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ハァ、ハァ、ハァと、荒く息をつきながら、ニコラは結界の向こう側にいる蜜蜂を睨みつけた。
辛うじて結界が間に合ったことに安堵して、震える手を自分で握り込む。
「これが……蠱毒」
ソレはもはや滅茶苦茶な禍物だった。
這い寄る濃密な死の気配に思わず生唾を飲む。脂汗が滲み出るようなプレッシャーに怖気が止まらない。
あのウィステリアに囲まれた廃墟で思い浮かんだ最悪の想定は、どうやら当たっていたらしいとニコラは唇を噛んだ。
蜜蜂も蜂の名に違わず、アナフィラキシーショックを起こし得る毒を持つ。
屋敷の主人の夜逃げのあと、ガラス張りの温室の中で飢えた大量の蜜蜂は共食いの果てに、天然の蠱毒へ成り果ててしまったのだろう。
「殿下ッ!? 閣下ッ!?」
訳も分からずがむしゃらに何重にも張った結界の一番内側にあたる、ベッドの上にいた三人を囲う結界は、立ち位置的にエルンストと顕現した式神の二人を隔ててしまったらしい。
エルンストは透明の障壁をバンバンと叩いて声を荒らげる。
「おいウェーバー嬢! 何が起きている! 悪夢は終わったんじゃないのか!」
「蜘蛛は終わりました! でも蜂が!」
混乱したニコラの説明も支離滅裂で、これでは何も伝わるまいと頭の隅では思いながらも、論理的な説明を思い付く余裕もない。
「後ろの! 蜂が!」「今度は蜘蛛じゃなくて蜂!」
「「今こそその目ん玉カッ開いて! 主君に血反吐を吐かせている存在が今そこにいるんですってば!」」
ジークハルトに持たせていた、死の危機に瀕した瞬間にに自発的に顕現するように術を施した式神と、自身の声がぴたりと完全に重なる。
エルンストはニコラたちの剣幕に言われるがまま背後を振り返り、一度ぐっと目を閉じて、そして意を決したようにカッと目を見開いた。
「蜂!? これか……!? これは、蜜蜂、なのか?」
方角、仰角、どんぴしゃり。エルンストの視線はまっすぐ蜂を捉えていた。
「「そう! それ!」」
「なッ!? お前は何故二人もいる!? 双子だったのか!」
「違う!」「それは後!」
全くもってそれどころではないのだ。
ニコラの本体は、血反吐を吐いて意識もなくなったアロイスとジークハルトを窒息してしまわないように転がして横にする。
幸い、結界であの禍物が一定以上には近付いて来れないためか、状態がこれ以上悪化することはなさそうで、ニコラは僅かに胸を撫で下ろした。
体勢を横にしたことで、二人の胸元からは形代が滑り落ちる。
割れてしまった形代は、アロイスが三枚、ジークハルトが一枚半。
ニコラ自身はといえば、とんでもない禍物に対する生理的な嫌悪と忌避感以外には特に影響は無い。エルンストにも影響は無さそうだった。
そこから考えられることは一つだけ。
誰かが蠱毒を使って再びアロイスを呪ったのだ。
ニコラがまだアロイスとジークハルトの縁を解く前だったために、ジークハルトは夢で繋がっているアロイスのダメージを何割か共有しているのではないかとニコラは推測を立てる。
ずっと不思議だったのだ。いや、胸騒ぎがしていたという方が正しいか。
蠱毒となってしまった最後の一匹は、どうやって魔除けのウィステリアが一部の隙もなく蔓延る屋敷の中から抜け出したのか。
その価値や用途を知る何者かが、連れ出したのではないかと。
「おい、ウェーバー嬢! 俺は難しいことは良く分からないが、あの蜂を殺せば事態は変わるのか!?」
エルンストがニコラを振り返って吼える。
ニコラは自分の式神と顔を見合わせるが、答えは出ない。
当然だった。ニコラの分身なのだから、知識も記憶も全く同じ。ニコラ本体が確証を持てないことを、式神が判断出来るはずもない。
「……やってみないことには、分かりません」
「ならやるぞ!」
ニコラは残ったありったけの形代にアロイスとジークハルトの名前を書き、それからエルンストと蠱毒との間の結界を解く。
その瞬間、エルンストの姿は掻き消え、瞬きの一瞬の後にはもう、蜜蜂は斬り伏せられていた。
「は、はっや……!」
だが、真っ二つになった蜜蜂は地に落ちることなく、斬られた断面を再生させながら不快な羽音を鳴らし続ける。
エルンストが二閃三閃と長剣を振って細切れにしてみても、ことごとく再生してしまい羽音が止むことはなかった。
「私!」
「任せろ私!」
ニコラが式神に目配せすれば、式神は即座にエルンストの手を掴み、部屋の外へと走り出した。
ニコラは蜂が完全に再生しきる前に再び印を組み、結界を張り直す。
〝あんなモン、作る奴も使う奴もマトモじゃねェ。おめーらも実物を見りゃ分かるだろォよ〟
ふと前世の教師の言葉を思い出す。
被呪者に近付いただけで血反吐を吐かせる、とんでもない禍物を前に、ニコラは「まったくだよ」と呟いた。
冷や汗が背筋を滑り落ちる。
嫌な持久戦の幕開けだった。




