元気づけるように、先程まで優しく撫でてくれた手に力を込めて、ワシャワシャと頭を撫でまわしてくれた。そしてその手を離すと、テーブル脇に放置していたケーキを私の前に差し出し、直ぐにでも食べれるようにカトラリー等を全てセッティングしてくれた。そのテキパキとした面倒見の良さに、私は思わず笑ってしまい…、拭き取り続けていた涙を自然と止めることが出来てしまっていた。
涙を拭っていた手が自由になったところで、私達はようやく各々の注文していたケーキに口を付け始めた。私はひし形のガトーショコラ、伊吹さんはカットされたフルーツロールをそれぞれ食べていたのだが、私の食べ方を見ていた伊吹さんは、ふと何か思い出したように笑みを浮かべてしまっていた。
「そうやって四隅からケーキを食べてる姿を見てると、病室で朱里さんが同じようにしてケーキを食べていたときのことを思い出すわ。確か誕生日だったと思うんだけど、友一さんが小さなケーキをいくつか買って来て『この中のどれが食べたい?』って言って朱里さんに選ばせてあげてたのよね…。そうして朱里さんがモンブランケーキを選ぶと、友一さんは余ったケーキを私達看護師におすそ分けしてしてくれたの。」
そう語ってくれた伊吹さんの思い出は、私にも馴染みのある…祖父の習慣についてだった。
「私も…、誕生日のときは毎年祖父がケーキを買ってくれていました。小さなケーキをいくつか用意してくれていて、その中には必ずマロングラッセの乗ったモンブランが入っていました。私はそれが大好きで、誕生日ケーキは毎年それを食べるんだと決めていました。」
「恒例行事だったのね。」
「はい。だけど…、今年の誕生日はそれを食べることは出来ませんでした。闘病中だった祖父は、私が誕生日を迎えた次の日に…息を引き取りました。……不謹慎だとは分かっています。でも私は心の何処かで、祖父が今年も誕生日ケーキを用意してくれているではないかと期待していたんです。だけど、毎年見ていたケーキの箱はどこにも見当たりませんでした…。不思議ですよね…、あんなにモンブランが大好きだったはずなのに、今では全く食べたいと思えないんです。自分が本当にモンブランが好きだったのかどうかも分からなくなってしまって、ケーキを選ぶときは寧ろ避けるようになってしまいました…。」
このお店のメニュー表を見たときにも、モンブランがあることには直ぐに気が付いた。それだけ気になっていながら私は…それを頼む気にはなれなかった。その理由が自分でも分からず、私はお店の一押しメニューであったガトーショコラを地道に食べ進めていたのだが、それを見た伊吹さんは全て見通したかのように…得意げな笑顔を私に言葉を掛けた。
「ふふっ…、そんなの不思議でも何でもないじゃない。あなたはモンブランケーキそのものではなく…、モンブランケーキ食べる自分の姿を…嬉しそうに見てくれている友一さんが好きだったんでしょ?毎年同じケーキを用意してたってことは、友一さんはよっぽどあなたにそのケーキを食べてもらいたかったんでしょうね。どういう意味が込められていたかまでは分からないけど…、友一さんにとってあなたはそれほどまでに特別な存在だったってことよ。」
「でも…、モンブランを食べてもらいたかったのなら、他のケーキまで用意する必要は……。」
「そんなのカモフラージュに決まってるじゃない。押しつけで食べさせるんじゃなくて、あくまでもあなたが選んだという体であれば、特別な意味が込められていることに気づかれないで済むでしょ?要するに孫相手に格好つけていただけよ。照れ隠しだなんて…、まるで初恋のようね。」
伊吹さんはそう言って祖父を揶揄うように笑って見せたが、それを聞いた私はと言うと…、『初恋』という言葉に過剰に反応してしまい、顔を赤くしたまま何も言えなくなってしまった。しばらくはそのまま黙り込んでいたのだが、知らない祖父の一面に対して興味が抑え切れられなかった私は、顔の火照りが取れると同時に、先程の続きを聞こうと伊吹さんに話しかけた。
「今まで気にしてなかったんですけど…、祖父って格好つけだったんでしょうか?純粋に素敵な人だとは思ってましたけど、外面を気にしているようには思いませんでした。」
