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「〝茶番は仕舞い〟二度も言わせるな」
語気を強めれば、年上の幼馴染の姿を象ったソレの姿は瞬く間に不安定になって、ニコラはほくそ笑んだ。
安い挑発で姿を保てなくなるあたり、随分と小物らしい。
先程まで人型だったものは、今やドロドロとした黒い靄の集合に成り下がった。
これなら祓うとしてもそう手間はかからないだろうなと警戒を緩めれば、目の前の幼馴染からぎゅうっと手を握りこまれる。
靄から目を外してジークハルトを見上げれば、捨てられた子犬のような目とかち合ってしまって、ニコラは舌打ちしそうになった。
癖のない長く美しい銀髪。
しみひとつない白皙の肌と、端麗を極めた目鼻立ちは、怯えた表情でも何一つ損なわれることはない。
造形の女神の寵愛を一身に独占しているような、傾国級、絶世の美男子の潤んだ涙目。ニコラは昔からこれに弱かった。
大丈夫だと頭を撫でてやっても尚、真っ青なままガタガタと怯え続ける年上の幼馴染に、ニコラは舌打ちを飲み込んで深い深いため息を吐く。
それから渋々と、握られた手ごとジークハルトを引き寄せて、その身体を抱き締めた。
「えっ、ニ、ニコラ!?」
本物の方を偽物だと疑う素振りをして見せれば、偽物をおびき寄せることが出来るかもしれないと考えたのは本心だった。
古今東西、凡そのドッペルゲンガー的怪異の目的は、本物に成り代わることだということを、ニコラは知っていたから。
だが、自分ではない偽物の出没に怯えている人間に対して、打ち合わせも前振りもなしに本物かどうかを疑ってみせるのは、少しばかり配慮が足りなかったかもしれない。
偽物を捜し出す手間を惜しんだ自覚がある分、ニコラはきまりが悪かった。
だからこれは、ちょっとした謝意を込めたショック療法。荒療治であって、他意はないのだ。
そっと、細身ながらも引き締まった身体に腕を回す。小さな子どもを安心させるように、トントンと背を叩いてやれば、その効果は有り余るほどで。
ニコラの腕の中で、怯えなどそっちのけで耳まで真っ赤になりあたふたと狼狽えるジークハルトを見れば、やりすぎたかなと思わないでもない。
後の面倒臭さを予見して早くも後悔しながら、ニコラは再び偽物だった靄に目を移した。
「で、お前。真似をして周りを騙すだけならまだ可愛げがあったのに。本物に成り代わりたいと願うのなら、さすがに見逃せないな」
少しばかり力を込めてソレを睥睨すれば、靄は怯んだようにニコラから距離を取ろうと藻掻いて、廊下の奥へと逃げようとする。
「ここを出て行くか、この場で存在ごと消し飛ばされるか。ねぇ低級、どっちがいいですか?」
左腕はジークハルトの背に回したまま、右手は人差し指と中指を立てた刀印を結び、つーっと横一線に薙いでみせれば、先程人型であった頃には首だった辺りで靄は二つに分断される。
切り離された頭側はサラサラと塵になって消え、残った靄はキュキュキュッと縮み上がってこぶし大の球体になった。
球体は宙に浮きながら怯えるように小刻みに震えるので、ニコラは眉根にしわを寄せる。
「そんなに震えないでよ、私が悪者みたいじゃないですか。あはは、出て行くなら祓ったりしないのに」
ぴるぴると震える、意外にもツルリと光沢のある表面の球体を人差し指でくいくいと呼び寄せる。
ビクビクと震えながらも手の届く距離まで近付いたソレを、ニコラはそのまま躊躇なく鷲掴みにして、ポイっと窓の外に放り投げた。
ソレはニコラが腕に込めた力以上の飛距離でピューっと遠ざかって行く。
右手を敬礼のポーズのようして目元に添え、その行く末を見守ってみるも、結局黒い球体は地に落ちることなく彼方へ飛んで行き、やがて夕闇に紛れて完全に見えなくなった。
球体が戻って来る気配がないことを見届けたニコラは、ジークハルトの背に添えていた左手でそのまま背中を掴み、ベリっと容赦なく引き剥がす。
「終わりましたよ」
黒い靄は、無意識に人の負の感情が漏出したモノ。
