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泣いて、泣いて、ようやく少し落ち着きを取り戻せば、途端に羞恥心が襲い来る。
ぶっきらぼうにジークハルトの肩を掴んでぐいっと押し離せば、あっさりと身体は離れた。
「……一応確認しますが、殿下もちゃんと無事なんですね? 後遺症とかも無さそうでしたか?」
「うん、大丈夫。それに、もうすぐ本人たちも来ると思うよ。平日は消灯前まで見舞いに来ていたけれど、今日は休日だから朝から来るって──」
「ジーク、入るよ」
タイミングよく扉が叩かれ、開かれる。
ジークハルトの部屋に足を踏み入れたアロイスは、起きているニコラの姿を見とめた瞬間に足を止め、急に足を止めたことで後続のエルンストにぶつかられてしまって無様につんのめる。
「殿下ッ! 申し訳ありませ、」
だが、エルンストの謝罪など聞こえていないように、アロイスはつんのめった勢いを殺さずにそのまま一目散に駆け寄って来て、ジークハルトごとニコラを勢いよく抱き締めた。
「ぐえっ」
ニコラの周りからはパキパキと不穏な音がいくつも鳴る。
「わっ! ちょ、ちょっと! 割れてる割れてる、高価な物が意味もなく割れてる! 離してください! ジークハルト様も! 抵抗して!」
「えぇ?」
「ニコラ嬢! よかった、本当に無事でよかった……! 本当にごめん、ごめんね、ありがとう……ごめん」
ジークハルトはくすくすと笑うばかりで役には立たず、アロイスは縋り付くのを止めない。
ニコラ自身はといえば、無理やりアロイスを引き剥がす体力はないのでギャーギャーと喚くことしか出来ず、エルンストはおろおろとその周りをうろつくばかり。
なんとも気の抜ける間抜けな絵面に、思わず脱力してしまえば、その脱力はニコラと接しているジークハルト、アロイス、と次第に少しずつ伝播していった。
ニコラとジークハルトに回していた腕をするりと解いたアロイスは、やがて静かにジークハルトの文机の椅子に腰掛ける。
ニコラとジークハルトはそのまま寝台に腰掛け、エルンストは壁際に立った。
アロイスはしばらくして、顔を翳らせて、淡々と抑揚なく言葉を紡ぐ。
「オリヴィア嬢は死んだよ。一応、犯人不明の変死という扱いになってる」
「そう、ですか……」
ニコラは静かに目を伏せる。
無知は罪で、有知は罰。半端なオカルト知識は罪と罰になったのだ。
たとえ悪魔に踊らされていたとしても、死はオリヴィアが背負うべき罪と罰だった。
ニコラがアロイス達を無限には守り通せなかった以上、ニコラが上書きしなければ、アロイスとジークハルトが死に、跳ね返りでオリヴィアが死ぬまで蠱毒は終わらなかった。
三人死ぬか、二人死ぬか───ニコラは後者を取ったあの選択自体を後悔している訳ではない。
「ジークが知っていることと、エルンが見聞きしたこと。それらを合わせて、何があったのか、最低限のことは理解していると思う。改めて、本当にごめんね。そして、ありがとう」
アロイスは手を伸ばして、ニコラの手を取るとぎゅっと握り締めた。
真摯な光を湛える碧眼に見据えられるも、直視出来なくて、ニコラは視線を泳がせる。
「ジークからもう既に聞いたかもしれないけれど、ニコラ嬢が生きることを望んだのは、僕たちなんだ。ニコラ嬢は、今生きていることに負い目を感じたりしなくていいんだよ。僕たちにも一緒に、背負わせて欲しい」
アロイスは困ったような表情で微笑む。
だがそうは言われても、生憎と「はいそうですか」と言えるほど単純な思考をしてはいないのだ。
蠱毒を使った呪詛を実行したのが、ニコラ本人ではなく式神だったこと、神の加護、大量の形代。どれか一つでも欠けていたなら、ニコラは死んでいたかもしれない。
だが、そんな奇跡の上に成り立つ命と分かってはいても、ニコラは素直に自分の命を肯定することは出来ずに、迷子のようにうろうろと視線を彷徨わせる。
そんなニコラに声をかけたのは、意外なことにエルンストだった。