それを聞いた伊吹さんは、一瞬…鼻で笑うような素振りを見せたが、直ぐに大人の女性らしい振舞いに切り替えて、私に優しく語り返してくれた。
「男は誰だって愛した女性の前では格好良くありたいものよ。私の場合、女性ではなく看護師としてあの人を見て来たから、格好のつかない場面も多く見て来たけど、それでも友一さんのことを悪く思ったことは一度もないわ。」
「歌乃さんから聞きました…。祖父は愛した人に自分の涙を決して見せなかったって。伊吹さんもそうでしたか?」
「まぁ…そうね。看護師の立場として…泣いた姿を見たことはあったけど、それ以外で涙を見せることは無かったわ。相手を不安にさせまいと、友一さんは入院中の朱里さんと常に笑顔で接していたけど…、朱里さんが息を引き取った後は、その手をずっと握りしめたまま…祈るようにして涙を流し続けていたのを、今でもはっきり覚えてる…。不安で押し潰されそうだったのは、自分自身も変わらないはずなのに…、友一さんは朱里さんが亡くなるそのときまで、格好の良い男であり続けたの。」
「そうでしたか。……良かった。ゆーいち君、ちゃんと泣ける人だったんだ…。」
「…っ!?」
今まで知ることの出来なかった祖父の一面を垣間見たことで安堵したのと同時に、張り巡らせていた緊張が緩み、私はついいつもの調子で彼の名前を呼んでしまった。私にとっては何も特別ではない普通のことだったのだが、それを聞いていた伊吹さんは、ここに来て初めて私のことを【異色なもの】を見るような目で見つめていた。
「え…、あなた今…、『ゆーいち君』って…。」
「……。」
「一体…、誰にその呼び方を教わったの?和也どころか…長女の睦美でさえ、その呼び方は知らないはずよ!?」
-(『知っているのは私だけのはず』…。言い換えれば、そういうことなんだろうな…。)-
そう呼んでいた人が過去に居る…。動揺した伊吹さんは、無意識にその事実を伝えてしまっていた。
「誰にも教わっていません。私にとって馴染む呼び方がこうだったってだけです。」
「そんな……。でもその呼び方はっ…。」
「私自身…、いつからこう呼んでるのかなんて覚えていません。物心ついたときには既にそう呼んでましたし、ゆーいち君も当たり前に返事をしてくれてました。」
私はありのままの事実として、そうやって淡々と返事を返すことしか出来なかった。だけどその冷静すぎる対応が、動揺している伊吹さんにとっては異質に見えてしまったのかしれない。伊吹さんは私の様子を見ているうちに、段々と幻を見ているかのような表情に変わっていってしまった。
「あなた…、私に何か隠していない?」
「そう言われましても、初対面ですので、ほとんどが隠しごとになってしまうかと…。私は正直に答えますので、何か気になることがあればどうぞ聞いてください。」
私が苦笑いをしたままそう言い返すと、伊吹さんは頭を使うことで気持ちが落ち着いたのか…、急に冷静さを取り戻して大きな息をついた。
「……ごめんなさい。今のは聞かなかったことにして頂戴。『ゆーいち君』なんて小学生でも呼べちゃうもの……。別に不思議ではないはずよね…。」
そう言ったあと、伊吹さんはそれまで通り屈託のない話し方で私と接してくれていたが、一度陥ってしまった思考は簡単に抜け出せるものではなく…、私に向けられる瞳は、時々別の人物を捉えてしまっているようだった。
-(これはもう"潮時"ってやつかな…。)-
楽しく話をしている中ではあったが、このままでは私も伊吹さんも『相手の出方を見て会話をする』という…あまり良くない展開になりそうだった。なので私は、ここで一旦区切りをつけようと、キリの良いタイミングを見計らって伊吹さんに帰宅の旨を伝えることにした。
「帰りの電車の時間がありますので、もう少ししたら店を出ようかと思います。でもその前に、伊吹さんのご家族にも直接お礼を伝えたいので、申し訳ないんですけどお店の方に呼び戻して頂いても構いませんか?」
「まぁー…、本当にあなたはしっかりしているわね。とても18歳になったばかりだとは思えない…。待ってて、直ぐ戻ってくるよう電話するから。」
「ありがとうございます。」
