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懐かしい夢を見た。
小さな女の子が虐められる夢だ。
すれ違う誰かの肩に乗っている手。
宙に浮く生首。
地面から生えている腕。
校舎の隅で蠢く黒い靄。
自分にしか見えないモノに怯えて、それを周囲には気味悪がられて、それは容易に虐めへと発展する。
『うそつき』
「うそじゃない」
今なら分かる。どちらの言い分も正しかったのだ。
人には人の〝現実〟がある。
互いの目に映ることやモノが互いにとっての現実で、見えている景色が違う以上、各々の現実にだって齟齬が生じるのは当然のこと。主観と客観はいつだって相容れない。
幼少期、小学校と経るうちに、人と見えている景色が違っていることには次第に気付いて行くものの、だからといって普通の人に溶け込むことは容易ではなかった。
目の前の横断歩道に転がる血まみれの女性を自覚的に踏みつけには出来ないし、妙なモノに追いかけられると逃げるしかない。
それが自分にとっての現実なのだから、仕方がなかったのだ。
そして、視えていない人間からすれば、その行動が奇妙に映ることもまた、仕方のないこと。
やがて、小さな女の子は虐めに耐えかね塞ぎ込み、家に引きこもるようになってしまった。その時点でようやく、あれ、何かがおかしいぞとニコラは気付く。
てっきり前世と今世を合わせた走馬灯を見ているのだと思ってぼんやりと眺めていれば、自分の記憶と明らかに乖離していくのだから、ニコラは慌ててしまう。
「駄目だよ引きこもっちゃ、だって家の中にいたら、」
───見出してもらえない。
前世のニコラは、いつも放課後は近所の神社で時間を潰していた。少なくとも境内にいれば、妙なモノたちに絡まれることも少なかったからだ。
だが、そこで偶然にも現職の祓い屋と出会ったことで、彼女の世界は大きく変わることになる。まさにパラダイムシフト、コペルニクス的転回。
祓い屋の人間と初めて出会ったその日、ニコラは生まれて初めて、自分が狂人なのではないという確信を得ることが出来たのだ。
同じモノを視ている人間が他にも一定数存在していることを知り、専門学校や専門の職業があると知れたこと。それが一体どれほどの感動だったか。
同じ景色を視ている同世代に囲まれて学べた日々が、どれほど得がたい経験だったか。
きっとあの出会いがなければ、ニコラは世を呪ってしまっていただろう。
もしもあの頃、同じ景色を視る人間と出会えていなかったなら、きっと人生は百八十度悪い方向に変わっていたに違いないのだ。
だからこそ、ニコラは似たような経験をしたことのある先人として、小さな子どもに声をかける。
「引きこもってしまうのは良くない! 外にいれば、きっと誰かが見つけてくれるから」
視えないフリにも限度はある。一般の家庭に、突然変異のように生まれてしまった〝視える〟子どもは、同じ視える側の人間に見出してもらう他に、まともに生きていく道はないのだ。
それなのに、家に引きこもってしまっては、同じ景色を視ている人間に出会うことが出来ない。
「つらいのは分かるよ。でも家の中で、一人でいちゃ駄目なんだ」
「同じモノを視ている人は、案外身近にいるものだから、だから!」
「外に出よう、お願いだから!」
ニコラは言葉を尽くして外に出るよう子どもに説得する。だが、子どもの目にニコラが映ることはなかった。
ニコラの言葉は一切その子どもに届いていないようで、途方に暮れて立ち尽くしてしまう。
「駄目だ、駄目なんだよ……。家の中にいちゃ、見つけてもらえない……」
力なく頭を振る。
ニコラは完全に透明人間で、その子どもの未来に干渉出来ることは何ひとつ無いようだった。
