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ニコラはすかさずエルンストの手を掴み、廊下へ飛び出した。
さすがに人目があるために、すぐに手は離してごく常識的な距離感で並走する。
「おい! ウェーバー嬢、何処へ行く!?」
「あそこでアレを切り刻んでいても埒が明きません。だったら、犯人を突き止めた方がまだ何か進展する可能性が……無くはありません」
ゼロではない、とは言えずに唇を噛む。
ニコラはニコラのコピー。
術者本体の思考や性格、知識や記憶の範囲内で自発的に動く駒だ。
頭の中でリフレインする、『蠱毒に関われば被呪者と呪者の両方の死に目を目にする羽目になる』という、いけ好かないかつての教師の言葉を打ち消すため、ニコラは珍しく必死で走った。
「犯人と言ったな。お前は犯人に当てがあるのか?」
「なくは、ありません。どう、して、そんなことをするの、かはっ、分かりません、けど!」
ニコラの足の遅さにドン引いた顔で並走するエルンストは、喋りながらでも全く息が上がることはない。自分の運動音痴さをこれほど呪ったことはなかった。
だが一説には、人間の第六感は何かしらの著しく劣った能力を補うために発達したのだという。
ニコラの劣った運動神経のおかげで、彼らを救う異能が発現したのだと思えば、何とも複雑な気もする。
「その人間に、今から会いに行くのだな?」
「は、い!」
ニコラを人形で呪った人間と、蜘蛛でアロイスを呪った人間の手口は一部がこの上なく類似している。
蜘蛛が駄目になった瞬間に、間髪入れずに蠱毒がやって来たあたり、全て同一人物が呪っているのではとニコラは考えていた。
───むしろ、こんな悪質な呪詛をやってのける人間が二人も三人もいてたまるかという願望も、多分に入ってはいるのだが。
兎にも角にも、目の前の手掛かりから手をつけるしかない。違った時はその時だと、ニコラは床を蹴る足に力を込める。
そうして男子寮から転がり出た頃には、ニコラは息が上がりすぎてまともに会話が出来ないような状態だった。
さすがに見かねたエルンストが一旦休憩を取ろうとニコラを宥めるので、ニコラは情けないながらもその提案に乗っかる。
休憩を取る合間に、ニコラは男子寮の壁にポケットに入っていたメモ紙を押し付けて、親指の腹を思いっ切り強く噛んだ。
プツッと滲む血の玉を紙に押し付けて『隠』という一文字を篆書で書いていれば、背後からナォンと声が聞こえて振り向く。
見れば、いつぞやの野良というにはやけに毛並みのいい茶トラの猫が、初めて遭遇した時のように四、五メートル先からニコラをじっと見て上げていた。
「エルンスト様、確かめたいことがあるんです。その猫を捕まえておいてください」
「猫を?……本当に必要なのか?」
「必要なんです。お願いします」
釈然としない様子でエルンストは猫に近付くが、猫は泰然自若としたまま逃げることはなく、あっさりと抱え上げられた。
野良にしてはやはり毛並みも恰幅もよく、学生たちから世話をされているのか、人に慣れている様子だった。
もぞもぞとエルンストの腕の中で居心地の良い場所を探して収まるあたり、何とも大物の風格がある。
お触りリベンジしたい気持ちはあるが今はそれを振り切って、ニコラは書き終えたそのメモ紙───即席の隠形符をエルンストの背にぺたっと張り付けた。
「今エルンスト様の背中に貼ったコレは、私以外からは透明人間に見えるお札です」
「透明人間だと!?」
「そういうものだと信じてください。疑わないでください。受け入れてください」
「わ、分かった」
ニコラが凄めば引きつつも頷くあたり、エルンストも着々と順応力が上がりつつあるらしい。
エルンストがちらりと腕の中の猫を見下ろすので、ニコラは少しだけくすっと笑えてしまう。
「大丈夫ですよ。エルンスト様に付属するものはみんな透けます。猫だけ浮かんで見えたりしません」
「そ、そうか」
厳密にいえば、透明というよりは人の認識にとまらなくなる、という方が正しいのだが、ここは手っ取り早く分かりやすい表現で行く。
「これから向かうのは、女子寮です。エルンスト様がいると目立ってしまいますから」
「犯人は女生徒なのか!?」
「まだ分かりません。それを確かめに行きます」
現在は放課後だが、女子寮に居るという確信はない。
もし居なければ片っ端から校舎を探す羽目になるが、アロイスに蠱毒を嗾けたばかりであることを考えると、校舎よりは私室にいる可能性の方が高いだろう。
「私が破壊されてしまうと、私の本体にもほとんどそっくりダメージが反映されるんです。エルンスト様は、私が例えば殺されそうになったりした時だけ、助けてください。そうでなければ、じっと声を上げずに、見守るだけ」
「どんなに意外な人物が相手でも、私たちの会話の意味が分からなくても、静かにしていてくださいね。殿下たちを助けたいなら、この約束を守ってください」
ニコラは深々と頭を下げる。日本式の所作でこの西洋風の世界では浮いてしまおうと、関係なかった。
「……分かった。必ず約束を守る」
「ありがとうございます」
今度は息を乱さないで済むギリギリのスピードで、足早に女子寮へ向かう。
一刻も早く、何か打開策をと、気付けば小走りになってしまう身体を何度も何度も律しながら、ニコラたちは容疑者の部屋を目指した。