伊吹さんが電話を掛けているその隙に、私は持参していたメモ用紙に自分の連絡先を書き写すことにした。伊吹さんが連絡先を知られたくないと思っている以上、一方的にこちらの連絡先を渡すことでしか、私との繋がりは残せないと思った結果の行動だった。それを受け取ってもらえるかどうかも怪しいところではあったが、とりあえず私はそのメモ用紙をポケットに納め、渡すタイミングを見極めることにした。
『直ぐに戻ってくるように電話する』とは言っていたが、伊吹さんの旦那さんは『隣に居たのでは?』と思ってしまうくらい、本当に直ぐにこの個室へと戻って来た。旦那さんは伊吹さんの隣に着席すると、落ち着いた口調で私に話しかけてくれた。
「もう帰ってしまうんですか?」
「はい。私が会いたいと言ったが為に、わざわざお店までしつらえてもらって、本当にありがとうございました。」
「気にしなくていいんだよ。どちらかといえば、僕が君に感謝しないといけないんだ。君からの連絡がなければ、彼女はずっと元の家族に会おうとはしなかっただろうから、生きているうちにこうやって出会えたことを、本当に嬉しく思っているよ。」
きっと旦那さんなりに、伊吹さんの元の家族について思うことはあったのだろう。こうやって孫である私が会いに来たことに、旦那さんは本当に喜んでくれているように思えた。それを見て、ようやく私は心から安堵の気持ちを得ることが出来た。
「はい、私もお二方に出会えて、大変嬉しく思います。実はずっと不安だったんです…。伊吹さんの消息もそうですけど、祖父に出会ってしまった人生そのものを…伊吹さんが恨んでいるじゃないかって。私のことも鬱陶しい存在だと思われるんじゃないかと、内心はドキドキでした。だけど実際会ってみると、伊吹さんはとても優しく私を迎え入れてくれてくれましたし、平山家に向けてくれた愛が…とても偉大なものだったということにも気が付けました。」
私は座っていた椅子からそっと立ち上がり、二人ときっちり目を合わせたあと、テーブル頭がつく勢いで…深々と頭を下げお礼の言葉を告げた。
「伊吹さんが《人の心》を…、あのとき残された《言葉の意味》を汲み取ってくれたからこそ、私は今…ここに居るんです。そして、ゆーいち君が愛することを忘れないでいてくれたから、私はまたゆーいち君を愛することが出来た…。本当にありがとうございます。」
「……また?」
「……。」
「待って……、あなた…やっぱり友一君のっ……。」
伊吹さんの呼び止める声が聞こえたその瞬間…、私は頭を上げ、自分の名前を名乗りながら先程のメモ用紙をテーブルの上に差し出した。
「私は【平山いろは】、祖母達の名前から『始まり』という意味を頂いた、正真正銘…平山友一の孫娘です。」
私はそう言って微笑み…軽く会釈を済ませると、言い逃げするような形でその場を後にした。
~・~
【いろは】という名前は父と祖父が一緒に考えて決めてくれたらしい。【朱里】【伊吹】【歌乃】、三人の頭文字を繋げると『あいう』という並びになっていたので、それに倣って『いろは』と名付けられたそうだ。父の希望としては、血の繋がった祖母にあたる伊吹さんから一文字貰いたかったそうで、丁度頭に『い』の文字が入っていたので、この名前がすんなり採用されたとも聞いていた。
そうやって【いろは】として人生を歩み始めた私は、言葉の意味を理解し始めた辺りから、段々と【平山朱里】であった過去を自覚し始めてるようになっていた。朧げな感覚程度だったはずの朱里の記憶は、歳をとるにつれ段々とはっきりしていき、18歳になった今では完璧な記憶として私の中に引き継がれていた。私が祖父・友一のことを『ゆーいち君』と呼んでいたのはその影響だった。『ゆういちさん』と呼ぶことが当たり前だった朱里の感覚が作用し、私は漢字を理解するよりも早く…その名を口にしてしまっていた。普段から祖父と接している人の中に、友一さんのことを『ゆういち』などと呼ぶ人は存在しておらず、家族はその呼び名に困惑したらしいが、祖父本人の嬉しそうな様子を見て…矯正をすることは諦めたとのことだった。
私はゆーいち君のことが大好きだった。記憶がはっきりと蘇るよりも前から、私はゆーいち君に首っ丈だった。毎週のように遊びに行っては『帰りたくない』と言って家族を困らせ、その度ゆーいち君に『お利巧な子が好きだけどなぁー』と言われ懐柔されてしまうような子供だった。