やがて、その少女は中学も高校もほとんど通えないまま大人になり、小さな部屋の中で一人慟哭する。
「あたしが狂ってるんじゃない! 視えない周りが狂ってる! 世界がおかしいの! あたしは狂人じゃない!」
───あぁ、あの日、同じ景色を見ている人間に出会えていなかったとしたら、自分もこうなっていたのかもしれないのか。
そう思ってしまえばニコラはもう、何も言えなくなってしまった。
『人には人の現実があるのだから、仕方のないこと』
そんな考え方が出来るようになれたのは、ニコラが同じ景色を共有出来る人物に出会うことが出来たからだ。
〝自分は狂っていない〟という確証を得られないまま生きるなど、想像を絶する地獄だろう。
親にも理解されず「穀潰し」と日々罵倒され、精神の異常を疑われて、ますます内向的になってしまったその彼女の世界は、どこまでも小さな部屋の中だけで完結していた。
ろくに恋愛も出来ないまま大きくなってしまった彼女が、部屋から出ることなく疑似恋愛を体験出来る乙女ゲームに傾倒してしまうのは、当然の帰結だったのだろう。
彼女の特にお気に入りの作品は、ニコラが第二の人生と思って生きて来た、西洋風の架空の王国が舞台の学園モノ。
飄々としてなかなか本心を掴ませない、王道の王子様。
整いすぎた容姿が原因で女性不信になってしまった侯爵閣下。
堅物だが誠実な騎士に、天真爛漫でやんちゃな隣国の王子。
アダルティで遊び人な教師も登場人物と知った時には、さすがのニコラも思わず笑ってしまった。
どうやらニコラとジェミニは図らずも、ゲームの登場人物を学院から追い出してしまっていたらしい。
登場人物の中には他にもニコラの知らない人物も出て来たが、ニコラはそれ以上ゲームのストーリーを深く見るのは止めた。
主人公が誰だったのかも、どんな選択肢を選べばどんな展開になったのかも、興味がないからだ。
それは所詮、誰とも知らない主人公の主観を通した選択の結果であって、ストーリーの外にあったニコラの人生には何ら関係の無いこと。
『誰もが他人の人生の脇役で、自分の人生の主役』その言葉が誰のものだったかは忘れてしまったが、とどのつまり、そういうことだった。
実際、ゲームの筋書きに書かれているほどジークハルトは女性不信にはなっていないし、登場人物だか何だか知らないが、その〝遊び人〟という設定の裏で自殺してしまった人間だって存在する。
ニコラという人間が関わったことで変わった変化もあるだろうし、ストーリーには描かれない画面の外で、確かに生きて、死んでいった人間が無数に存在していた。
世界観のベースはゲームだったとしても、そこに生きる彼らはキャラクターではなく、確かに人間だったのだ。
あの世界で出会った人間たちはニコラにとって、等身大の人間だった。
乙女ゲームの中だか何だか知らないが、所詮そのストーリーは、一人の人物の一主観にフォーカスされたもの以上でも以下でもない。見ず知らずの他人の人生に興味は持てなかった。
やがて彼女はふとした休憩の合間に、ネットの海の中で『願いを叶える儀式』なるものを知ったらしい。
案外、悪魔というものは世間に紛れているもの。カルト教団が崇める神様は、蓋を開けてみれば悪魔だったという話も珍しくはないのだ。
そういった悪魔への対処もまた祓い屋の仕事のひとつだったのだが、正直隅々まで手が回っていたとは言い難い。
彼女が辿り着いたのも、祓い屋たちの目を逃れた悪魔が操るカルト教団のサイトだったのだろう。
見る者が見れば一目で悪魔召喚の儀式だと分かるソレを、無知な彼女は暇つぶしに実行してしまったようだった。