エルンストはつかつかとニコラの前までやって来ると、跪いてニコラと目を合わせ、言葉を探すように訥々と話し出す。
「アー、……俺の生家は代々、王族の護衛だ。俺も殿下付きになって、一度だけ死にかけたことがある」
脈絡のない話にニコラは面食らって、ぱちぱちと目を瞬いた。
「その時に、父に叱られた時の言葉を今でも覚えているんだが……。父は俺に、誰かを守る時には、自分も当然助からないと三流以下だ、と。守った人間と一緒に、「助かって良かった」と喜び合えなければ、助けられた側は救われないのだと……言った。だから」
朴訥とした喋りとは裏腹に、ブルーグレーの瞳にまっすぐ射抜かれて、ニコラは息を呑む。
「だから、殿下と閣下のためにも、救われてくれないか。自分の命を肯定しては、くれないか」
エルンストの肩越しにアロイスを見れば、静かに頷かれ、隣のジークハルトを見上げれば、そっと背中を撫でられる。
吸い損ねた呼気に、かひゅっと無様に喉が鳴る。一度緩んだ涙腺はどうにも締まりがないようで、再びじわりと視界が滲んでしまっていけなかった。
アロイスは立ち上がってニコラの頭を犬猫のようにくしゃっと撫でると「エルン、僕たちはニコラ嬢が落ち着くまで外に居よう。見られたくないだろうしね」と言って、エルンストを引き連れ外に出て行く。
ジークハルトはニコラをいつものように抱き込んで、嗚咽を上げるニコラに静かに寄り添った。
どれくらい泣いていただろうか。
涙が涸れても互いに言葉は交わさずに、静かに温もりを預け合っていた。
顔の火照りも呼吸もようやく落ち着いてきた頃合いに、ニコラはそういえばと口を開く。
「……どうしてジークハルト様の部屋なんです?」
ジークハルトはきょとんとした顔から、ふっと表情を緩めて言った。
「女子寮だと、私たちでは看病出来ないからね。流石に原因不明の昏睡状態で医務室には連れて行けなかったから」
それもそうかと納得する。
「あぁ、ニコラが眠っている間は、ジェミニがニコラの姿で登校してくれていたよ」
「ジェミニが?」
眠っている間に、使い魔も随分と働いていてくれたらしい。
何かご褒美でもあげなければならないなと思案していれば、「もう一つ、伝えなければいけないことがあるんだ」とやけに固い声で告げられて、ニコラは訝しげにジークハルトの顔を見上げる。
「エルスハイマー侯爵の嫡男、ニコラの伯父上が、亡くなられたよ。……これにより、ウェーバー子爵がエルスハイマー侯の実質の跡継ぎとなられた」
「ッ!」
もともと彼に取り憑いていた、殺された長男一家が悲願を遂げたのか、はたまた偶然か。今となっては真相は分からない。
だが〝蠱毒を使用した者の家は栄える〟という蠱毒の副産物の効果は、ニコラの生家にも容赦なく降りかかったらしい。
ニコラの身分は子爵令嬢から、侯爵令嬢になることが内定している子爵令嬢へと、否応なく変わってしまった。
「ニコラは、私のことは嫌いかい?」
ジークハルトは狡い。
これで、爵位が揃ったからと言ってすぐに婚姻を迫ってくるような相手なら、容赦なく見限ることが出来たのにと、ニコラは眉を下げる。
きらい。ニコラは試しに声には出さずに口の中で転がしてみる。
口の中の苦さ、後味の悪さ。饐えた味と似たような、嫌悪にも似た不快感。
嫌いなわけがない。ニコラは口をへの字に引き結ぶ。
「私が嫌いな人間のために命を張れる人間じゃないこと、知っているくせに」
「うん、そうだね」
一ミリも疑っていなかったと言うように、さらりと言ってのけるジークハルトに腹が立って、ニコラは恨みがましく上目遣いに睨めつける。
「じゃあ、好き?」
「…………分かりません」
この期に及んで、まだ足掻こうとする自分にも呆れるが、ニコラの口は反射でそう答えていた。
「そう……困ったな。不器用なニコラのペースに合わせるつもりだったけれど、ちょっとそうも言っていられなくなったから、仕方がない」
「?」
ジークハルトは痛みを感じさせない絶妙な力加減でニコラの手を引いて抱き寄せて、ただでさえ近かった距離が零に等しくなる。