一人一人からは僅かな感情が滲み出ただけだとしても、大多数が似たような感情を抱いていれば、似たようなモノ同士で集まり結束するのだ。塵も積もれば山となる。
今回の場合は、大多数の人間が同一の人物に向けて、憧憬や羨望、嫉妬といった似たような感情を抱いていたこと、それが数年という時間をかけて凝り固まり、実体と自我を得てしまったこと。
これが大方の顛末なのだろう。
学院には無数の生徒がいるにも関わらず、感情の向かう先がただ一人の人物だという事態がそもそも珍しく、本来であれば滅多なことでは実体を持つまでに至らないのだから、地位も人望も持った傾国級の美貌とは恐ろしい。
だが、ああいった類は感情の供給源から離れてしまえば直に消滅するので、あとはアレが学院に寄り付かなければなんの問題もなかった。 一件落着といえる。
「さっきのは……?」
「あれだけ脅せば戻って来ないでしょう。もう偽物は現れませんよ」
はぁーと安堵のため息をつくジークハルトの目元には、よく見れば色濃い隈がある。最近はあまり眠れていなかったのだろう。
ジークハルトは、男性らしくやや筋張った手でニコラの手を取りそっと包み込んだ。
「ニコラ、本当にありがとう。いつもすまない」
いえ、とニコラは小さく会釈するに留める。
類まれなる美貌を持って生まれたジークハルトは、望んでいなくても様々なものを惹き付けるのだ。
それは人も、人外も問わず。それに関して彼に非はない。
目を離せばすぐにでも死んでしまいそうな人間を前に、見捨てることが出来ないのはニコラの性分であって、これもまた彼に非がある訳ではないのだ。
故意に巻き込まれているのではない事象について詰るほど、ニコラは人でなしではない。
二人は石畳の回廊を並んで歩き出す。
「ところでニコラ。今晩は昔みたいに一緒に寝てくれないかい?」
しかし、突拍子もない発言に関してはその限りでは無い。ニコラは絶対零度の瞳で睨めつけた。
「馬鹿なんです? あぁ馬鹿なんでしたね」
「だって、ニコラを抱き締めていれば安眠出来るから……。それにさっきはニコラから抱き締めてくれたじゃないか」
「あれはショック療法です。そもそも、男子寮に女を連れ込む気ですか? 生徒会長なのに?」
うぐ、とジークハルトが唸る。さすがにこのヘタレ幼馴染も、その程度の理性と常識はあったらしい。
それでも、と彼は珍しく食い下がった。
「空き教室で、仮眠だけ。……駄目、かい?」
見れば、その足元は僅かに覚束ない。
先程も、ニコラがトンと指で押しただけでよろけていたのを思い出して、どうやら本当に限界が近かったのだと気付く。
ニコラは片眉を上げて、肺の中の空気を全て押し出す勢いでため息を吐いてから忌々しそうに「今日だけですよ」と唸った。
手近な教室に入り適当な椅子に座れば、あろう事かジークハルトはニコラの膝に頭を乗せて胴に腕を回す。
さすがにそこまでは許してないと振りほどこうとして、ニコラはくぐもった声に動きを止めた。
「私は、いつまでたっても怖がってばかりで情けないね……」
「…………怖がるのは防衛本能です。恐怖は危険から正しく守ってくれるもの、怖いもの知らずよりよっぽどマシです。貴方はちゃんと、怖がってください」
誰だって、未知のものは怖い。それは理屈ではない、本能的な恐怖であって、正当な反応なのだ。
本人の意思に関わらず、天性の美貌に恵まれたジークハルトは人も人外も魅入らせてしまう。それはとても憐れなことだとニコラは思っていた。
こんな人間に成り代わりたいなどと考えた先程の怪異は、まさに被虐趣味という他ない。
ニコラの言葉に、胴に回された腕の力がふっと緩む。
「そうやって、ニコラだけは私の弱さを許して認めてくれるから、私は救われているん、だ…………」
室内はひどく静かで、後には膝の上で眠る男の寝息ばかりが低くおだやかに響く。
ニコラのお腹に顔を埋める寝顔は普段よりも幾分と幼く見える。窓の外はすっかり日も落ちて暗くなっていた。
「あーもう」
振り落とすタイミングを逸してしまったことに気付いたニコラは、本日何度目か分からないため息を吐いて、ふてぶてしく机に頬杖をついた。