本来なら素人がやってもほとんど失敗してしまう召喚の儀式は、なまじ彼女に素質があっただけに、不幸にも成功してしまったらしい。
───そして、彼女は言われるがままに供物を捧げ、悪魔に願いごとをした。
ケヒッと嗤う声がして、ニコラは振り向く。
「なァ今どんな気分だ──ぁ? 自分を殺して自分が殺した女の走馬灯を見る気分はよ──ぉ?」
だが、振り向いてみても姿はなく、神経を逆撫でする間延びした声が辺りに反響しながら響くばかりでニコラは顔をしかめる。
「……お前がオリヴィアの言う神様?」
そう問えば、姿なき声は一拍の間をあけてゲラゲラとけたたましく笑い出した。
ソレはひたすらに悪意に満ちた声で嗤い続けるので、ニコラは舌打ちする。
「……お前の名前は」
ソレは嗤ってばかりで埒が明かないので質問を重ねる。すると耳障りな嗤い声はぴたりと止んだ。
「ン〜〜? お前らゲルマン系の名前の世界だったナ。じゃあアレだ、ルンプクネヒトとでも呼んでく──れヨ」
「いや、まんま悪魔じゃねーか」
思わず口悪く突っ込んでしまえば、再びソレはゲラゲラと高らかに嗤い出す。
ルンプクネヒト、黒いサンタクロース。それはドイツにおいて、悪魔を示す名前だった。
ヒーヒーッと笑い続ける声の主は暫く笑うだけ笑ったあと、満足げに言った。
「いやァ、お前も一緒に世界に混ぁ──ぜて良かったナ。おかげで面白ぉ──いものが見れた。まさかまさか、相打ち覚悟で呪うたぁ─ナ?」
クククククと、姿なき声はなお嗤う。
「健気だネぇ、愛だぁナ」
「…………愛なんて高尚なものな訳ないだろ」
「愛が高尚なモンだと思ってルあたり、まだまだ青いね──ェ? これだカら人間は面白イ!」
「てかその間延びした喋り方やめろ腹立つな」
「やぁ───だねッ!」
腹いせに、悪意を凝縮したような愉悦にまみれた声の方角に向かってポケットの中のものを引っ掴んで投げつける。
走馬灯も夢の一種と思えば、効果は無くはないだろうと踏んでのことだ。
ポケットに入れっぱなしになっていた幾つかのドリームキャッチャーは、たいした飛距離を飛ぶこともなく放物線を描いて、そのままパラパラと落ちる。
「おー怖ィ怖ぁ──ィ! 退散退散ッ。縁があったらま──た会おうゼ! またナ」
「いや縁も何も、もう死ぬじゃん私」
「キヒッ、多ぁ分アンタ、死なねぇヨ──? 本物のカミサマが、借りがどうのとか供物がどうのとか言ってたからナ」
「は……?」
ニコラは耳を疑った。
はくはくと口を開くがすぐには言葉にならず、ようやく絞りたせた声は情けなくも震える。
「そんな、なんで!? 私はそんなこと願ってない! 私がどんな覚悟で、人を呪ったと……ッ!」
震える拳を握り締める。
人を殺しておいて、自分だけのうのうと生きろとでも言うのかと、ニコラはギリッと歯を食い縛った。
悪魔は愉快で堪らないというように、「可哀想だなァ人間、憐れだナ──愉悦だぁナ!」と喉の奥で嗤う。
「さぁすが、カミサマって──のは理不尽だぁナ! 人間サマのご意向なーンざ知ったことじゃあないらシい! じゃあナ人の子! またいつカ!」
それっきり悪辣に形を与えたような存在の声は聞こえなくなる。
ニコラは力を失って、その場でズルズルとしゃがみこんだ。震える手でぐしゃりと髪を掻き乱す。
ニコラがアロイスとジークハルトを永遠には守り通せなかった以上、何も手を打たなければ二人が死んだ時点で、蠱毒はオリヴィアに跳ね返っていた。
三人死ぬか、二人死ぬか。
ニコラは後者を選び、命は命で贖った、つもりだったのだ。
憐れなオリヴィアの魂を連れて、共に死出の旅を往く覚悟で、ニコラはオリヴィアを呪った。
「願ってないよ、そんなの……願ってなかったんだ…………」