そんな日々を積み重ねていく度に、私のゆーいち君への愛はどんどん大きくなっていった。そしてそれと共に…、朱里としての記憶が段々と私の中で呼び戻されていった。最初は【いろは】として好きだったはずの気持ちが、次第に【朱里】としての好きに変わっていき、最近では愛と恋の区別もつかない状態にまで…ゆーいち君を愛してしまっていた。
ゆーいち君が病気で倒れたのは、正に私がそれを自覚した瞬間のことだった。
-(やっと全部思い出せたのに……、どうして……。)-
どうして彼がこんな目にあわなくてはいけないの。
どうして彼の愛した人は側にいてくれなかったの…。
どうして…、私は孫として生まれてしまったの…。
どうして…、私では…、私達の愛では…、幸せになることが出来ないの…。
ゆーいち君の愛が報われるのであれば、私は永遠を願えなくてもいい…。そう思っていたのに…。
~・~
「……。……!?」
伊吹さん達と別れて新幹線に乗った私は、いつの間にか座席で眠ってしまっていた。幸いにも眠っていた時間は短く、目を覚ました私が慌てることもなかった。
-(疲れてるのかな…。帰ったら早く寝てしまおう…。)-
新幹線が新横浜駅に到着し、駅のホームに降り立った私は、そのまま一切の寄り道をすることなく…自宅の最寄り駅を目指して乗り換えを済ませた。移動中は幾度となく伊吹さん…そして歌乃さんとの会話が思い出されていたが、それは決して後悔から蘇る記憶ではなかった。私は私のやれることをして、祖父を想い続ける…、そう思わせてくれる2週間ではあったが、慣れないことをし過ぎたせいで流石に体は疲れ切っていた。
「…ただいま。」
自宅に到着すると、玄関には荷物やら掃除道具やらが無秩序に散乱してしまっていた。今日は両親が祖父の住んでいた家の片付けに向かうと言っていたので、これはきっとその成果なのだろうと察することが出来た。本当は自分も行きたかったのだが、伊吹さんから指定された日程はこちらからでは覆すことは出来なかった為、あえなく片付けの方は諦めることにした。両親は今現在も慌ただしく家の中を動き回っていて、私が帰ってきていることに気づいていない様子だった。
「お父さーん…、帰ったよー。」
私は階段下から二階に向かって大きな声を出し、自分が帰ってきていることをアピールした。すると山彦のように『おかえりー』という返事が返って来て、バタバタという足音と共に父が二階から降りて来てくれた。
「忙しそうだね…。何か手伝おうか?」
「いや、大丈夫。それより…、伊吹さんとは無事に会えた?」
「うん、とても面倒見が良くて、直ぐに打ち解けられた。話した内容は言えないけど…、多分お父さんが知ってる、元気でカッコいい伊吹さんのままだったと思うよ。」
「そっか…、それが分かって安心した。…ありがとう。」
「ふふっ…。」
笑った父の顔を見て、思わず私もつられて笑ってしまった。すると父はそんな私の顔を見て、何か思い出したかのように『あっ!!』という声を上げた。
「えっ!何?」
「そうだ…、いろはに渡さないといけないものがあるんだ。ちょっとキッチンに来て。」
「うん…?」
私は父が手招きするがままにキッチンへと連れられ、そのまま冷蔵庫の前へと立たされた。
「実は今日おじいちゃんの部屋を片付けているときに、毎年いろはが楽しみにしていた例のプレゼントが見つかったんだ。」
「え…。でも…、この前ゆーいち君の家を見たときは、冷蔵庫にケーキなんて入ってなかった……。」
「おじいちゃんの家から持って帰って来てあげたから、冷凍室…開けて見て。」
「冷凍室?」
冷凍…というところに疑問を抱かざる負えなかったが、私は父の言う通り、冷蔵庫の真ん中辺りにある冷凍室を開けて見ることにした。ドアの窪みに手を掛け、ゆっくりとその棚を引っ張りだすと、そこには周りの食材とはミスマッチな《オーバーチェック柄の小さな紙袋》が収められていた。
「え…?」
「いつもみたいにケーキ箱が用意されていたのなら、直ぐに気が付くことが出来たんだろうけど…、流石に冷凍室のそれにはお父さんも直ぐには気が付けなかった。おじいちゃん、ちゃんと今年もいろはの誕生日プレゼント用意してくれていたんだよ。」
