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「あー、いやに懐かしい夢を見た気がする……」
低血圧でぼんやりとする寝起きの頭を冷水で無理やり叩き起こして、ニコラは寝癖が奔放に跳ねる髪をブラシで無理やり撫でつける。
鏡を見れば、人並みに艶艶しい癖のない黒髪と、十人並みの凡庸な顔立ち。
瞳の色は光の加減によっては藍色に見えなくもないが、碧眼からアンバーまでカラーバリエーション豊富な世界観からすれば、稀少さを主張するまでもない。
ニコラは前世と今世の経験則をもってしても、人生は見目が良いに越したことはないと考えていた。だが、ジークハルトに出会ったことで、その考えは百八十度変わってしまった。
「ビバ中庸。平凡って素晴らしい」
そして一人、ビバなんて死語かと自嘲する。残念ながらこの世界にはツッコミを入れてくれる人間などいないのだ。
だが何はともあれ、凡庸な見目に産んでくれた今世の両親には感謝しかない。
鏡の前で最低限の身支度をして、ニコラは女子寮の自室を後にした。
ダウストリア王国王立学院。
ニコラが入学した学府は、王侯貴族から有力商家の子弟子女が通う、男女共学の教育機関だった。
未婚かつ名家の子女たちが文化的な教養を身に付ける、前世のヨーロッパにおけるフィニッシング・スクールと、全寮制の寄宿学校であるボーディングスクールが融合したようなそこは、流行の最先端を追いかけたい貴族階級と、パトロンを見つけたい商人階級の交流の場であり、未だ婚約者がいないもの同士のマッチングの場でもあるらしい。
学院の基本理念は『学院内において貴賎はなく、等しく学徒たれ』というもので、身分を超えた交流も盛んだというのは昨日の入学式典で嫌というほど聞かされた話だった。実際、交友関係自体はかなり自由らしい。
「おはよう、ニコラ! 昨日ぶりね」
女子寮から本校舎に向かう途上に、背後から声がかかって振り返る。
「おはようカリン」
「あら、貴族のご令嬢ってみんな、御機嫌ようって挨拶するのかと思ってた!」
悪戯っぽくクスクスと笑う少女にニコラは苦笑した。
ニコラの生家は、公侯伯子男という爵位の序列の中では下から数えた方が早いのだ。常日頃から上流階級ムーブメントをかませという方が無理がある。
「人によるんじゃない?」
「そんなもの? でも、付き合いやすそうな貴族様とお近づきになれて良かった!」
カリン・シュターデンはそう言って人好きのする笑顔で笑った。
昨日の入学式典で席が近かったというだけの縁だが、出身が商家なだけあり闊達そうな性格が好ましい。
彼女は豊かな赤毛と制服を翻して、軽やかにニコラと並ぶ。
翻るのは、ニコラが着ているものと同じ、滑らかな手触りの濃紺の制服だ。ハイウエストで切り替えのついた、ミモレ丈のワンピースタイプ。
メインストリートですれ違う男子学生は、燕尾服の延長といった仕立ての制服を身に纏う。
そんな、ざっくりとした見立てでは十八世紀のヨーロッパのような世界観の割に、時代にそぐわない服飾の潮流や男女共学の教育機関。
十八世紀にしては時代錯誤なものもあれば、進みすぎているものもある、よく分からない世界線。
いよいよ異世界らしく、ちぐはぐな違和感があるが、少なくとも西洋文化がベースであることだけは間違いない。
例えば相槌や愛想笑いといった、日本人がついやりがちな仕草などは、この世界においてはマナー違反になることもあるので注意が必要だった。
「それにしても、随分と機嫌が良さそうね?」
ニコラの隣を歩くカリンの足取りは、今にもスキップに変わりそうなほどに軽い。
「あっ、よくぞ聞いてくれました! 朝から、銀の君と金の君のお姿を見れたのよ! 遠目にちょこっとだけどね! だから幸先いいなーって!」
目をキラキラと輝かせるカリンに、「あー」とニコラは何とも形容しがたい表情になる。
「待って、それどういう表情?」
「いえ、続けてどうぞ?」
『銀』は年上の幼馴染を形容する代表格なので、薄々察する。だが、『金の君』というのは知らなかった。
「銀の君は昨日の式典で見たから分かるでしょ? 文武両道、傾国級の美形で、学院の生徒会長、アーレンベルク侯ジークハルト様。金の君は、そんな銀の君と並び立っても唯一霞まない、この国の第一王子、アロイス殿下。お二人は一番仲の良いご学友なんですって!」
「へ、へぇ……」
『傾国』もまたジークハルトを形容する代表格ではあるが、改めて聞くと、男で『傾国』とはこれいかに。
だが、熱弁するカリンを前には薮蛇かもしれないと、その疑問はそっと心の内に留める。
カリンは頬を赤く染め上げた物憂げな表情で、ほぅとため息をついた。
「在学中に、一度でもお茶をご一緒する機会があったら、末代まで自慢できるのになぁ」
「そういうもの?」
「そういうもの!」
どうにもミーハーの気があるらしいカリンは緑がかった灰色の目を細めて、自信満々に頷いた。
だがまぁ、確かに、
「……アレの隣で霞まない人間は、ちょっと見てみたいかも……?」
「ね! でしょう!?」
これが俗に言う『フラグ』だったのだとニコラが気が付いたのは、その僅か数時間後。その日の午後のことだった。