吐息を感じる距離に焦るが、鈍った身体は咄嗟に言うことを聞いてはくれず、ニコラはそのまま為す術もなく唇を奪われた。
「っ!」
驚いて体を引こうとするも、いつの間にか腰に回された腕に阻まれてしまう。余計に深くなる口付けに思考も呼吸も全て奪われるような気がして、くらりと目が眩む。
「……ん、んぅ……ふはっ!」
「嫌だった?」
問答無用でディープな口付けをかましておいて、嫌だったか事後に問うとはどういう了見か。
それでも、否応なく自覚してしまう。自分の感情に裏切られたような気がして悔しくて、ニコラは濡れた唇を噛んだ。
自分の思考の行き着く先に全く心当たりが無いと言いきれるほど初心ではなくて、顔が熱くて仕方がない。
ニコラの火照った頬を、ジークハルトは満足気な顔をして撫でる。
「ねぇ、嫌だった?」
「…………いやじゃ、なかった、」
「うん。素直でよろしい。じゃあ、聡いニコラなら分かるよね」
そう言って、ジークハルトはふっと蕩けるように頬を弛めて、とんでもなく色気のある微笑を浮かべる。
ニコラは火照った顔をそのままに、ふよふよと口を波打たせた。
「何だか手口が手馴れていませんか」
負け惜しみのように可愛げのない台詞を吐けば、ジークハルトはムッとしたような表情を浮かべてニコラの手を取った。
「初恋を拗らせた男を舐めないでくれるかな」
ニコラの手は導かれてぴたりと幼馴染の胸に当てられる。手のひらには、全力疾走した後かのような早鐘を打つ鼓動が感じられて、ニコラは目を瞬く。
「年齢一桁台から焦がれている女の子に口付けをして平静でいられるほど、私の情緒は死んでいないんだよ」
ジークハルトは人形じみた完璧な美貌をあどけなく綻ばせて照れたように笑うので、ニコラの火照りも留まるところを知らない。
真っ赤に染まっているであろう顔を見られるのが嫌でふいとそっぽを向けば、タイミング悪く、向いた方向にあたる部屋のドアが再び開かれる。
「目元を冷やせる物を持って来たよ──って、あはは、ニコラ嬢ったら真っ赤っかじゃないか。上手くいったみたいで良かったよ。……ちなみに奥の手は?」
「何とか使わずにすんだかな」
訳知り顔で話しかけるアロイスに、ジークハルトは喜色を隠すことなく答える。
ニコラは唇を手の甲で隠して唖然とした。あの口付けが奥の手ではないのなら、一体何だというのか。
「……奥の手って、何ですか」
「え、あー……」
言い淀むジークハルトには早々に見切りをつけてアロイスの方を睨めば、アロイスは濡らしたハンカチをニコラに手渡しながら悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ヒント。オリヴィア嬢が亡くなったことで、王太子である僕の婚約者が不在になってしまったよね。従って、新たな婚約者を選出しないといけない」
アロイスはピンと指を立てた。
オリヴィアの生家は、ジークハルトと同じ侯爵家だったことを思い出す。
公爵令嬢ではなく侯爵令嬢が王太子の婚約者だった理由は、ひとえに公爵家の子女に妙齢の令嬢が居ないため。
侯爵令嬢になることが内定してしまったニコラは、火照りなど一瞬で引いて青ざめる。
「……まさか」
「そう。現状、君も僕の婚約者候補に数えられているんだよね」
ニコラは光の速さでジークハルトを振り向き、優美ながらも剣胼胝のある手をひしと握った。
「ジークハルト様、今すぐ婚約しましょう。もらってください今すぐに」
「……ほら、こうなるのが分かっていたから、これを伝えるのは最終手段だったんだ」
げんなりとした表情でジークハルトが零す。
アロイスはケラケラと笑い、いつの間にか戻って来ていたエルンストが「おい! 流石に殿下に対して失礼だとは思わないのかッ!?」とガルガルがなる。
そんな風景に、何だかやっと日常に戻って来た感じがして、少しだけ頬が緩む。
そうして、不覚にも彼らを日常に数えてしまっていることを自覚してしまって、ニコラは小さく目を瞬いた。