冷凍室から紙袋を取り出した私は、その口を開けるように手を差し入れた。中には紙袋と同じ柄で包装された…片手サイズの箱が入っていて、それが何なのか分からない私は、茫然と立ち尽くしてしまった。
「紙袋の中にいろは宛ての手紙が入ってる。勿論、中身を読んだりはしていないよ。おじいちゃんが最後に残してくれたメッセージだろうから、ちゃんと心して読んであげなさい。」
父はそう言い残すと、私をキッチンに残したまま…一人で二階へと戻ってしまった。
-(手紙…?)-
紙袋の中を覗き込むと、包装されたプレゼントとは別に、メッセージカードのようなものが同封されていた。父の言っていた通り、カードが入っている封筒には『いろはへ』という宛名が記されていて、裏面を見ると、封が閉じてある右の箇所に『自然解凍でお召し上がりください』…いう文字が記されていた。
-(ゆーいち君の…、最後のメッセージ…。)-
書かれている内容が気になり、いても立ってもいられなくなった私は、その場でメッセージカードの封を開けた。中に入っていたのは、表紙に《Happy Birthday》と印字されているシンプルな二つ折りのメッセージカードで、冷気のせいで冷たくはなっていたものの…変形等のダメージは負っていなかった。
中に何が書かれているのかが全く想像出来ず…息が詰まりそうだった私は、かつてないほどの震えた手つきで、そのメッセージカードを開いた。
真っ白い背景に、見慣れたボールペンの文字…。
そこに書かれていたのは、最愛の人が18年間私に隠していた『魔法の言葉』だった。
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誕生日おめでとう。
大人になったいろはへ 私からお願いがあります
幸せな恋をしてください
折角可愛い顔と健康な体を持って… また生まれることが出来たのだから
こんなおじいさんに構うことなく 自分に見合った素敵な男性を見つけてください
今までは子供だからと目を瞑っていましたが この辺りが潮時でしょう
自分の役目はここまで 君が幸せになれることを願い 私はここで舞台を降ります
毎年楽しみにしていた栗のケーキも もう私からプレゼントすることは出来ません
あれは末永く続く愛を願う為のものです
来年からは いろはを愛してくれる人から食べさせて貰ってください
僕の特別な人へ 愛しています 友一
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「あぁ……、ぁっ……。」
そのメッセージを読んだ私は、その場で声を震わせながら泣き崩れた。いくら手で顔面を覆っても溢れ出る涙は止まらず、いくら床が冷たいと分かっていても立ち上がることも出来ない…、そんな状態で、私はずっと呼吸する息を震わせながら泣き続けた。
-(ゆーいち君は知っていたんだ…。私が朱里であった過去を…。私が本気でゆーいち君を愛していたことを…。そしてそれが…、何があっても許されないということを…。)-
祖父がいつから【朱里】に気付いていたかは分からない…。だけど祖父はあくまでも孫として私のことを愛してくれていた。私が【いろは】としての人生を真っすぐに歩めるように…、祖父は決して私に【朱里】を求めようとはしなかった。
『愛を循環させる魔法』、それは『愛することを忘れさせない魔法』…。
祖父は【いろは】としての私に…、人を愛する幸せを覚えて貰いたかったのだ。
それは嘗て…この世を去り行く朱里が、残されたゆーいち君の為に願ったことと同じだった。
「ゆーいちくん……、私……、私はっ……。」
-『自分を愛してくれた人に、人を愛する喜びを忘れないでいて欲しい』-
私は誰よりもこの言葉の意味を知っていた。
だからこそ…、私はこの言葉を絶対に無下にすることは出来ない。
-『あの人には、幸せになれる未来が待っているのだから』-
伊吹さんの耳に届くことはなかったが、朱里が最期の最後に語ったのは、愛する人の未来を願う言葉だった。
ひとしきり泣いた後、私は呼吸が覚束ないままだったが、ふと放置したままだったプレゼントが気になり、包み紙を全て剥がした。冷凍保存されていたその中身は、透明な箱に綺麗に並べられた6つ入りのマカロンだった。今までケーキを用意してくれていた祖父にしては、随分と大人っぽいものを選んだな…と、少し驚きもしたが、祖父の残したメッセージを読み返すと…この選択にも自然と納得してしまった。
-(『大人』で『特別』…。きっとそんな意味が込められているんだろうな…。)-
私はメッセージカードを元の状態に戻そうと、テーブルに置いていた封筒に手を伸ばした。封筒のフタ部分を持ち上げ、中にカードを入れようとしたのだが…、封筒の内側に文字が書いてあるのが見え、私はその手を咄嗟に止めた。
-(ん…?これは、どういうこと?)-
封筒の内側には『この愛は』という4文字だけが書かれていて、それだけではどういう意味なのかが全く分からなかった。何かの暗号なのかと思い、裏と表を交互に見返したりしたが、特に何も見当たらなかった。
-(書き間違い…かな…?)-
そんなことを思いながら改めてぼーっと見つめていると、いつのまにか…そこに一つの文章が出来上がっていて、それに気が付いた私は思わず鼻で笑ってしまった。
『この愛は自然解凍でお召し上がりください』
「ふふっ…、なにこれ?」
毎年買ってくれていた誕生日ケーキのように、祖父は自身の伝えたかった"洒落たメッセージ"を出来るだけ分かりづらく私に示そうとしてくれていた。伊吹さんの言っていた通り…、祖父はカッコつけの上に照れ屋だったのだろう。モンブランに込められた意味も…このメッセージも、祖父は伝えたくて仕方がなかったのに、それを紛らわさなと私に差し出すことが出来なかったのだ。
「あの頃からきっとそうだったのね…。ありがとう、ゆういちさん…。」
私はその封筒を胸に抱きしめ、目を瞑りながら祖父に感謝の気持ちを伝えた。そして目を開けた私は全てを切り替える意味を込めて、大きく深呼吸をし…肺の中にあった空気を全て吐き出した。
「(ヴーン…、ヴーン…、…)」
「…!?」
ふと物音に気が付き周りを見渡すと、いつの間にかポケットから落ちていた私のスマホが、床で着信を知らせていた。画面には知らない番号が表示されていて、一瞬取ることを躊躇ってしまったが、数時間前に自分がしたことを思い出した私は、慌てて通話ボタンを押した。
「…はいっ!?」
「もしもし…、いろはさん?」
「はい。伊吹さん…ですよね?」
「…はい。無事、自宅には帰れましたか?」
「お陰様で。今日は本当にありがとうございました。」
「いえ、無事に帰れたようで何よりです。」
伊吹さんは数時間前とは違い、言葉遣いが終始敬語になってしまっていた。その敬うような姿勢は、私の陰に別の人物が見えてしまっているせいなのだと直ぐに気が付いた。
-(私が今やらないといけないことは、こんなことじゃない…。)-
私は自分から見せてしまった幻像を打開するべく…、こちらから伊吹さんの元へと踏み込む覚悟を決めた。
「伊吹さん…、これからは伊吹さんのこと【おばあちゃん】って呼んでもいいですか?」
「え…?」
「電話をくれたってことは、これからも繋がっていてくれるってことですよね?だったら私、今からでも伊吹さんのこと家族だと思って繋がっていたいんです。元の家族に会って欲しいとか…、そういうことは言いません。ただこうやって話をする…、それだけでいいんで、私を孫として受け入れてもらえませんか?」
「……。」
その突然の申し出に、伊吹さんは驚きを見せたあと…、少し黙り込んでしまった。伊吹さんの中でも、きっとこの状況は直ぐに処理出来ることではないのだろう。私も一応、それなりに軽蔑される覚悟は決めていた。だけどそれ以上に…、伊吹さんが私の気持ちを理解してくれる人だということに自信を持っていた。
「ふふっ…、分かったわ。私にとって、たった一人の孫ですもの。そんな風に言われて断れる訳ないじゃない…。」
「良かった…。早速だけど、私…、おばあちゃんに相談したくて仕方ないことがあるんだけど、聞いてくれる?」
「なぁに?」
テーブルに置かれた凍ったままのマカロンと、添えられていたメッセージカード。それを見つめながら、私は伊吹さんに恋のアドバイスを求めた。
「どうしたら、おじいちゃんに自慢出来るような…、素敵な恋が見つけられるかな?おじいちゃんから最後に残された魔法…、カイトウしてあげないと私、誕生日の特別なデザート…食べさせてもらえないの。」